First
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時は少し過ぎ、事件から二か月が経つ。
ユキの葬儀や四十九日も終え、ひと段落がついた頃だ。私の生活も少しずつ元に戻り、虚しくも周囲の人々の話題からも消えつつある。忘れられるわけもないが、重たく引きずるようだった大学への足取りも、一晩毎軽くなっているのは確かだった。
分厚い教科書をロッカーに仕舞い、荷物を纏める。バイトも辞めてしまったので、大学生活はひどく退屈だ。貯金の不安もあるので、そろそろ良いところを探そうか――そんなことに思考を飛ばしながら、広い校内を歩く。丁度校門に差し掛かったあたりで、なじみのない声に引き留められる。
「高槻さん、ちょっと良いですか」
ぴしっとアイロンのかかったグレーのスーツ。以前会った時よりも、僅かに穏やかな声色をしている気がした。高木は手帳を見せて、お久しぶりですと爽やかに笑んだ。
彼の言うままに車に乗り込むと、気づかわし気な声色が「元気そうでよかった」と言う。事情聴取の時、それはもう――(今思い出しても恥ずかしいほど)泣いて、泣いて、泣きじゃくって、恐らくあの一週間で一生分の涙を絞り出した。高木はそれを覚えているのだろうと思う。
「その、あの時はすみません……取り乱していて……」
「いやいや、その節は捜査協力ありがとうございました」
高木は手帳を胸ポケットに仕舞いこみ、改めて私の方を見つめる。
「それで、本日伺ったのは一つご報告を……」
「報告ですか」
「荻野慎也さんの裁判の日程が決まりまして」
その名前を、久方ぶりに人の口から聞いた気がした。
大学の友人は気を遣って名前を出さなかったし、ユキもいない今、彼を呼ぶ人は周りにいなかった。私も、実に二か月ぶりにその名前をポツリと呟く。
「……死刑に、なったりするんですか」
そう尋ねたのは、ほぼ無意識だった。独り言に近いものだったかもしれない。高木は一瞬目を見開き、すぐに言葉を篭らせる。
「詳しくはまだ――……彼も容疑を認めていますが。ただ、今の法律で死刑は難しいかもしれませんね」
「そうですか」
相槌を打った私の声色は、どこか安堵に満ちていた。
自分でもそれが意外で、少々驚く。心のどこかでは、恐れていた。許せないと思いながらも、これ以上誰かの命が失われることに恐怖していた。私はゆるく口角を上げる。わざわざ足を運んでくれたことに対して礼を述べると、高木はとんでもないと首を振った。
「実はこんなことを言っちゃいけないんですが、ちょっと気になって……いつもは電話連絡なんですけど」
「そうでしたか」
「ほら、言っていたでしょう。人を殺す正当な理由なんてない――アレ、染みちゃって」
はにかむ表情は、どこか人として憎めない愛嬌があって、私もつられて頬を染めた。
――そう、どうやらあの遠くで聴いていた声は、私が喋っていた――と、私を見る人は言うのだ。といっても、すぐに意識を失ってしまったので、実際に見たという証言は、高木と目暮からしか聞いていない。
曰く、酔っぱらったようにふらついて倒れたと思ったら、別人のように推理を始めた――まるで眠りの小五郎であったと、彼らは感心そうに語っていた。
もしかして二重人格の気でもあったのかと思いもしたが、残念ながらその先二か月、私は私でしかなかった。
「こちらこそ、職権を濫用するような真似をしてすみません」
「いえいえ! ……さっきから、頭下げっぱなしですね」
「確かに」
アハハ、と高木が頭を掻いて笑う。絵に描いたような苦笑いだった。では、と日程を聞いて帰ろうとして、私はドアに掛けた手を止める。
「そうだ、一つだけ聞きたいことがあるんですが……」
私が顔を振り向かせると、彼は首を傾げてはい、と語尾を上げた。
「その……私を送ってくれた沖矢さんって人、お礼を言いたいんですが」
何か知りませんか。おずおずと問いかける。
あの短い時間であったが、一言礼を述べたかった。何に対して――と問われると、悩んでしまう。彼に直接何かをされたわけでもないし、寄り添って背を擦られたわけでもない。しかし、彼の存在に救われたような気持ちになっている自分がいた。彼の背中に、なんとか声を上げることのできる自分が、いた。
高木は困ったように眉尻を下げる。それだけで、アア駄目なのかと納得した。それはそうだ、個人情報をぽんぽんと他人に与えるわけにはいかないだろう。
高木がすみません、と切り出すだろう雰囲気を感じていると――。携帯が震える音。私のものではない、高木のポケットから音はした。
彼は一言断りを入れると、電話を取る。
『あ、高木刑事~!』
「こ、コラ! 用がない時に掛けないっていつも言ってるだろ!」
携帯の向こうの幼い声――。
『用がないことないもん、あのね、光彦くんがね』
「あ、あの……」
私はこれは偶然ではないと確信をして、その通話口に声を掛けた。
◆
沖矢の家は、住宅街の一角、人が住んでいるのかと見紛う厳かな洋館のような造りをしていた。表札は彼の姓ではない。借家なのか結婚しているのかは分からないが、若く見えたのに中々の稼ぎ頭なのだと感心する。
インターフォンを鳴らす。古めかしいベルが、キンコンと鳴るのが家の外からでも聞こえた。バスの降車ボタンを押した時のように鼓動をドクドクと鳴らしながら、私はそわついて前髪を直した。
手土産にはデパートの紅茶缶を――何が好きかは知らなかったが、紅茶っぽいイメージだと思ったので――、なるべく落ち着いた格好で行こうと、ネイビーのフレアスカートを下ろした。この洋館を見ると、少し背伸びして正解であったと感じる。
「はい」
インターフォンから低く落ち着いた、穏やかな声がした。私はいつもよりも少し上ずった声で「こんにちは、高槻と言います」と答える。カメラのついていない一昔前のインターフォンで、私の顔など見えないというのに、気づくと顔が強張ってしまう。
スピーカーの向こうで、がさごそと物音がした。数秒の後、洋館の大きな扉が薄く開いた。私はドギマギとしながら、軽く頭を下げた。扉から覗いた顔がニコリと笑う。
「ああ、どうも。お久しぶりですね」
「急にすみません、押しかけてしまって」
「先ほど高木刑事から前もって連絡がありましたよ、大丈夫です」
それを聞いて、安心する。心の中で精いっぱいに、あの爽やかな警察官へ頭を下げておく。見た目を裏切らず、なんて良い人なんだと感動した。きっと、あのタイミングでまさか『沖矢の知り合いの子ども』から電話が掛かってくるなど、彼も冷や汗を掻いたことだろう。
「それで、何かありましたか」
「いえ! あの、お礼を言いたくて……。帰りも、わざわざ送ってくださったのに、私ほとんどお礼もせずに帰っちゃったし……」
「そうでしたか? 気にしてませんよ」
幅の小さめな口が、きょとんと半開いた後、すぐにゆるやかな弧を描く。私は少し気まずく、手土産の紙袋を差し出した。
「これ、お礼といってはなんですが……。紅茶、飲みますか?」
「紅茶ですか。そうですね、あまり……」
「え、あ、じゃあ何か……ほかに好きな物とか……」
顎に手を当てて考え込む沖矢に、慌てて紅茶を引き下げようとする。長い指がそれを阻んで、するりと小さな紙袋を攫った。
「冗談です。おや、良い茶葉だ。飲んでいきますか」
「そんな! 全然、全然、お構いなく……」
引け腰になってペコペコと頭を下げると、目の前からフっと抜けるような笑い声がした。私がばっと頭を上げれば、彼は少し茶化すように肩を竦める。
「失礼。有難くいただきますよ」
ミントグリーンの紙袋を軽く掲げると、彼は再び穏やかに笑った。私がでは、と会釈する。彼は見送りのためなのか大きな扉を後ろ手に閉めて頷いた。綺麗な立ち姿だった。知的で温和な顔つきとは反比例して、スポーツマンのようなバランスの取れた体つきだった。黒いハイネックの上からでも、広い肩幅がよく分かる。
私は今一度深く頭を下げ――そして上げる。
沖矢はやはりニコリと笑ったまま、「お気をつけて」と当たり障りのないような言葉で私を見送った。私も、当たり障りなく去ろうと――思ったのだが、どうしたのだろうか。ユキの、好奇心旺盛さが移ったのかもなあ。口裏を突いて出た言葉は、「ではまた」だとか「さようなら」「お元気で」――そういった類のものではなかった。
「――沖矢さん、ですよね?」
そう尋ねた言葉に、沖矢が形の良い眉を軽く顰めるのが見えた。
少しだけの確信はあった。だから「ですよね」と言ったのだ。タネや仕掛けは全く分からないが、ユキが「クイーニァン」であることを――〝エラリー・クイーンの愛読者〟であることを知っているのは、彼だけだと思ったのだ。
心のどこかで『そうであったら良い』とも思っていた。
「人を殺すのに正当な理由なんかない」――そう憤ったのが、彼であれば良いと思っていた。あの美しい背中であれば良いと。
沖矢は「さあ、何がです?」と首を傾げる。私は暫く彼のすっとぼけたような表情を見つめ、十秒ほどしてから首を振った。
「いえ……なんでも」
そんなわけは、ないか。そう否定する理性に引き戻され、私は今度こそ「お元気で」と笑う。踵を返す。フェンスを過ぎたところで、もう一度チラリと洋館の方を振り向いた。ちょうど沖矢も、見送りを終えて館に戻っていく所だった。
もう一度軽く頭を下げて、さあ帰ろうと視線を戻す間際に――確かに、沖矢がこちらをしっかりと捉えて、人差し指を唇にピタリと当てた。
「えっ」
白い歯が覗く。シィ、とその口から吐息が漏れた――ような。気のせいのような。
私は結局、スラリとした立ち姿が玄関の中に入るのを、呆然と見送っていた。
ユキの葬儀や四十九日も終え、ひと段落がついた頃だ。私の生活も少しずつ元に戻り、虚しくも周囲の人々の話題からも消えつつある。忘れられるわけもないが、重たく引きずるようだった大学への足取りも、一晩毎軽くなっているのは確かだった。
分厚い教科書をロッカーに仕舞い、荷物を纏める。バイトも辞めてしまったので、大学生活はひどく退屈だ。貯金の不安もあるので、そろそろ良いところを探そうか――そんなことに思考を飛ばしながら、広い校内を歩く。丁度校門に差し掛かったあたりで、なじみのない声に引き留められる。
「高槻さん、ちょっと良いですか」
ぴしっとアイロンのかかったグレーのスーツ。以前会った時よりも、僅かに穏やかな声色をしている気がした。高木は手帳を見せて、お久しぶりですと爽やかに笑んだ。
彼の言うままに車に乗り込むと、気づかわし気な声色が「元気そうでよかった」と言う。事情聴取の時、それはもう――(今思い出しても恥ずかしいほど)泣いて、泣いて、泣きじゃくって、恐らくあの一週間で一生分の涙を絞り出した。高木はそれを覚えているのだろうと思う。
「その、あの時はすみません……取り乱していて……」
「いやいや、その節は捜査協力ありがとうございました」
高木は手帳を胸ポケットに仕舞いこみ、改めて私の方を見つめる。
「それで、本日伺ったのは一つご報告を……」
「報告ですか」
「荻野慎也さんの裁判の日程が決まりまして」
その名前を、久方ぶりに人の口から聞いた気がした。
大学の友人は気を遣って名前を出さなかったし、ユキもいない今、彼を呼ぶ人は周りにいなかった。私も、実に二か月ぶりにその名前をポツリと呟く。
「……死刑に、なったりするんですか」
そう尋ねたのは、ほぼ無意識だった。独り言に近いものだったかもしれない。高木は一瞬目を見開き、すぐに言葉を篭らせる。
「詳しくはまだ――……彼も容疑を認めていますが。ただ、今の法律で死刑は難しいかもしれませんね」
「そうですか」
相槌を打った私の声色は、どこか安堵に満ちていた。
自分でもそれが意外で、少々驚く。心のどこかでは、恐れていた。許せないと思いながらも、これ以上誰かの命が失われることに恐怖していた。私はゆるく口角を上げる。わざわざ足を運んでくれたことに対して礼を述べると、高木はとんでもないと首を振った。
「実はこんなことを言っちゃいけないんですが、ちょっと気になって……いつもは電話連絡なんですけど」
「そうでしたか」
「ほら、言っていたでしょう。人を殺す正当な理由なんてない――アレ、染みちゃって」
はにかむ表情は、どこか人として憎めない愛嬌があって、私もつられて頬を染めた。
――そう、どうやらあの遠くで聴いていた声は、私が喋っていた――と、私を見る人は言うのだ。といっても、すぐに意識を失ってしまったので、実際に見たという証言は、高木と目暮からしか聞いていない。
曰く、酔っぱらったようにふらついて倒れたと思ったら、別人のように推理を始めた――まるで眠りの小五郎であったと、彼らは感心そうに語っていた。
もしかして二重人格の気でもあったのかと思いもしたが、残念ながらその先二か月、私は私でしかなかった。
「こちらこそ、職権を濫用するような真似をしてすみません」
「いえいえ! ……さっきから、頭下げっぱなしですね」
「確かに」
アハハ、と高木が頭を掻いて笑う。絵に描いたような苦笑いだった。では、と日程を聞いて帰ろうとして、私はドアに掛けた手を止める。
「そうだ、一つだけ聞きたいことがあるんですが……」
私が顔を振り向かせると、彼は首を傾げてはい、と語尾を上げた。
「その……私を送ってくれた沖矢さんって人、お礼を言いたいんですが」
何か知りませんか。おずおずと問いかける。
あの短い時間であったが、一言礼を述べたかった。何に対して――と問われると、悩んでしまう。彼に直接何かをされたわけでもないし、寄り添って背を擦られたわけでもない。しかし、彼の存在に救われたような気持ちになっている自分がいた。彼の背中に、なんとか声を上げることのできる自分が、いた。
高木は困ったように眉尻を下げる。それだけで、アア駄目なのかと納得した。それはそうだ、個人情報をぽんぽんと他人に与えるわけにはいかないだろう。
高木がすみません、と切り出すだろう雰囲気を感じていると――。携帯が震える音。私のものではない、高木のポケットから音はした。
彼は一言断りを入れると、電話を取る。
『あ、高木刑事~!』
「こ、コラ! 用がない時に掛けないっていつも言ってるだろ!」
携帯の向こうの幼い声――。
『用がないことないもん、あのね、光彦くんがね』
「あ、あの……」
私はこれは偶然ではないと確信をして、その通話口に声を掛けた。
◆
沖矢の家は、住宅街の一角、人が住んでいるのかと見紛う厳かな洋館のような造りをしていた。表札は彼の姓ではない。借家なのか結婚しているのかは分からないが、若く見えたのに中々の稼ぎ頭なのだと感心する。
インターフォンを鳴らす。古めかしいベルが、キンコンと鳴るのが家の外からでも聞こえた。バスの降車ボタンを押した時のように鼓動をドクドクと鳴らしながら、私はそわついて前髪を直した。
手土産にはデパートの紅茶缶を――何が好きかは知らなかったが、紅茶っぽいイメージだと思ったので――、なるべく落ち着いた格好で行こうと、ネイビーのフレアスカートを下ろした。この洋館を見ると、少し背伸びして正解であったと感じる。
「はい」
インターフォンから低く落ち着いた、穏やかな声がした。私はいつもよりも少し上ずった声で「こんにちは、高槻と言います」と答える。カメラのついていない一昔前のインターフォンで、私の顔など見えないというのに、気づくと顔が強張ってしまう。
スピーカーの向こうで、がさごそと物音がした。数秒の後、洋館の大きな扉が薄く開いた。私はドギマギとしながら、軽く頭を下げた。扉から覗いた顔がニコリと笑う。
「ああ、どうも。お久しぶりですね」
「急にすみません、押しかけてしまって」
「先ほど高木刑事から前もって連絡がありましたよ、大丈夫です」
それを聞いて、安心する。心の中で精いっぱいに、あの爽やかな警察官へ頭を下げておく。見た目を裏切らず、なんて良い人なんだと感動した。きっと、あのタイミングでまさか『沖矢の知り合いの子ども』から電話が掛かってくるなど、彼も冷や汗を掻いたことだろう。
「それで、何かありましたか」
「いえ! あの、お礼を言いたくて……。帰りも、わざわざ送ってくださったのに、私ほとんどお礼もせずに帰っちゃったし……」
「そうでしたか? 気にしてませんよ」
幅の小さめな口が、きょとんと半開いた後、すぐにゆるやかな弧を描く。私は少し気まずく、手土産の紙袋を差し出した。
「これ、お礼といってはなんですが……。紅茶、飲みますか?」
「紅茶ですか。そうですね、あまり……」
「え、あ、じゃあ何か……ほかに好きな物とか……」
顎に手を当てて考え込む沖矢に、慌てて紅茶を引き下げようとする。長い指がそれを阻んで、するりと小さな紙袋を攫った。
「冗談です。おや、良い茶葉だ。飲んでいきますか」
「そんな! 全然、全然、お構いなく……」
引け腰になってペコペコと頭を下げると、目の前からフっと抜けるような笑い声がした。私がばっと頭を上げれば、彼は少し茶化すように肩を竦める。
「失礼。有難くいただきますよ」
ミントグリーンの紙袋を軽く掲げると、彼は再び穏やかに笑った。私がでは、と会釈する。彼は見送りのためなのか大きな扉を後ろ手に閉めて頷いた。綺麗な立ち姿だった。知的で温和な顔つきとは反比例して、スポーツマンのようなバランスの取れた体つきだった。黒いハイネックの上からでも、広い肩幅がよく分かる。
私は今一度深く頭を下げ――そして上げる。
沖矢はやはりニコリと笑ったまま、「お気をつけて」と当たり障りのないような言葉で私を見送った。私も、当たり障りなく去ろうと――思ったのだが、どうしたのだろうか。ユキの、好奇心旺盛さが移ったのかもなあ。口裏を突いて出た言葉は、「ではまた」だとか「さようなら」「お元気で」――そういった類のものではなかった。
「――沖矢さん、ですよね?」
そう尋ねた言葉に、沖矢が形の良い眉を軽く顰めるのが見えた。
少しだけの確信はあった。だから「ですよね」と言ったのだ。タネや仕掛けは全く分からないが、ユキが「クイーニァン」であることを――〝エラリー・クイーンの愛読者〟であることを知っているのは、彼だけだと思ったのだ。
心のどこかで『そうであったら良い』とも思っていた。
「人を殺すのに正当な理由なんかない」――そう憤ったのが、彼であれば良いと思っていた。あの美しい背中であれば良いと。
沖矢は「さあ、何がです?」と首を傾げる。私は暫く彼のすっとぼけたような表情を見つめ、十秒ほどしてから首を振った。
「いえ……なんでも」
そんなわけは、ないか。そう否定する理性に引き戻され、私は今度こそ「お元気で」と笑う。踵を返す。フェンスを過ぎたところで、もう一度チラリと洋館の方を振り向いた。ちょうど沖矢も、見送りを終えて館に戻っていく所だった。
もう一度軽く頭を下げて、さあ帰ろうと視線を戻す間際に――確かに、沖矢がこちらをしっかりと捉えて、人差し指を唇にピタリと当てた。
「えっ」
白い歯が覗く。シィ、とその口から吐息が漏れた――ような。気のせいのような。
私は結局、スラリとした立ち姿が玄関の中に入るのを、呆然と見送っていた。