彼は、少し迷っていたようだけれど。
これまで私が身を落としていた闇の全貌を包み隠さず全て話してくれた。
時折家に来る"お客さん"。
逃げ出しても必ず追ってくる謎の男達。
それらを動かす、強大な闇。
その闇は、綺麗さっぱりこの世から払われたことも。
「組織は壊滅しました。残党は多少いるだろうけど、もはや大した脅威じゃない。だからもう大丈夫です」
彼の言葉に私は何も返せないまま手元を見下ろした。
あれだけ渇望した自由が、未来が、この手にある。
……なのに。
闇を払って目の前に開けた世界は――何も見えないほど、真っ白だ。
「すごく、情けない話なのですが」
私が切り出すと、ずっと少し緊張した面持ちだった彼は目を丸くして「え?」と小さく零した。
「これからどう生きていけば良いのか、わからないんです。あの家は確かに、苦しい場所でした。何度も逃げ出そうとしました。だけど私は確かに、あの男の汚い稼ぎで生きていた」
家族を失って。
閉じ込められて。
何もかもを踏みにじられて。
それでも、あの男に私は"生かされていた"。
家畜として改良された動物は野生に還ることは出来ない。
与えられた餌。
与えられた寝床。
与えられた役割。
それが絶たれた時、家畜は、どう生きていけば良いのだろう。
「山崎さん。……私は。どう、生きていけば」
ほら、今だって目の前の彼に自分を委ねている。
フラついて、グラついて、ろくに自分一人で立つことも出来ない。
なんて情けない体たらく。
だけど、何かに頼る以外の生き方を私は知らない。
どこに向かって歩き出せば良いのかさえ、わからない。
「教えて。私は、どうすればいいですか」
目覚めたくなかった。
あのまま消えてしまいたかった。
そうした方がずっと楽だった。
"せっかく拾った命"なんて、そんな綺麗事、今の私には、とても。
「……こんなの、月並みな言葉かもしれないけど」
不意に、黙って私を見ていた彼の声が鼓膜を撫でる。
初めて会った時と変わらない、裏表のない、私の"日常"を叩き割った、優しい声。
「人間は一人じゃ生きていけない。そういう生き物なんです。あなたが思っているほど、周囲の人間は綺麗じゃないし自分一人で立っているわけじゃない。だから……自分だけ汚れてしまっているみたいな顔しないでください。自分を、再び闇の中に押し込めようとしないでください」
恐る恐る彼は私の手を取った。
暖かな体温が、指先から体を巡って。
心臓が小さく揺れた。
「俺は、あなたに頼ってもらえて嬉しいです。だから無理に一人で立とうとしなくていい」
「で、も……」
「許可も取らず檻から出しておいてじゃあバイバイなんて、そんなことしないですよ。俺は万能なヒーローじゃない。自分のエゴであなたを外に放ってしまった、ただの地味な男ですから。その責任ぐらい取らないと」
そう言いながら彼はにへらと笑う。
かと思えば少し、悩むように視線を泳がせて――それからおずおずといった様子で切り出した。
「だから、ええと。その……咲さんって、家事は得意ですか?」
「え?」
質問の意図がわからず思わず聞き返してしまう。
だけど、彼の顔は真剣だ。
「……それ、なりに。母がよく教えてくれましたから」
すると彼は一度口を開き、閉じて。
数秒の沈黙の後、決意したように再び開く。
「俺たち真選組の屯所、男所帯なもんだからあんまり綺麗じゃなくって……掃除とか料理とか洗濯とか、それなりに出来はするけど、雑っていうか。だから家事をしてくれるお手伝いさんが丁度欲しいって思ってたんです。あー、えっと、無理にとは言わないけど……で、でも何かあっても、俺が守ります! だから、その」
早口で捲し立てる彼の声色はもごもごと徐々に小さくなって消えていった。
そのまま彼は口を結んで私の様子をちらちらと盗み見ていたけれど、やがて、力強く首を振る。
「ううん、やっぱりダメだ。ごめんなさい、あんな目に遭ってたあなたに男所帯に飛び込めなんて。俺、最低でした。今の忘れてください」
「あの、山崎さん」
「ええと、どうしようかな……とりあえず明日までに住むところだけでも用意しておきます。それから一応、新居の周りの巡回を増やして、家具とか手配して――」
「山崎さん!」
私の声に彼はびくりと揺れて固まった。
こんな風に声を荒らげたのは、いつぶりだろう。
大きな声を出すのがあまりにも久々だったせいか荒げると言うより、裏返って悲鳴のようになってしまった。
逸る心臓を落ち着かせて、呼吸を一つして。
私は口を開いた。
「大丈夫です」
そう告げると彼は目を丸くする。
「えっと、大丈夫、って?」
「……新居、探して頂かなくて結構です。私、真選組に――山崎さんの傍に、居たい」
救い出してくれたその手を、私はそっと握り返した。
これは依存なのかもしれない。
ただ、"生かしてくれる"相手をすげ替えただけかもしれない。
それでも。
そうだとしても。
彼と共に居たい――この願いは私の、嘘偽りのない本心だ。
すると彼はしばらく私の顔を見つめた後、瞳を潤ませて力なく項垂れた。
「よ、かった。俺、言っちゃってから、最悪の提案だったって気付いて」
「いいえ。とても……嬉しいお誘いでした」
私はずっと、家畜だった。
ただ、そこに在ることだけを求められた、物言わぬ消耗品だった。
だけど目の前に居る彼は、女としての私でもなく、モノとしての私でもなく、人間としての私を見て、進む道筋を提示してくれている。
それが本当に嬉しくて。
ようやっと自分は人間だったのだと思い出せた気がした。
「じゃあ明日、迎えに来ます。って言っても俺は仕事だから……多分、局長が」
「局長さん?」
首を傾げると彼は、ええと、あの、と両手をワタワタさせる。
「そっか、ちゃんと会ってないのか。ほら、あの家に踏み込んだ時にも居た、ゴリラみたいな」
「ご、ゴリラ……?」
私の脳裏に、黒い服に身を包んだまんまゴリラが浮かんだ。
いや、あんまり覚えてないけれど、流石にあの場にゴリラはいなかったはずだ。
「まあ会えばわかると思います。多分」
「ほ、本当に……?」
「ホント、ホント。マジでゴリラだから」
言いながら彼は立ち上がって、薄く笑う。
「じゃあ、また明日。咲さん」
「……はい。また、山崎さん」
軽く頭を下げながら病室を出ていく彼の背を手を振って見送った。
窓から差し込む暖かな夕日に、目を細めながら。