凛潔

 東京の夜景は明るい。夜を知らない人間たちの営みがこの大都市を形作っている。地元の埼玉とは随分違う。

 ワンフロアをまるっと占有したペントハウスの窓から東京の夜を眺めていると、随分と遠いところに来たのだと改めて感じる。

 広々としたキングサイズのベッドに裸の脚を伸ばして、滑らかなシーツに包まれながら、スマホで見ているのはノエル・ノアのプレイ動画。そこだけは高校生の頃と変わりなくて、なんだかちぐはぐで面白い。

「何見てんだ」

 背後から掛けられた声に、振り返らないまま応じた。

「ノアの動画」
「好きだな、お前」
「うん」

 よく通る低い声。それが誰のものか、見なくてもわかる。ここは凛の部屋で、招かれているのは潔だけだ。

 ベッドが少し傾いて、凛が隣に並んで寝転んだ。高品質なのでよほど暴れない限りは音を立てたりはしない。

 温度と湿度を自動で管理する冷暖房のおかげで、この部屋は乾燥して冷たい冬の空気から隔絶されている。おかげで半裸で寝転んでいても快適だ。

「おい」

 隣に来てもスマホから目を離さない潔に、凛が不機嫌になっている。

「もうちょっとで終わるから」

 ノアの両利きが生み出す魔法のようなドリブルから、パスを受けたのはバスタード・ミュンヘンの11番。背中に書かれた「ISAGI」の文字が誇らしい。

 ワンツーでパスを返されるのを期待していたノアを囮にして、潔がペナルティエリアに切り込む。ノアの動きに気を取られたDFを死角から抜き去り、ガラ空きになった左下にシュートを打ち込んだ。

 バスタード・ミュンヘンスーパープレイ集と題された切り抜き動画の再生が終わる。

 反射で次の動画を探そうとすると、横から手が伸びてきてスマホを取り上げられた。

「終わり」
「もうちょっと」
「駄目だ」

 凛が半裸のまま潔の隣に寝そべり、眉間に深い皺を寄せて潔のスマホを勝手に操作した。

「そんなに見てえなら、こっち見とけ」

 差し出されたスマホには、芝の上を走る凛の姿が引き気味のカメラで映されていた。

「あ、これ」

 ドイツ対日本の練習試合だ。これはドイツのコーナーキックからカウンターを狙う場面。

 青いユニフォームを着た凛が、激しい競り合いからこぼれ球を拾った。そのまま次々とドイツチームのDFを抜いて、ドリブルで自陣を駆けて抜けていく。まるで背中にも目がついているみたいだ。

 センターラインを超える直前、カイザーとネスが追いつく。2人がかりの絶妙なプレスに、凛は素早く頭を振ってパスコースを探す。
 視線が離れた一瞬で、すかさずネスが足を伸ばした。ネスを避けた凛の足元に、滑り込んだカイザーがボールを弾く。示し合わせたかのような息の合った連係だ。
 一進一退の攻防の末に、弾かれたボールを拾ったのは、潔世一。

「ここ。俺がクリアされる前提で動いたろ。腹立つ」
「そういう可能性もあるって思っただけだ」
「ふん」

 ボールを拾ったとはいえ、それをゴール前まで一人で運ぶ力はない。死角を利用して、すぐに凛に戻す。ワンツーで中央突破の構えだ。

 しかしパスを待って走る潔を無視して、凛はそのまま前に駆け出した。

「お前こそ、ここ出せよ」
「誰がヘタクソにパスなんか出すか」
「おい」

 ゴールに近づくほど、得点力のある凛へのマークはキツくなる。それでも、潔にボールを渡すという選択肢はないのだろう。
 この距離で潔に出せば、もう戻ってこないのはほぼ確実。凛もよくわかっている。
 最後は自分で。ブルーロックスの信条だ。

「来るぞ」

 スマホを見る潔の目が、光を帯びて画面に吸い寄せられた。先程のぼやきも忘れて、意識はドリブル突破する凛の方に向かう。
 子供のようにキラキラと目を輝かせる潔を、凛が横目で眺める。それに気づかないほど、潔の意識は画面の中にあった。

 最後のディフェンスラインをドリブルで越える。そう見せかけるフェイントから、凛の足が振り上げられた。

 ペナルティエリアの外から、シュート。
 きつい回転をかけられたボールは、空中で鮮やかな弧を描く。GKの頭上を通り、吸い込まれるようにゴールネットに飛び込んだ。

 画面の端に、凛のシュートに魅せられて立ち尽くす潔の背中が小さく映る。
 本当に綺麗なシュートだった。こんな動画じゃ伝わらないくらいに。あれを試合で決めるなんて、そんなのもう反則だ。

 そこで動画は途切れて、次のシーンに切り替わる。この「糸師凛スーパーゴール集」は潔のお気に入りリストの1番上にあって、何回も何回も再生しているし、それも凛にバレている。

「もう一回」

 潔がスクロールバーに触れようとしたのと同時に、凛がスマホの電源ボタンを押した。問答無用でロックが掛かる。

「終わりだ、バカ。風邪ひくぞ」
「え? ああ、そうだった。忘れてた」

 自分が風呂上がりに半裸でベッドに転がっていたことを、ようやく思い出す。シャワーを浴びにいった凛を待っている間、時間潰しに見ていた動画につい夢中になってしまった。

「お前、なんで服着てねえんだ」
「なんでって……どうせ脱ぐし」

 急に気恥ずかしくなって、もごもごと口の中で喋る。照れ隠しに、掛け布団の中に鼻まで潜り込んだ。
 邪魔だとばかりに、凛が掛け布団を容姿なく引っぺがした。薄暗い部屋で、橙色をした間接照明が鍛え抜かれた男2人の上半身を照らす。

「脱がす楽しみがなくなるだろうが」
「そんなこと言われても。下は穿いてるし」

 潔の言葉を聞くや否や、凛が潔のズボンの中に手を突っ込んだ。

「うわぁっ!? なにすんだよ!」
「穿いてるか、確かめただけだ」
「そんな確かめ方があるか!」
「うるせえ」

 せっかく夜景も綺麗でいい雰囲気なのに、凛のガキみたいな態度で台無しだ。凛を忘れて試合の動画を見ていた潔も潔だが。2人とも、ロマンチックには向いていない。

「てか凛も上、着てないじゃん」
「どうせ脱ぐからな」
「お前な……」

 人に文句言っといて、自分はいいのかよ。
 凛に口を塞がれたせいで続きは言葉にならなかった。深く口付けを交わしながら、余裕なく触れてくる骨張った手が気持ちいい。

 フィールドを広く見渡す目も、敵も味方も意のままに操る脳みそも、力強く走る身体も、今は全部が潔のものだ。凛の全てが潔を見て、触って、獣のように求めるためにある。そう思うと、頭が痛くなるくらいに興奮した。

 
 東京の夜景は明るい。その明かりの下で大勢の人間が行き交っているのに、こんな風に乱れる凛を知っている潔だけ。一般的なロマンチックさはなくても、それだけで理性を手放すのには十分だ。
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