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◆
――荻野慎也の独白
俺に家族はいなかった。母は金が入ったと思えばしょっちゅうパチンコを回しに行くし、父はそんな母に呆れて家には帰ってこなかった。久々に帰ってきたと思えば、俺の姿を見て母に似てきたと、鼻で笑った。母も、俺のことを見下していた。どうでも良いように扱うくせに、心では所有物だと思っているのが伝わっていた。
そのせいなのか、生まれつきの性分なのかは分からないが、幼い頃から人に見下されることが我慢ならなかった。世を渡るために欲求を我慢する――人ならば当然のことだ。しかし、人ならば当然のことが俺にはできなかった。きっと俺は人に成り損ねてしまったのだと思った。
道城ユキに出会ったのは、高校一年の時だ。
明るく無垢な風貌とは別に、彼女は実に賢い女だった。同い年から一つ抜けた大人びた思考と、それを感じさせないあっけらかんとした態度に、魅かれるのは時間の問題だった。俺の誤算は、道城ユキが思いのほか賢く愛情深い女であったことだろうと、今になれば思う。
見た目は箱入りのお嬢様を体現したようであるのに、その視線はいつも鋭く俺を見つめていた。――あれはいつだっただろう。ちょうど付き合いはじめて少し経ったころだったか。彼女は、事も無げに、いつものように映画を観ながらポツリと言った。
「慎也、私に隠してることあるでしょ」
被害者役の断末魔につられて、俺の鼓動が大きくドクンと鳴った。
他の女に手を出したのは、体に燻る欲求を我慢できなかったからだ。女を好きなようにすると、心に刺さったイガがじわじわと溶けるような心地良さに浸れた。スッキリするし、気持ちがよかった。
それとは別に、俺はユキのことを好きだった。彼女で欲求を満たすことはできなかったのだ。
「いいや、何のことか分からないよ」
俺が言うと、ユキはちらりとこちらを一瞥し、少し寂し気に「そっか」と頷く。
我慢ならなかった。彼女に見下されていると思った。むしゃくしゃして、彼女の親友のこともレイプした。百花を抱くと、苦しくなった呼吸が、スッキリと落ち着く。
しかし、ユキの視線が日に日に鋭くなるのを、俺はしっかりと肌に感じていた。
百花を殺そうと計画を立てたのは、三人で旅行に行く話がユキから出た時だ。間違いを犯した子どものように、犯したものを隠してしまえば良いと、ただそう思った。
「……別れようか。慎也」
「は、何言ってるんだよ、ユキ」
「何があったか、詳しくは分かんないけどさ、私……もう百花のあんな顔見たくない。前みたいに、笑ってほしいのに……。慎也は、知ってるんでしょう」
「知らない、俺には関係ない!」
「嘘……慎也って、嘘つくときに、絶対耳たぶを引っ掻くんだよ」
新幹線のデッキで、俺はボロボロに泣きじゃくった。同時に心が、ひどく重たく淀んだ。ユキが、あんな顔で俺を見ているのが信じられなかった。見下すな――見下すな、見下すな!!
―――
――
―
「あいつが、ユキが、あんなことを言うからだ」
俺は唇を噛みしめて告げる。相手はユキではない。いつになく冷静な、毅然とした口ぶりで百花は俺を問い詰める。ひどく腹が立った、お前なんかが俺を見下すなと。
俯いて伺えない表情に、俺の背筋が粟立った。百花は、常に俺の欲をよく満たす女だったからだ。人の顔色を伺い、理不尽なことをされても口に出せず、誰かの影にならないと生きていけない女だったからだ。
その空間に、彼女の声が響いた。空気が張り裂けるような声だった。
「――人を殺す正当な理由なんかない!」
今まで聞いたことのないような剣幕で、百花は叫んだ。固まる俺を追いうちするように「あるわけが、ない」と、重たく呟く。何度も乱暴に掴んだその頬に、涙が一筋零れるのが見えた。ユキによく似た、涙だと思った。
◆
「――人を殺す正当な理由なんかない!」
嘆くような、叱咤するような、張り詰めた声だった。
それを合図に、私の意識はぷっつりと途絶えた。眠りに落ちるように、現実が遠のく。慎也の声も、私によく似た〝誰か〟の声も暗闇に溶けていく。
――夢を見た。ちょうど、哀や歩美と同じくらいの齢の頃の夢だ。
その日も雷が鳴っていた。私は昔からひどく怖がりで、ちかちかと光る空と唸るような轟音に、いちいち大袈裟に縮こまっていたものだ。教室の中で雷が鳴る度に、私は耳を塞ぐ。近くの席の少年たちが、私を見てせせら笑っていた。
「こんなのが怖いのかよ」
「ほんと弱虫だなあ」
「かわいこぶってるだけだぜ、きっと。コイツいっつもモジモジしてるもん」
「教室の電気消しちまおうぜ」
今思い返せば、子どもらしい悪戯だ。それでも当時の私は何も言えないまま――心だけが、やめてと叫んでいた。
パチン、教室の電気が消されて、私はほぼパニック状態だった。揶揄った子どもに便乗して、他のクラスメイトまでケラケラと笑っていた。悪意と呼べる悪意ではなかったかもしれない。
パチン、と灯りがついたのは、それから十秒も経たないうちだった。何でもないような顔をして、まるで入った部屋に電気がついていなかったから――それだけだと言いそうな表情で、ユキが電気を点けた。
なにしてるんだよ、楽しいところだったのに。
非難の声が彼女の頭上を飛び交う。分厚いエラリー・クイーンの著書を片手に、ユキは言った。
「そんなこと言われたら、悲しいじゃん」
姿勢の良い子だった。ピンと伸びた背筋と、僅かに怒りを表した眉間に、クラスが静まり返っていた。当然のことだと、彼女の姿が語っていた。
「人をいじめることに、良い理由も悪い理由もないよ」
よく通る、毅然とした声色。彼女は私に向き直ると、ほんの少し口角を持ち上げる。
――「……いやだ、っていう声を、止める理由もないの。ね、百花」
私は夢の中のユキに思い切り抱き着いて泣いた。
夢の中だから、時間の流れは分からないが、ずいぶん長いこと泣いていた気がする。長い黒髪と白い肌が、涙で色あせてしまうのではないか。そう思うくらい、とにかく泣きじゃくった。
夢の中のユキは何も言わないままだ。それはそうだ、彼女は死んだのだと、ようやく理解した。理解をしてしまった。
とにかく悲しかった。寂しかった。恋しかった。
明るく和やかな性格も、少し大人びた思考も、パッと雪が溶けるような笑顔も、何かと首を突っ込んで自分のことのように苦しんでしまうところも。
二度と持ち上がらない彼女の手を、私はどう見送ってあげるのが正解だったのだろうか。
◆
ぼんやりとした意識が、ゆっくり浮かび上がる。
瞼を持ち上げるとぼやけた視界が広がって、ちかちかとした目映さにきつく瞬く。静かな空間だ、空調が動く音だけ、いやに際立って聞こえた。
「着いたら、起こします。寝てても良いですよ」
穏やかな低音が、空調の音に混じって響いた。軋む体を捻じって声の持ち主を辿る。ハンドルを握る沖矢は、こちらをチラリとも見なかった。しかし、私が視線を送ったことが分かったようだ。前を見据えたまま、彼は言葉を続けた。
「体調を考慮して事情聴取は後日で良いそうです。すみません、勝手に住所を聞いてしまって」
「……あ、えっと、いえ……。ありがとうございます」
痛む頭を押さえる。周囲は既に見覚えのある景色で、自宅まであと三十分前後だろう。ずいぶん長いこと眠っていたようだ。(――どちらかといえば、気絶か?)涙の筋で、頬が渇いているのが分かる。
「ウェットティッシュはダッシュボードに。良ければどうぞ」
「すみません、その……すみません」
傍らで泣く女を自宅まで送るなど、さぞ気まずいことだろう。何か気が利いたことでも――と思ったのだが、結局謝罪しか言葉が見つからず、私は繰り返し謝ることしかできなかった。
キィ、とブレーキが掛かる。赤信号をぼんやりと見上げた。はたしてどこまでが夢だったのだろうか――境界が曖昧すぎて、もしかしたら今が夢なのかもしれないとも思った。
「――……気に病むなというのは無理な話かもしれませんね」
「……思うんです、私が彼女のことをもう少しでも理解してあげればって」
おもむろに口を開いた沖矢に、少し驚きを感じながらも、私は苦笑いをした。言葉にしなければ、今の自分の感情が爆発してしまう気がして、つい普段は人に出さないような言葉が口裏をつつく。
「きっと彼女にも考えることがあって……。もう少し、もう少し……、分かってあげてればよかったなって……」
「ユキさんは、信用していたと思いますよ。貴方のことを」
無理に持ち上げた口角が下がる。沖矢は、顎に片手を当てると探偵のようにその手をピンと立てた。一の形だった。
「ユキさんはミステリーオタクで、彼の有名な毛利小五郎が現場にいたのです。彼女もそれは知っていたはず。それでも、彼女がメッセージを託したのは……いえ、無粋ですね。忘れてください」
沖矢はそれから家に着くまで、口を開かなかった。時折、私が涙を堪えられないままに、彼の車のシートに落としていくのを、黙って見守っていた。
――荻野慎也の独白
俺に家族はいなかった。母は金が入ったと思えばしょっちゅうパチンコを回しに行くし、父はそんな母に呆れて家には帰ってこなかった。久々に帰ってきたと思えば、俺の姿を見て母に似てきたと、鼻で笑った。母も、俺のことを見下していた。どうでも良いように扱うくせに、心では所有物だと思っているのが伝わっていた。
そのせいなのか、生まれつきの性分なのかは分からないが、幼い頃から人に見下されることが我慢ならなかった。世を渡るために欲求を我慢する――人ならば当然のことだ。しかし、人ならば当然のことが俺にはできなかった。きっと俺は人に成り損ねてしまったのだと思った。
道城ユキに出会ったのは、高校一年の時だ。
明るく無垢な風貌とは別に、彼女は実に賢い女だった。同い年から一つ抜けた大人びた思考と、それを感じさせないあっけらかんとした態度に、魅かれるのは時間の問題だった。俺の誤算は、道城ユキが思いのほか賢く愛情深い女であったことだろうと、今になれば思う。
見た目は箱入りのお嬢様を体現したようであるのに、その視線はいつも鋭く俺を見つめていた。――あれはいつだっただろう。ちょうど付き合いはじめて少し経ったころだったか。彼女は、事も無げに、いつものように映画を観ながらポツリと言った。
「慎也、私に隠してることあるでしょ」
被害者役の断末魔につられて、俺の鼓動が大きくドクンと鳴った。
他の女に手を出したのは、体に燻る欲求を我慢できなかったからだ。女を好きなようにすると、心に刺さったイガがじわじわと溶けるような心地良さに浸れた。スッキリするし、気持ちがよかった。
それとは別に、俺はユキのことを好きだった。彼女で欲求を満たすことはできなかったのだ。
「いいや、何のことか分からないよ」
俺が言うと、ユキはちらりとこちらを一瞥し、少し寂し気に「そっか」と頷く。
我慢ならなかった。彼女に見下されていると思った。むしゃくしゃして、彼女の親友のこともレイプした。百花を抱くと、苦しくなった呼吸が、スッキリと落ち着く。
しかし、ユキの視線が日に日に鋭くなるのを、俺はしっかりと肌に感じていた。
百花を殺そうと計画を立てたのは、三人で旅行に行く話がユキから出た時だ。間違いを犯した子どものように、犯したものを隠してしまえば良いと、ただそう思った。
「……別れようか。慎也」
「は、何言ってるんだよ、ユキ」
「何があったか、詳しくは分かんないけどさ、私……もう百花のあんな顔見たくない。前みたいに、笑ってほしいのに……。慎也は、知ってるんでしょう」
「知らない、俺には関係ない!」
「嘘……慎也って、嘘つくときに、絶対耳たぶを引っ掻くんだよ」
新幹線のデッキで、俺はボロボロに泣きじゃくった。同時に心が、ひどく重たく淀んだ。ユキが、あんな顔で俺を見ているのが信じられなかった。見下すな――見下すな、見下すな!!
―――
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「あいつが、ユキが、あんなことを言うからだ」
俺は唇を噛みしめて告げる。相手はユキではない。いつになく冷静な、毅然とした口ぶりで百花は俺を問い詰める。ひどく腹が立った、お前なんかが俺を見下すなと。
俯いて伺えない表情に、俺の背筋が粟立った。百花は、常に俺の欲をよく満たす女だったからだ。人の顔色を伺い、理不尽なことをされても口に出せず、誰かの影にならないと生きていけない女だったからだ。
その空間に、彼女の声が響いた。空気が張り裂けるような声だった。
「――人を殺す正当な理由なんかない!」
今まで聞いたことのないような剣幕で、百花は叫んだ。固まる俺を追いうちするように「あるわけが、ない」と、重たく呟く。何度も乱暴に掴んだその頬に、涙が一筋零れるのが見えた。ユキによく似た、涙だと思った。
◆
「――人を殺す正当な理由なんかない!」
嘆くような、叱咤するような、張り詰めた声だった。
それを合図に、私の意識はぷっつりと途絶えた。眠りに落ちるように、現実が遠のく。慎也の声も、私によく似た〝誰か〟の声も暗闇に溶けていく。
――夢を見た。ちょうど、哀や歩美と同じくらいの齢の頃の夢だ。
その日も雷が鳴っていた。私は昔からひどく怖がりで、ちかちかと光る空と唸るような轟音に、いちいち大袈裟に縮こまっていたものだ。教室の中で雷が鳴る度に、私は耳を塞ぐ。近くの席の少年たちが、私を見てせせら笑っていた。
「こんなのが怖いのかよ」
「ほんと弱虫だなあ」
「かわいこぶってるだけだぜ、きっと。コイツいっつもモジモジしてるもん」
「教室の電気消しちまおうぜ」
今思い返せば、子どもらしい悪戯だ。それでも当時の私は何も言えないまま――心だけが、やめてと叫んでいた。
パチン、教室の電気が消されて、私はほぼパニック状態だった。揶揄った子どもに便乗して、他のクラスメイトまでケラケラと笑っていた。悪意と呼べる悪意ではなかったかもしれない。
パチン、と灯りがついたのは、それから十秒も経たないうちだった。何でもないような顔をして、まるで入った部屋に電気がついていなかったから――それだけだと言いそうな表情で、ユキが電気を点けた。
なにしてるんだよ、楽しいところだったのに。
非難の声が彼女の頭上を飛び交う。分厚いエラリー・クイーンの著書を片手に、ユキは言った。
「そんなこと言われたら、悲しいじゃん」
姿勢の良い子だった。ピンと伸びた背筋と、僅かに怒りを表した眉間に、クラスが静まり返っていた。当然のことだと、彼女の姿が語っていた。
「人をいじめることに、良い理由も悪い理由もないよ」
よく通る、毅然とした声色。彼女は私に向き直ると、ほんの少し口角を持ち上げる。
――「……いやだ、っていう声を、止める理由もないの。ね、百花」
私は夢の中のユキに思い切り抱き着いて泣いた。
夢の中だから、時間の流れは分からないが、ずいぶん長いこと泣いていた気がする。長い黒髪と白い肌が、涙で色あせてしまうのではないか。そう思うくらい、とにかく泣きじゃくった。
夢の中のユキは何も言わないままだ。それはそうだ、彼女は死んだのだと、ようやく理解した。理解をしてしまった。
とにかく悲しかった。寂しかった。恋しかった。
明るく和やかな性格も、少し大人びた思考も、パッと雪が溶けるような笑顔も、何かと首を突っ込んで自分のことのように苦しんでしまうところも。
二度と持ち上がらない彼女の手を、私はどう見送ってあげるのが正解だったのだろうか。
◆
ぼんやりとした意識が、ゆっくり浮かび上がる。
瞼を持ち上げるとぼやけた視界が広がって、ちかちかとした目映さにきつく瞬く。静かな空間だ、空調が動く音だけ、いやに際立って聞こえた。
「着いたら、起こします。寝てても良いですよ」
穏やかな低音が、空調の音に混じって響いた。軋む体を捻じって声の持ち主を辿る。ハンドルを握る沖矢は、こちらをチラリとも見なかった。しかし、私が視線を送ったことが分かったようだ。前を見据えたまま、彼は言葉を続けた。
「体調を考慮して事情聴取は後日で良いそうです。すみません、勝手に住所を聞いてしまって」
「……あ、えっと、いえ……。ありがとうございます」
痛む頭を押さえる。周囲は既に見覚えのある景色で、自宅まであと三十分前後だろう。ずいぶん長いこと眠っていたようだ。(――どちらかといえば、気絶か?)涙の筋で、頬が渇いているのが分かる。
「ウェットティッシュはダッシュボードに。良ければどうぞ」
「すみません、その……すみません」
傍らで泣く女を自宅まで送るなど、さぞ気まずいことだろう。何か気が利いたことでも――と思ったのだが、結局謝罪しか言葉が見つからず、私は繰り返し謝ることしかできなかった。
キィ、とブレーキが掛かる。赤信号をぼんやりと見上げた。はたしてどこまでが夢だったのだろうか――境界が曖昧すぎて、もしかしたら今が夢なのかもしれないとも思った。
「――……気に病むなというのは無理な話かもしれませんね」
「……思うんです、私が彼女のことをもう少しでも理解してあげればって」
おもむろに口を開いた沖矢に、少し驚きを感じながらも、私は苦笑いをした。言葉にしなければ、今の自分の感情が爆発してしまう気がして、つい普段は人に出さないような言葉が口裏をつつく。
「きっと彼女にも考えることがあって……。もう少し、もう少し……、分かってあげてればよかったなって……」
「ユキさんは、信用していたと思いますよ。貴方のことを」
無理に持ち上げた口角が下がる。沖矢は、顎に片手を当てると探偵のようにその手をピンと立てた。一の形だった。
「ユキさんはミステリーオタクで、彼の有名な毛利小五郎が現場にいたのです。彼女もそれは知っていたはず。それでも、彼女がメッセージを託したのは……いえ、無粋ですね。忘れてください」
沖矢はそれから家に着くまで、口を開かなかった。時折、私が涙を堪えられないままに、彼の車のシートに落としていくのを、黙って見守っていた。