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「なるほど、この指輪の持ち主を探している……ですか」
事の経緯を説明すると、沖矢はゆったりと頷いた。
真実は分からないが、もし彼が――あの事件で真相を解いた人だとすれば、何か分かるかもしれないと、私は少し――いやかなり大袈裟に期待していた。彼が手にするとずいぶん小さく玩具のように見える指輪を、丁寧にハンカチに包んで持ち上げる。
「気になるのは、その男がかなりの大柄だったこと。そして、振り向いた時には煙のように消えてしまっていたこと――ですね」
「ぱっと見た感じ、多分沖矢さんより高かったかと……多分ですけど」
言葉にしているうちに自信がなくなって、尻すぼみになった言葉を沖矢はゆるく首を振り「そう言わず」と告げた。
「その方を見たのは貴方だけなのですから、しっかり証言して良いんですよ」
「……うん、その人、もしかして容疑者かもしれないしね」
沖矢の摘まんだ指輪を見て、コナンが少し険しい顔をした。容疑者って、と私が笑い飛ばすと、大きい瞳が鋭さを持って此方を見る。
「その男の人、急いでる風じゃなかった? 怖い顔してたり……」
「ま、まあ……そう言われれば、ちょっと余裕なさそうだったかな。顔は見えなかったけど、不愛想な人だなあって思って」
「容疑者って、まさか……」
哀が顔色を変えてコナンのほうを振り向くと、大きな頭が真剣に頷いた。
「傷害事件……いや、もしかすると殺人事件のだよ」
「ひっ、な、なに言ってるの。大げさだよ……そんな、そんなの」
殺人という言葉に、嫌な記憶がフラッシュバックする。つい息を呑みながら、私は無理に口の端を持ち上げて笑った。指輪を落としただけ――その落とし主が、少し不愛想で大柄な男だっただけだ。確かにぶつかった時の印象は良くなかったが、何もそれだけで人を――だなんて、考えたくもない。
「彼女とかに、指輪を贈るつもりだったんじゃないかな……。すごい綺麗な指輪だし、プラチナだよね」
「――……贈る指輪を裸にして持ち歩くかな。箱とか、そうじゃなくても何か入れ物に入れてるものだと思うけど」
「じゃ、じゃあ……あの、その、私みたいに落とし物を拾ったのかも」
ね、と言い聞かせたのは誰に向けた言葉だっただろうか。
「そうだけど……。見て、指輪の内側に血の擦れた跡がある。飛び散った、じゃなくて」
「そんなの錆び汚れとかだよ! わ、私もよく指とか切っちゃうし、血がつくことなんておかしくないんじゃ……」
五月蠅い心臓を黙らせるように声を荒げた。
自分でも、自分の言っていることが言い訳がましいとは、頭のどこかで思っていた。贈り物をするなら、錆び汚れがあるのは可笑しいと分かっているのだが、感情が落ち着かなかった。不安に組んだ指を擦り合わせる。
人の死は恐ろしい。直面して初めてそう思う。
先ほどまで立って歩いて、笑って、話していたような人が、ほんの数分の出来事ですべてを失う。ユキの死に顔も、決して綺麗なものではなかった。葬儀の時に見た、あの美しい眠るような表情で死ねたら良いだろうなあと思った。――しかし、そうではないのだろう。殺された人は、苦しく、何かに絶望をし、必死になって――やがて死ぬのだ。
それが、誰かの手によって下されるのはひどく――恐ろしい。
「はい、そこまで」
ぴたり、と頬に冷たいものが寄せられる。荒くなった息が止まった。視線を冷たいものへと移すと、青い瓶が傾いてビー玉が転がった。大きな手が、瓶を頬から離していく。
「お姉さん、大丈夫? 顔、青いよ……」
「あ……ごめんね。大丈夫だよ」
歩美が眉をへにゃりと下げて私を見上げた。いつかもこうして、私のことを気遣ってくれたと思う。彼女のふっくらした頬と小さな手を見て、息をついた。心拍が落ち着くのを感じる。
「沖矢さんも、すみません」
「いいえ。取り乱すのも無理はないのですから」
――理由を言わないところに、沖矢の僅かな気遣いを感じた。それ以上言及することはなく、彼はいつも通り、穏やかな口調で語った。どこか気障ったらしく、小説のなかの探偵のような、あの語り方だった。
「高槻さんの言い分も分かります。可能性として、その場合もじゅうぶん考えられますから。しかしボウヤがそう言うのは、指輪の血痕が擦れているから。外してから血が飛んだのだったらただの血痕のはずですよね。擦れたということは、血がついてから指輪を抜かれたか――そういう動作で、内側に付着した血が擦れたということ」
彼は分かりやすく、指から指輪を外すような仕草をする。
「しかも、この血、まだ変色していない――。となると、血が付着したのはここ数十分の間です。だから、ボウヤは誰かが襲われて、何らかの証拠隠滅のために抜かれたものではないかと思った……そうだろう」
「うん。ごめんね、お姉さん。でも、お姉さんの証言だけが頼りだったから」
コナンは、私に向かって申し訳なさそうに――しかし、ハッキリと言い切る。格好いいと素直に感じた。こんなにも小さな体だというのに、もしかしたらどこかで倒れている誰かのために、ここまで感情を動かせるのか。どこか怒りも混じった真剣な声色に、私も頷く。
「私こそ、ごめん。そうだよね、誰かがどこかで怪我、してるかもしれないんだから」
――死んでいるとは思いたくない。言葉を濁したものの、コナンは特に触れることなく尋ねる。
「うん。お姉さんがその人とすれ違ったのって、どこらへんか分かる」
「え、ええ。そこだよ、その……酒屋さんの前。籠や瓶がいっぱい積んであったの覚えてるから」
私は、席から見える向かい側の歩道を指さした。
「手前にある、パン屋さんのチラシ見てたんだ。バイト探してて……そしたら、背中にどんってぶつかってきたのがその人だったの。その時チリンって音がしたから、きっとあの人が落としたんだろうって思ったんだけど」
「不愛想以外に、変なところなかった? 服とか、覚えてない?」
「え、えっと……えっと……」
組んだ親指をすりすりと合わせながら記憶を辿る。いまいち、自信がなかった。すれ違っただけだったし、ほとんど逆光になって顔や服まで目がいかなかった。ぼんやりと覚えてはいるが、果たして記憶なのか、想像なのかも分からない。もし間違っていたら、他の人を探している間に、誰かが死ぬなんてことがあったとしたら。
「〝失敗するのは人の常だが、失敗を悟りて挽回できる者が偉大なのだ〟」
落ち着いた声が、小難しく告げた。私がぱっと顔をあげると、沖矢はニコニコと笑ませた口角を少し強張らせていた。
「ホームズの言葉です。大丈夫、間違っていても、そのあと何とかしましょう」
「……い、意外。沖矢さんって、何とかしようとか……言うんですね」
「勿論。僕らは機械じゃあない。だろう?」
問いかけるように放った言葉は、恐らくわざとフランクな口調で、僅かに肩の力が抜けた。そうだ、恐れないで、まずは始めなければ。
記憶を辿る。何か、可笑しなところ。変わったところ。何でもいい、何でも――。
「……特売シール」
私は自分のトートバックを眺めた。少年たちが復唱する。「とくばいシール」とたどたどしい発音だった。
「その、スーパーで買い物をして……。今日は特売日で、私たくさん買ったの。これ! ネギ……これも特売品だったんだけど、形が悪いからって黄色いテープがついてて……」
トートバックからぴょんと頭が飛び出したネギの袋。ぐるりと回してみるが、黄色いテープがどこにもない。
「も、もしかしたら、どこかで落としたりしたのかもしれないの。結構適当に貼られてて端っこが浮いてたし……でも、もしかしたら……」
「その男にぶつかった時、貼りついた」
コナンが、私の言葉の続きを代弁した。私はその言葉に、不安げに頷く。
「服は、そんなに目立つ格好じゃなかったと思う……本当に記憶に残らないくらい。白、とかだったかも……?」
「血のついた服を着ていなかったのなら、もう着替えた後だったのでしょう。つまり、まだその服装でいるかも」
「灰原、警察に連絡してくれ。服のどこかに黄色いテープが付いたやつ、見つけたら刺激せず、バッジで知らせんだぞ」
「うん!」
子どもたちが、まるで警察官のようにぴしっと敬礼をした。
「え!? キミたちも見つけるつもりなの!?」
「あったり前だろ。オレたち、少年探偵団だぜ」
ニッカリと歯を見せて笑うと、彼らは恐れもせずに商店街に飛び出していった。私はテーブルの会計を済ませると、まだちょこまかと街を走る彼らを見つけ――心配で、早足に追いかけていった。