なぎれお

「玲王、聞いてくれ」

 イングランドチームとして再び同じ道を歩み出した日の夜。凪が真面目な顔でそんなことを言い出すから、玲王は口から心臓が飛び出そうなくらいに驚いた。

 悩みなんて無さそうな怠惰の権化の凪が、まさか相談事をしてくるなんて。

 他のルームメイトはモニタールームに過去の試合を見にいっていて不在。しばらくは帰って来ないだろう。
 誰もいない隙を狙うなんて、よほど言いにくいことなのか。優越感で前のめりになる自分を押しとどめて、なるべく自然に受け答えするように努めた。

「なんか悩んでんのか?」
「うん。俺、気づいちゃったんだ」
「なにに」
「自分が変態だってことに」
「……は?」

 深刻な表情で、なにを言い出すかと思えばこれだ。本当に凪のことはわからない。優越感だなんだと考えを巡らせたのが馬鹿らしくなる。

 玲王のベッドに、凪が乗り上がってきた。これから秘密の話をするのだと暗に主張にするように。

 玲王は風呂から出てすぐに乾かしたが、タオルで拭いただけの凪の髪はまだ少し湿っていて重たそうに見えた。
 早く乾かせだとか、風邪引くぞだとか、小言が泡のように迫り上げてきては、口から出ることもなく消える。なんとなく、そんなことを言う権利はないような気がするから。

 凪がすぐそばにいる景色は、今の玲王にはまだ少し眩しくて、つい半歩分下がった。本人は気づいていないだろうけど。

「……俺は別にいいと思うぜ。うん」
「まだ何も言ってないんだけど」
「じゃあなに、士道のアレに毒されたとか?」
「あそこまでではないと思う」

 茶化されたのが不満だったようで、凪がむっとする。今日の凪は珍しく話したがりだ。

「ちゃんと聞いて、玲王」
「わかった、わかった。なんだよ、変態って」

 というか、なんでその話を俺に振るんだ。
 玲王が聞く姿勢をとると、凪は深刻そうに頷いて続きを話し始めた。あまり改まって言われると、どんな特殊性癖を披露されるのかと緊張してしまう。

「別に玲王を悲しませたいわけじゃないんだけど……あの顔が忘れられなくて」
「あの顔?」
「玲王の泣き顔って、こう、くるものがあるじゃん」

 お前の前で泣いたことなんかあったっけ?
 そう思ったが、それを聞くよりも先に嫌な予感がして、別のところに引っかかった。

「……くる?」
「うん。だから玲王がいない間、玲王の泣き顔で何回も抜きました。ごめんなさい」
「はあ!?」

 驚きのあまり、ベッドの端まで飛び退いてしまった。想定外の告白に、どういう顔をしていいか全然わからない。

 凪のほうは眉尻を少し下げたくらいで、いつもとほとんど変わらない無表情だ。今はいつも以上に感情が読み取れなかった。

「抜くって、お前……アレだよな?」
「たぶんそう」

 今まで凪の口から猥談らしいものを聞いたことがないのもあって、頭が状況を受け入れられないでいる。順序がめちゃくちゃなのは、むしろ凪らしいともいえるが、それに玲王がついていけるかは別問題だ。

「わざわざ律儀に言わなくていいんだよ、そういうのは……反応に困るわ。つーか俺、凪の前で泣いたことなくね?」
「そうだっけ? 泣きそうだったじゃん」
「でも泣いてねえ」

 それが、いつの話だと確認する必要はなかった。凪の前で玲王が泣きそうになったことなんて、潔たちの前でこっぴどく見捨てられたあのときくらいのものだ。
 玲王の中では深い傷になっていて、今でもときどき痛むのに、凪のほうはこれなのだから驚きを通り越して呆れ返ってしまう。

 こちらの気持ちなど露知らず、凪は堂々と腕を組んで頷いてみせる。

「正直エロかった」
「こ、この変態!」
「だから最初に言ったでしょ」
「予想の斜め上の変態だよ、お前は! つーか謝るならもっと他にいろいろあるだろ!」
「え? なんかあったっけ」

 別に今さら謝ってほしい訳でもないが、そんなにけろっと忘れられるとやるせない。蒸し返しても空気が悪くなるだけの話題は避けた。

「まあ、それはいい。……ちなみに、何回もってどれくらい……?」
「片手で数えられないくらいは」
「悪い。聞くんじゃなかった」

 興味本位で聞いたことを深く後悔する。
 親しい(と思っている)友人の性生活なんて知りたくもない。それに自分が関わっているのなら尚更だ。

「……で、それを俺に言って、お前はどうしたいわけ?」

 これも、聞いた直後に後悔した。どう返答されても困るはずなのに、どうして聞いてしまうのか。凪に関してはいつも自制が効かない。
 玲王の質問が想定外だったようで、今後は凪のほうが目を丸くして驚いていた。

「え? どうもしないよ。言いたかっただけ。あーすっきりした。じゃあ、また明日ね」

 そのまま伸びをして去ろうとする凪を、袖を掴んで引き止めた。

「待て待て待て待て」
「なに?」
「なに、じゃねーよ! お前は気にならないかもしんねーけど、俺は気にしちゃうんだよ。どうしてくれんだ、このバカ!」
「えー、そんなこと言われても」
「今夜からずっと同室なんだぞ。どういう気持ちで寝たらいいんだ。気まずいだろ……」

 凪のことを意識しまくりなのは元からだが、それに余計な情報が加わった今、いくら4人部屋だと思っても、もう安眠できる自信がない。

「大丈夫。普通のときの玲王にはむらむらしないから」
「普通って……そうじゃないときはどうすんだ」
「それは、謝ったじゃん」

 凪は過去の話のつもりだろうが、玲王にとって、あれはまだ終わったことになっていない。もし凪があのときの玲王に劣情を催すというのなら、それは解決していない問題だということになる。

「俺だって、いつでもベストコンディションなわけじゃねえんだよ。弱ってる時もある」

 あのときの悲しみ、悔しさ、寂しさ。全てが昨日のことのように思い出せる。朝起きて頬が濡れていたことも一度や二度じゃない。いくら考えないようにしても、まだ無理だ。
 凪が思っている以上に、玲王はあのときのままなのだ。言葉にできないほど重く、暗い感情が、凪の思い描く「普通の玲王」に杭のように深く刺さっていて、きっともう抜けることはない。

「そしたらどうすんだってこと。俺が弱って、ふにゃふにゃになったら、またオカズにすんのか?」
「おかず? どういうこと?」
「え?」

 思いもよらないところを聞き返されて、言葉に詰まった。

 今は普通に(?)こういう話をしているが、凪にとっては他の友人と猥談をしたり、性的なコンテンツを消費したりする機会はおそらくこれまでなかったのだ。

 例えば、保健体育の教科書に出てくるような言い方をしたら、問題なく通じたのだろう。

 凪はサッカーだけじゃなく、普通の対人スキルや経験もまだまだ未熟で、発展途上。思春期の男子が通る一般的な道をすっ飛ばして、いろいろと持て余している状況なのだろう。だからこんな変なことを言い出すのだ。

 ピヨピヨ凪の性教育に、全く興味がないといえば嘘になる。しかし玲王がわざわざ教えてやるのも、たぶんそれは違う。特に、今は変な空気になりそうで嫌だ。

「……いい。なんでもない」
「あー……今ので察したわ。なんかごめん」

 凪が首の後ろをかきながら、目を逸らした。頬がほんのり赤くなっている。
 ほら、やっぱり変な空気になったじゃん。

「玲王はさ」

 次はなにを言い出すのかと身構えたが、そんな準備はこの天才には全く通用しない。

「ちゅーとか、えっちしたことある?」
「ぶはっ!」

 思わず吹き出してしまった。
 さすがは凪。デリカシーの欠片もない。

「お、おまっ、可愛く言っても誤魔化せてねえぞ、それ!」
「えー。教えてよ。俺はしたことない」
「だろうな。知ってたわ」

 話の流れから言葉選びまで、全てが雑すぎる。これで頭は悪くないのだから、怠惰のせいだというのまで明らかだ。
 いくら顔が良くてサッカーが上手くても、これではコイツと付き合いたいと思う物好きはいないだろう。

「俺はしたことないけど、玲王がしたことありそうなのはわかる」
「まあ、ないこともないが」
「気持ちよかった?」
「お前な……別にそうでもねぇよ」

 そのまま聞けば、なんでもない猥談だ。しかしこの話の流れでこの話題を持ってくるのはどうなんだ。
 凪は何を考えているのか。きっと何も考えていないのだろう。もし相手が玲王じゃなかったらドン引きされているし、玲王ですらちょっと引いてる。

「へー。そういうもん?」
「たぶんな。俺の場合はちょっと特殊かもしんねえけど。向こうのほうが、俺自身には全然興味無さそうだったし」
「ふーん」

 玲王の周りに集まるのは御影コーポレーションの肩書きと、玲王自身の気前の良さに寄ってくる女ばかりだ。どのみち結婚相手を恋愛で決められるとも思っていないので丁度いいのだが、そんなのはちっとも面白くない。

「それって、逆じゃない?」
「逆?」

 視線を感じて凪の顔を見る。
 濃い灰色の、何を考えているかよくわからない目が、一瞬で玲王を射抜いて、思考を止めさせる。

「玲王がその子に興味なかったんでしょ」

 最初から知っていたことなのに、凪に指摘された途端に罪悪感が湧き上がった。

 女だけじゃなく、友達だって多かれ少なかれそうだ。特別面白くもないが、ひとりでいるよりはつまらなくもない。彼女も、友達も、だいたいがそんな関係。
 人と金が集まる場所が好きだ。それが誰だろうと構わなかった。自分の言うことに従う人間は、玲王にとってはただの群れでしかない。

 ブルーロックの中は異世界だった。

 玲王がよく知っているような自我のないバカはどんどん消えて、癖の強い奴らばかりが残っている。彼らは自分だけのエゴを持っており、玲王の言うことなんて当然聞かない。

 その中でも、凪だけは特別だ。
 こんなにチグハグで、面白くて、こんなにも玲王の感情を掻き乱すやつは凪しかいない。
 奇人変人展覧会のブルーロックですら凪しかいないのなら、この先だってきっと、ずっと凪だけだ。

 この監獄の外で、普通に暮らしているただの女に興味を持つというのは想像もできない。

 今日は喋りたがりだったはずの凪も、なぜか大人しく玲王の言葉を待っていて、沈黙だけがずるずると長引いていく。
 次第に気まずくなってきて、最後には無理やり凪を押し退けた。

「……好きでもない女とヤッてもつまんねぇってことだよ! はい、この話終わり!」

 離れてくれるかと思いきや、凪は反対にぐっと詰め寄ってくる。
 ちょっと肩を小突かれればそのまま押し倒されてしまいそうな距離で、表情はいつもと変わらないままだ。

「じゃあさ、試してみない?」
「は?」
「俺にはあるでしょ、興味」
「興味って、そういう意味じゃ」
「どういう意味でもいいよ。好きでもない女の子とはえっちしても気持ち良くないんでしょ」

 凪の口から出てきた言葉とは思えなくて、現実感がまるでない。夢の中にいるみたいだ。

「でも、好きな男とはまだやったことないじゃん。試してみようよ、気持ちいいかどうか」
「試すって、キスもしたことないのに?」
「じゃあキスもしよう」
「何言ってんだよ、お前。ちょっと変だぞ」

 好きな男って。そりゃ凪のことは好きだけど、そういうんじゃないだろ。

 凪がぐっと力を込めて、玲王の肩に手を掛けた。それだけではまだ玲王を動かせない。
 女じゃあるまいし、背丈は負けていても単純な力比べならほぼ互角。簡単に押し倒させてはやらない。

「俺は玲王のこと好きだよ。興味ある」
「嘘つけ」

 悪魔のような囁きだ。跳ね上がる心拍数とは裏腹に、心の深いところが急速に冷えていく。
 凪からの甘い言葉は欲しい。でも、素直に受け入れられない自分もいる。息が苦しい。頭から冷たい水の中に浸されたみたいだ。

「お前は俺を捨てただろうが……ん」

 声を荒げた玲王の口を、凪が唇で塞いだ。

 口内に、生温かい感触。食いちぎってやりたいくらい腹が立っているのに、そんなこと絶対にできなかった。
 凪はわかってやっている。本当に質が悪い。

 息ができなくなる前に、凪が離れていった。2人分の唾液で湿った唇を、見せつけるように舐め取る。
 獲物を前にした肉食獣のような目で、凪が今度こそ玲王を押し倒した。ベッドに押しつけられた肩に、体格のいい男の体重がそのままのってきて痛い。

 こんな凪は知らなかった。きっと、玲王しか知らない。優越感に脳内麻薬が大量に噴き出しててくる一方で、どうしても惨めな気持ちが消せなかった。こんな、流されるような形で凪に触れたくはない。

 本当に凪を受け入れていいのだろうか。また裏切られて失望されるんじゃないか。

 不安で、怖くて、それなのに愛おしくて、離れがたい。もう滅茶苦茶だ。
 
「今、すごくいい顔してる。玲王」

 玲王の腰に乗り上がった凪が、ごくりと喉を鳴らした。掠れた声が生々しくて、心臓がずきずきと軋むように痛む。

「いい顔って」
「泣きそうな顔」
「最悪だ、この変態……」

 どうにでもなれ。お前がそこまで言うなら、もうどこまでも付き合ってやる。
 不満げに頬を膨らませる凪は心底憎たらしくて、世界で一番かわいかった。

「だから言ったじゃん。ねえ、返事は?」
「なんの返事だよ」
「試してみるの。興味ない?」

 この期に及んで玲王の意思確認なんて、小狡いにもほどがある。
 もしかしたら今までの恋愛経験ゼロムーブは全部嘘で、玲王をその気にさせるための罠だったのかもしれない。もうどっちでもよかった。
 この選択は、きっと後悔しない。

「……する」
「よし」

 嬉しそうに言う凪の声で、玲王の覚悟は簡単に溶けて消えるのだ。
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