学校編
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しとしとと降り続けた雨も終わりを迎え、世間には夏がやってくる。
暑苦しさを感じるようになった制服に身を包み、今日は教棟ではなく現場訓練である。湿気こそないがアスファルトの照り返しが、制服の中を地道に熱し続ける。さらさらと枝垂れた飾りが、あちこちの街灯につけられてよく靡いた。教官と、隣に立つ現場の上官から注意事項を説明される。
〝雑踏警備〟と呼ばれる、要は祭りやイベント等の人が集まる場で、事故や事件を防ぐための警備訓練である。今日は東都のなかでもいち早い夏祭りが行われる。時期が早いことと、花火が打ち上げられることもあり、人の入りはなかなかのものだ。
それぞれ無線を配られ、列整備の者や見回りの者に分かれて配置される。もしかしなくとも、訓練も兼ねた人手補充ではないだろうか。私は後ろ手を組んで、花火の見える橋の人波を整備しながら、憂鬱にため息をついた。
慣れなければいけないことだが、どうにもこういった祭りごとに来る輩は――。
「この橋は一方通行です、立ち止まらず前に進んでくださーい」
「お姉さんそれバイト?」
「勤務中ですので。前に進んでくださいね」
「え~、かわいい。バイト終わったら一緒に祭りまわる?」
数人の男に囲まれながら、私は表情筋が引き攣るかと思うほどに真顔を保っていた。彼らも多少酒が入っているらしく、喋るとアルコール臭が鼻をつく。はぁ、と視線を逸らして息を吐いた。
警官になる以上、立ち姿を舐められるのにも何とか対処しなければと毅然としてみたものの、相手は酔っ払いである。傷害や恫喝でもない以上あまり乱暴に出るわけにもいかず、私はロボットになりきって無関心に答えるだけだった。
そのうち飽きて去っていく輩が殆どだが、何せこれで五組目である。いい加減溜息の数もカウントできなくなってきた。
「おねえさーん、駅どっち」
「はいはい、あっちを右に曲がってくださいね」
こんな、なんてことのないただの一般客さえ、今は心優しい貴族に見えるほどである。私が記念すべき六組目の酔っ払いたちを相手していると、一人の男が私の腕を掴んだ。
「もうすぐ花火はじまっちゃうよぉ、ねえ」
「いえ、ですから……私は勤務中です」
もう少しこっちに寄ってくれたら、職務妨害で少々手荒にでようかとも思ったのだが。正直一番ウンザリするのは、以前の自分がこんなくだらない輩と同じようなことをしていたことである。本当にくだらないし、される身からすれば、ただただ鬱陶しい。過去の自分へのやるせなさが、私を益々苛立たせた。
「橋の上は立ち止まらず、歩いて進んでくださいね」
「こっちこっち」
「あの、これ以上は公務執行妨害になりますよ」
「えぇ~、俺捕まっちゃうのぉ」
けらけらと、目の前の男たちが笑いはじめる。この腕、引き寄せて一本背負ってやろうか。脳内でシュミレーションをしながら、再び断りを入れようとした時、雑踏に混ざって一つ抜けた声がした。
「橋の上は立ち止まらず、真っ直ぐお進みください」
私が何度も言った台詞と変わりないものだったが、どこか有無を言わさない色を含んだ言葉。彼はしっかりとした口調で、まさか未だ訓練中とは思えないような鋭い視線を男たちに向けた。
「公務執行妨害――刑法に準じ、三年以下の懲役もしくは禁錮刑、五十万以下の罰金に処せられます」
決して荒い言葉ではないのが凄いと思った。私はあれほど苛々としていたというのに、その淡々とした言葉に、男たちは少し気まずく顔を見合わせる。暫くしてすごすごと踵を返す様子を見送り、私は正面を向いたまま声を掛けてくれた男を見上げる。
「ありがとう、諸伏くん。正直助かった」
「いや、実際女の人には不利だよな、こういう現場は」
どうにかしなきゃいけないんだろうけど――と言葉を続けると、諸伏はハっとしたようにこちらを向く。頬を軽く掻くと、やや顎を引いて上目遣いに尋ねた。
「悪い、助けないほうが良かった?」
「ううん。まあ、何とかしなきゃいけないけどね、やり方はばっちり今覚えたから」
「そうか、なら良かった」
諸伏も勤務している風体にするために、前を向き後ろ手を組みながら、軽く肩を竦める。配置された時は、確か同じエリアではなかったと思う。人が増えてきたからこちらに回されたのだろうか。
「すみませーん、トイレットペーパーないんですけど」
声を掛けられたかと思えばそんな内容で、私はハァと溜息をついた。まあ、アル中や喧嘩に巻き込まれるよりは平和で良いのかもしれない。はいはい、と返事をしたものの、トイレットペーパーの場所なんて警備員が知っているはずもないのだ。
「あ、それなら俺知ってるよ。行こうか」
「なんで知ってんの……? うーん、でも私も一応場所覚えておこうかな」
また聞かれても困るし、と笑うと、諸伏もつられたように笑う。そして「さっき担当していた場所でも聞かれたんだよ」と言った。――祭り前くらい、トイレットペーパー補充しとけよ。私は内心町内会に文句を垂れながら、人混みから少し外れた場所を歩いていく。
出店の並ぶ通りを一歩外れると、いつもどおりの住宅街にちらほらと人が歩いている程度だ。表通りはあっちこっちがライトに照らされていて目映い印象を受けるので、普段通りの道はやけに暗く感じた。ぽつぽつと立った街灯が、なんだか物足りなく思える。
「夏祭りなんて来たの、久しぶり」
「へえ、意外だな」
「そういうふうに見える?」
「うん。高校生活満喫してそう。――でも、俺も結構久しぶりだよ」
はは、と人が良いように笑った後、諸伏も少し表通りに視線を遣った。懐かしむような、優し気な目つきだ。飾られた提灯飾りの灯りが、彼のツンとした鼻先をオレンジに照らしていた。
「俺の地元は、こんなに大きな祭りじゃなかったけど」
「小さい神社とかでやるやつ?」
「そうそう、参道に出店出てるやつ」
私も、記憶にある夏祭りはそういったものが印象強かった。正直に、女として生まれてからは人混みに行きたがらなかったので(だって、疲れるのが分かっていたから)、最後に行ったのは俺の頃。妹の手を引いて、施設の近くの夏祭りに行ったのだ。諸伏が言うような、近所の神社で開かれた奉納祭だった。
「りんご飴とチョコバナナだったら、どっち派?」
「綿あめかな」
「むかつくくらい可愛かったわ、今の」
どう考えてもゆるふわな女の子の回答だったでしょ。しかもあまりに事も無げに言うのが、尚更可愛くて鼻についた。むっと口を突き出して拗ねたら、苦笑しながら「なんでだよ」と言われる。
「高槻さんは」
今の話の流れでは、何が好きだった、ということだろう。
正直、妹と行った前は、当時つるんでいた不良仲間と行ったものなので、殆ど酒とツマミで終わっている。記憶にある僅かな夏祭り要素を拾い集めて、ウーンと唸った。
「あ……飴細工」
そう口にしたのは、記憶の中を辿った単語ではなかった。歩いていた道路が丁度十字路で、表通りの出店が目に入ったのだ。古風な屋台にたくさん刺さった、動物の形の飴細工だ。別に甘い物が好きかと言われればそうでもないのだけれど、視線に止まったそれをつい言葉に出してしまった。ほとんど無意識だった。
無意識だったので、言葉に出したことを認識するまでも時間が掛かった。ハ、と気を取り直したときには、諸伏は制服の上着を脱いで、腰に巻きつけていた。黒いインナーを着ていたので、見た目的にはさながら工場で働く風に見えなくもない。彼は腰を捻って姿を確認すると、道の抜けた先にある飴細工屋まで小走りで駆けて行った。
――え、なに、なんで。
ぽかんと軽く口を開けていると、彼は手に二つ小さめの飴を持って帰ってくる。桜の花を模った乳白色の飴細工、先端には淡く桜色が掛かっていた。彼は情けないように眉を下げて、片方を私に差し出した。
「ごめん、花は好きじゃなかったか」
驚くばかりの私に、諸伏はそう言った。違う、そうではない。すぐに否定したかったけれど、上手く言葉が出てこない。
思い切り女の子扱いされているようで――そんなこと、初めてではないのに。今までだって女として、扱われていたはずなのに。とにかく恥ずかしくて。だけど、確かに嬉しい。可愛い、と形容した彼の笑みが真っ直ぐ見上げられない。飴細工を受け取ると、深爪に指先が触れた。
恥ずかしさに負けないよう、小さな声で「ありがと」と告げた。
ちょうど花火が打ちあがる時間で、音に負けてしまって、もしかしたら諸伏には届かなかったのかもしれない。
暑苦しさを感じるようになった制服に身を包み、今日は教棟ではなく現場訓練である。湿気こそないがアスファルトの照り返しが、制服の中を地道に熱し続ける。さらさらと枝垂れた飾りが、あちこちの街灯につけられてよく靡いた。教官と、隣に立つ現場の上官から注意事項を説明される。
〝雑踏警備〟と呼ばれる、要は祭りやイベント等の人が集まる場で、事故や事件を防ぐための警備訓練である。今日は東都のなかでもいち早い夏祭りが行われる。時期が早いことと、花火が打ち上げられることもあり、人の入りはなかなかのものだ。
それぞれ無線を配られ、列整備の者や見回りの者に分かれて配置される。もしかしなくとも、訓練も兼ねた人手補充ではないだろうか。私は後ろ手を組んで、花火の見える橋の人波を整備しながら、憂鬱にため息をついた。
慣れなければいけないことだが、どうにもこういった祭りごとに来る輩は――。
「この橋は一方通行です、立ち止まらず前に進んでくださーい」
「お姉さんそれバイト?」
「勤務中ですので。前に進んでくださいね」
「え~、かわいい。バイト終わったら一緒に祭りまわる?」
数人の男に囲まれながら、私は表情筋が引き攣るかと思うほどに真顔を保っていた。彼らも多少酒が入っているらしく、喋るとアルコール臭が鼻をつく。はぁ、と視線を逸らして息を吐いた。
警官になる以上、立ち姿を舐められるのにも何とか対処しなければと毅然としてみたものの、相手は酔っ払いである。傷害や恫喝でもない以上あまり乱暴に出るわけにもいかず、私はロボットになりきって無関心に答えるだけだった。
そのうち飽きて去っていく輩が殆どだが、何せこれで五組目である。いい加減溜息の数もカウントできなくなってきた。
「おねえさーん、駅どっち」
「はいはい、あっちを右に曲がってくださいね」
こんな、なんてことのないただの一般客さえ、今は心優しい貴族に見えるほどである。私が記念すべき六組目の酔っ払いたちを相手していると、一人の男が私の腕を掴んだ。
「もうすぐ花火はじまっちゃうよぉ、ねえ」
「いえ、ですから……私は勤務中です」
もう少しこっちに寄ってくれたら、職務妨害で少々手荒にでようかとも思ったのだが。正直一番ウンザリするのは、以前の自分がこんなくだらない輩と同じようなことをしていたことである。本当にくだらないし、される身からすれば、ただただ鬱陶しい。過去の自分へのやるせなさが、私を益々苛立たせた。
「橋の上は立ち止まらず、歩いて進んでくださいね」
「こっちこっち」
「あの、これ以上は公務執行妨害になりますよ」
「えぇ~、俺捕まっちゃうのぉ」
けらけらと、目の前の男たちが笑いはじめる。この腕、引き寄せて一本背負ってやろうか。脳内でシュミレーションをしながら、再び断りを入れようとした時、雑踏に混ざって一つ抜けた声がした。
「橋の上は立ち止まらず、真っ直ぐお進みください」
私が何度も言った台詞と変わりないものだったが、どこか有無を言わさない色を含んだ言葉。彼はしっかりとした口調で、まさか未だ訓練中とは思えないような鋭い視線を男たちに向けた。
「公務執行妨害――刑法に準じ、三年以下の懲役もしくは禁錮刑、五十万以下の罰金に処せられます」
決して荒い言葉ではないのが凄いと思った。私はあれほど苛々としていたというのに、その淡々とした言葉に、男たちは少し気まずく顔を見合わせる。暫くしてすごすごと踵を返す様子を見送り、私は正面を向いたまま声を掛けてくれた男を見上げる。
「ありがとう、諸伏くん。正直助かった」
「いや、実際女の人には不利だよな、こういう現場は」
どうにかしなきゃいけないんだろうけど――と言葉を続けると、諸伏はハっとしたようにこちらを向く。頬を軽く掻くと、やや顎を引いて上目遣いに尋ねた。
「悪い、助けないほうが良かった?」
「ううん。まあ、何とかしなきゃいけないけどね、やり方はばっちり今覚えたから」
「そうか、なら良かった」
諸伏も勤務している風体にするために、前を向き後ろ手を組みながら、軽く肩を竦める。配置された時は、確か同じエリアではなかったと思う。人が増えてきたからこちらに回されたのだろうか。
「すみませーん、トイレットペーパーないんですけど」
声を掛けられたかと思えばそんな内容で、私はハァと溜息をついた。まあ、アル中や喧嘩に巻き込まれるよりは平和で良いのかもしれない。はいはい、と返事をしたものの、トイレットペーパーの場所なんて警備員が知っているはずもないのだ。
「あ、それなら俺知ってるよ。行こうか」
「なんで知ってんの……? うーん、でも私も一応場所覚えておこうかな」
また聞かれても困るし、と笑うと、諸伏もつられたように笑う。そして「さっき担当していた場所でも聞かれたんだよ」と言った。――祭り前くらい、トイレットペーパー補充しとけよ。私は内心町内会に文句を垂れながら、人混みから少し外れた場所を歩いていく。
出店の並ぶ通りを一歩外れると、いつもどおりの住宅街にちらほらと人が歩いている程度だ。表通りはあっちこっちがライトに照らされていて目映い印象を受けるので、普段通りの道はやけに暗く感じた。ぽつぽつと立った街灯が、なんだか物足りなく思える。
「夏祭りなんて来たの、久しぶり」
「へえ、意外だな」
「そういうふうに見える?」
「うん。高校生活満喫してそう。――でも、俺も結構久しぶりだよ」
はは、と人が良いように笑った後、諸伏も少し表通りに視線を遣った。懐かしむような、優し気な目つきだ。飾られた提灯飾りの灯りが、彼のツンとした鼻先をオレンジに照らしていた。
「俺の地元は、こんなに大きな祭りじゃなかったけど」
「小さい神社とかでやるやつ?」
「そうそう、参道に出店出てるやつ」
私も、記憶にある夏祭りはそういったものが印象強かった。正直に、女として生まれてからは人混みに行きたがらなかったので(だって、疲れるのが分かっていたから)、最後に行ったのは俺の頃。妹の手を引いて、施設の近くの夏祭りに行ったのだ。諸伏が言うような、近所の神社で開かれた奉納祭だった。
「りんご飴とチョコバナナだったら、どっち派?」
「綿あめかな」
「むかつくくらい可愛かったわ、今の」
どう考えてもゆるふわな女の子の回答だったでしょ。しかもあまりに事も無げに言うのが、尚更可愛くて鼻についた。むっと口を突き出して拗ねたら、苦笑しながら「なんでだよ」と言われる。
「高槻さんは」
今の話の流れでは、何が好きだった、ということだろう。
正直、妹と行った前は、当時つるんでいた不良仲間と行ったものなので、殆ど酒とツマミで終わっている。記憶にある僅かな夏祭り要素を拾い集めて、ウーンと唸った。
「あ……飴細工」
そう口にしたのは、記憶の中を辿った単語ではなかった。歩いていた道路が丁度十字路で、表通りの出店が目に入ったのだ。古風な屋台にたくさん刺さった、動物の形の飴細工だ。別に甘い物が好きかと言われればそうでもないのだけれど、視線に止まったそれをつい言葉に出してしまった。ほとんど無意識だった。
無意識だったので、言葉に出したことを認識するまでも時間が掛かった。ハ、と気を取り直したときには、諸伏は制服の上着を脱いで、腰に巻きつけていた。黒いインナーを着ていたので、見た目的にはさながら工場で働く風に見えなくもない。彼は腰を捻って姿を確認すると、道の抜けた先にある飴細工屋まで小走りで駆けて行った。
――え、なに、なんで。
ぽかんと軽く口を開けていると、彼は手に二つ小さめの飴を持って帰ってくる。桜の花を模った乳白色の飴細工、先端には淡く桜色が掛かっていた。彼は情けないように眉を下げて、片方を私に差し出した。
「ごめん、花は好きじゃなかったか」
驚くばかりの私に、諸伏はそう言った。違う、そうではない。すぐに否定したかったけれど、上手く言葉が出てこない。
思い切り女の子扱いされているようで――そんなこと、初めてではないのに。今までだって女として、扱われていたはずなのに。とにかく恥ずかしくて。だけど、確かに嬉しい。可愛い、と形容した彼の笑みが真っ直ぐ見上げられない。飴細工を受け取ると、深爪に指先が触れた。
恥ずかしさに負けないよう、小さな声で「ありがと」と告げた。
ちょうど花火が打ちあがる時間で、音に負けてしまって、もしかしたら諸伏には届かなかったのかもしれない。