なぎれお

「ねえ玲王。キスしてもいい?」
「は?」

 玲王が目を丸くして固まった。

(あれ?)

 思ってたのと違う反応だ。引き気味に困惑している玲王は珍しくて、居心地が悪くなる。
 俺と玲王だけが残っているグラウンドで、気まずい空気を押し流すように冷たい風が吹いた。


 俺は玲王が好きで、玲王も俺が好き。それはきっと友情でも恋でもないけれど、なんとなくキスくらいならしてもいいのだと勝手に思っていた。それは、俺の勘違いだったみたいだ。

 人と付き合うのは難しい。現実は退屈しのぎに眺めていた漫画やゲームのストーリーとは、ちょっと違ってめんどくさい。

「んー。次の試合で真面目に頑張るなら、してもいいぞ」

 玲王が妥協のように提案してきた答えは、当たり前に不満だった。
 次の試合というのは、一次選考の最終戦、チームZとの試合のことだ。俺と玲王がいればどうせ勝てるのに、どうして真面目に頑張らないといけないのか。
 次の試合なんてどうでもいい。
 ただ、玲王の言い方が不愉快だった。

「……じゃあ、いらない」

 俺の言いたかったことが全然伝わってない気がする。もどかしいけれど、それを修正するために言葉を選ぶのは億劫だ。

「自分から言い出したくせに、不貞腐れんなって。俺が悪かったよ。ほら、キスくらいいくらでもしてやるから」
「やだ。したくない」

 仕方なさそうに近づいてくる綺麗な顔が、無性に鬱陶しかった。押し除けると、玲王は少しだけ悲しそうになる。
 違う。そんな顔をさせたいんじゃない。

「なんだよ。わけわかんねえ。まったく手間のかかる子だな」

 ため息を吐きながら、玲王が俺の髪をくしゃっと撫でた。雑なようで優しい手の感触は気持ち良くて、俺はこういうのが欲しかっただけなのに、やっぱり全然伝わってないんだなぁ、と思う。

 玲王はなんでもくれる。でも、俺の1番欲しいものだけは全然わかってくれない。
 俺が玲王のそばにいるのは、玲王がなんでもくれるからじゃないのに。


 あやすように俺の頭を撫でていた手は、俺が機嫌を直すとすぐに離れていった。
 直前まで感じていたのに、その温もりがもう恋しくて、俺は手を伸ばす。ボディスーツに包まれた玲王の肩を掴んだ。

「ん? どうした、凪」

 俺の恋しさにも、欲求にも、玲王は不思議なくらいに全然気づかない。他は何もかもわかってくれるのに、これだけはダメみたいだ。

 玲王の身体は半年前よりも全体的にがっしりしていて、いつのまにかスポーツマンになっていた。玲王と違って努力が嫌いな俺は、大して変わってないと思うけど、あの頃と全く同じではないはずだ。


 最低限の動作で玲王の肩を撫でる。玲王は気づかないかもしれないけれど、こんなことしたいと思うのは初めてで、今はこれが精一杯だ。

 本当はもっと、いろいろ触りたい。キスもしたい。でも、こんな気持ちは初めてで、どう表現したらいいかわからなかった。

 俺はこんなに玲王に触れたいのに、玲王は同じじゃないのかな。
 なにかの対価じゃなくて、代わりでもなくて、純粋に触れ合いたいだけなのに。本当に難しくて、めんどくさい。



 玲王はすごい奴だから、2人で世界一になるなんて簡単だ。なんでそんなことにこだわっているのか、わからないくらいに。
 俺は玲王みたいにすごい奴じゃないし、正直めちゃくちゃめんどくさいけど、玲王が欲しいって言うなら、ちょっとくらいは頑張ってみでもいい。

 サッカーで世界一になったら次は何する?
 玲王が一緒なら、俺はなんでもいいよ。

 このときの俺は、この初めてばかりで、歪んでいて、心地いい玲王との関係に、ずっと浸っていられると思っていた。



 そしてこの数時間後。2人で世界一になるという玲王の夢は、頑張らなくても手に入るものではなかったと知ることになる。


▼ ▼ ▼

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 言い過ぎたとは思っていなかった。全部が本心からの言葉だったから。
 玲王が怒ってる。けど、俺も怒ってる。

 生まれてこの方、喧嘩なんて一度もしたことがなかった。そもそも、こんなに感情的になること自体が初めてで、まして怒りの正しい伝えかたなんて知るはずもない。

 サッカーの楽しさや、負ける悔しさを教えてくれたのは、潔だった。ならば、いま玲王に教えられているこの感情はなんだ。

 腹の中がびりびりして、内臓が口から飛び出しそうなほどの苛立ちと憤怒は、どこから来たのだろうか。


 潔に、玲王がいなくちゃなんにもできないと言われたとき、その通りだと思った。俺は玲王しか知らなくて、負けた。
 俺たちは最強じゃなかった。世界一になるためにはもっと強くならなくちゃいけなくて、らしくもない努力もしたのは、玲王と並んで一緒に戦うためだった。

 俺の世界で、一番すごい奴なのは玲王だ。それは今でも変わらない。

「面倒くさいよ、玲王」

 そのはずだったのに、久しぶりに会ったあのときから、玲王はちょっとおかしい。俺が知ってる最強の玲王じゃない。

「もう知らない」

 玲王の情けない顔をこれ以上見たくなくて、振り返らなかった。


 本当はもっと話がしたかった。
 玲王がいない間にこんなに頑張ったんだよって言って、いつもみたいに喜んでもらいたかった。俺がいない間に、玲王がどうしていたのかが聞きたかった。

 こんなふうに別れるつもりなんてなかったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。




「さっきから何観てんの、ずっと」

 チームメイトの話も聞かずにスマホを見つめる俺を、千切が覗きこんできた。

 いろんなことがあった試合だった。その熱はなかなか冷めなくて、気がついたらゲームの代わりに動画を眺めていた。

 パス、トラップ、シュート。

 どれをとっても、俺と玲王より上手いやつはいっぱいいる。そんな当たり前のことも、知らなかったんだなぁと、今更気づいた。

 それでも世界一の舞台に立つイメージでは、最初に思い描いたときと変わらず玲王が隣にいる。俺の隣で走っているのは、潔でも千切でも馬狼でも、ノエル・ノアでもなく、御影玲王だ。

 そのイメージに追いつかなくてはいけない。今はちょっと変だけど、玲王もきっと同じことをするはずだ。会えないから確かめようもないし、そう思うしかない。

「なんか面倒見たくなる才能があるよな、凪」

 隣でベッドに寝転んでいる千切が言う。
 千切は俺のスマホで、おすすめサッカー動画を選んでくれていた。

「そう? 考えたこともなかった」
「そうだよ。俺も大概構われるほうだけどさ、凪はダンチな。玲王が入れ込むのもわかるわ」
「入れ込むって……でも、構われる才能ってのはなんか違うかも。玲王に会うまでは、そんなことなかった」
「そうなん?」

 玲王がいなければ、俺はここにいない。こうして千切と話すこともなかった。
 適当に勉強して、進学して、就職して、生きるのに最低限必要なことだけして、サッカーなんて知らずに生きていただろう。
 楽しさも、悔しさも、燃え上がるような怒りも知らずに。

「玲王がいなきゃ何もできねえんだな、お前は!!」

 思えば潔にそう言われたときも、ひどく苛ついた覚えがある。
 その通りだ。お前にだけは言われたくねーよと、意地悪で返すことしかできなかった。

「千切、教えてよ。どうしたら強くなれる?」

 話の流れを切る形の問いに、千切が長いまつ毛を揺らして、目を瞬かせる。
 そのまま呆れたような顔をするが、俺の顔を見て千切の目の色が変わる。
 本気の熱が、千切に伝わっていた。

「知るか、バカ。自分で考えろ」

 突き放すような言葉とは裏腹に、千切は楽しそうだった。いつの間に、俺は誰かにこんな顔を向けられるような人間になったんだろう。
 他人に興味を持たず、誰にも気にされなかった俺が。

 そうだ、考えろ。
 潔はそうして強くなっていた。めんどくさいのを玲王に全部代わってもらってちゃ、世界一にはなれない。
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