くにちぎ

「おい、千切。ミーティングだぞ……って」

 風呂の後のミーティングには、いつも通りに定刻に現れない仲間がいる。だいたい呼びに行かされるのは、そこそこ付き合いのある潔か、國神だ。

 鏡の前に陣取り、堂々と髪に櫛を通しているのは「わがままお嬢」こと千切豹馬だ。
 ドライヤーを使いながらちらっとだけこちらを確認して、すぐに顔の向きを戻す。

「あ、國神か。悪い、ちょっと待って」
「悪いと思ってねえだろ」

 潔も國神も押しが弱いほうではないが、人の良さが枷になって、なかなか引きずってでも連れて行けないのが難点だ。つい「お嬢」のわがままに付き合うのが習慣になってしまっている。

 それに、長い髪を持ち上げて、櫛を通しながら丁寧に髪を乾かす仕草を見ていると、どうにも割って入りづらい。
 姉妹のいる國神ですらそうだ。潔はもっと気まずそうにしていた。

 國神も最初は困惑したが、髪の束の隙間から見える首筋は、骨張っていて筋肉質な男の首だ。すぐに慣れてしまい、普通に眺めて待つようになった。
 千切も何もいわないので、無意識のうちにだんだんと視線が無遠慮になっている。

 千切が左右に軽く首を振ると、赤い髪がふわりと広がった。最後に手櫛で簡単に整えると、やっとこちらに振り向いてくれる。

「待たせたな。じゃあ行くか」
「ん」

 千切は悪びれもせず、道具類まできっちり片付けてから立ち上がる。下手に触ると怒られそうで、終わるまで大人しく待った。

「國神は黙って待っててくれるから助かるわ」
「何言っても、お前が聞かねえからだろ」
「そうか?」
「そうだよ」

 横に垂れる髪が邪魔だったのか、千切が片側の髪をかき上げて耳に掛ける。
 真っ直ぐに伸びて柔らかそうなそれは、同じ人間のものとは思えない。頭が小さいせいで気付かなかったが、首も他の男より少し華奢だ。

 耳から落ちた一房の束が、首筋に陰影をつける。それが気になって、つい手を伸ばした。

「ん?」
「あ……わりぃ」

 國神の手に気づいた千切の声で我にかえり、すぐに引っ込めた。女性にやったら相当失礼なことだろう。
 千切はあっけらかんと笑う。

「なに? やっぱり触りたいんだ」
「……やっぱり?」
「バレてないと思ってたのかよ。お前めちゃくちゃ見てただろ、髪乾かしてるとき」
「え、マジ?」
「マジマジ」

 考えてみれば、たしかに思い当たる節があった。恥ずかしくて死にたくなる。

「気づいてなかった……。俺、キモすぎ」
「いや、別にいいよ。触りたいんだろ、ほら」

 千切が垂れているほうの髪を持って、毛先をひらひらさせた。

「いいのか?」
「いいって。別に減るもんじゃないし」
「じゃあ、せっかくだし」

 赤い髪に、おずおずと手を伸ばす。
 顔の横に垂れる髪に、そっと指を入れた。サラサラしていて、思っていたよりしっかり手ごたえがある。全体的にちくちくしているわりに柔らかい自分の髪とは全然違っていた。
 衝撃だった。ずっと触っていたくなるくらい気持ちいい。
 
(もっと、千切がしてたみたいに触りたい)

 ドライヤーを当てるときにしていた、根本からかき上げて、束の中で指を滑らせるような触り方がしてみたい。
 好奇心のままに、首筋と髪の間に手を差し入れた。

「ん……」

 普段より少し高い、裏返ったようなうめき声とともに、触れていた首筋がビクッと震えた。
 國神は頭の中が真っ白になって、体が硬直する。

「くすぐってぇよ、バカ」

 笑い混じりにそう言って、千切が國神の手を払い除けた。

「あっ、わ、わりぃ……!」
「ちょっとは遠慮しろよ。いいとは言ったけど」

 千切は全然怒っていない。國神の伸ばした手を、おふざけの範疇に収めてくれたらしい。

「そ、そうだよな、マジごめん」

 國神のほうは、そうもいかなかった。
 情けなく声が裏返り、動揺を隠せない。
 
「どうした? 大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。ミーティング行こう」
「ああ、そうだったな。忘れてた」
「ははは、忘れるなよ」

 めちゃくちゃになった身体感覚を、繰り返してきた習慣でなんとか制御する。身体をコントロールする術を磨いてきてよかった。

 サッカーのこと以外で、こんなに頭がいっぱいになるのは初めてだ。
 なんとか普段の自分に戻したい。サッカーのことを考えたい。ミーティングルームに進む足が自然と早まって、置いていかれそうになった千切に怒られた。
 着いたら着いたで、いらついた雷市に怒られる。

「お前ら遅えぞ! 何してたんだ!」
「え、なにって」
「髪乾かしてた」

 全く反省しない千切はいつも通りだ。
 いつもと違うのは國神で、今はお叱りの言葉も全く頭に入ってこなかった。どことなくぎこちないのを目ざとく察した潔が、國神の肩を叩く。

「気にすんなよ。國神は悪くないって」
「あ、ああ。わかってる」

 罪悪感のような、奇妙な感じはあるが、それは遅刻したことに対してではなかった。

 得体の知れない感情は自主トレの間も、就寝時刻が近づいてきてもまとわりついてくる。
 布団に入って目を閉じると、赤い髪の滑らかな感触が鮮やかに蘇り、

「ん……くすぐってぇよ、バカ」

 脳内に焼きついた千切の声が再生される。

「だはーーーー! 眠れるか!!」
「うわっ!」

 飛び起きた國神の横を、ちょうど千切が通り過ぎようとしていて、勢いよくぶつかった。

「どうしたんだよ、大声出して」

 体格のいい國神に不意打ちでぶつかられても、千切は少しふらつくくらいで全然吹っ飛ばない。体幹がしっかりしている。それがなんとなく嬉しくて、キュンとした。
 まだ付き合いは短いが、思い返せば千切の好きなところなんていくらでも見つかるのだ。

「なんでもねえ、なんでもねえんだ……」
「本当に大丈夫か……?」

 大丈夫じゃないかもしれない。
 そう思ったが本人に言うわけにもいかず、乾いた笑いを返すことしかできなかった。
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