音が、遠く聞こえる。
今――私は、起きている? 眠っている?
それすら、ろくに判断できなくて。
「咲、"お客さん"だぞ」
深くて暗い海に揺蕩うゴミには、こんな景色が見えているのかもしれない。
ぼやけて。
滲んで。
明瞭なのは身体の軋みだけ。
水圧で押しつぶされそうになりながら。
ただ――そこに居る。
「――さん、今日は最初にするかい? それとも殿?」
「そうだな、ではお前らはそこで見ていろ」
今日は、何人?
何時間?
時間の流れさえ曖昧で。
窓の外が何色かどうかすら、もう気にしなくなった。
「しかし最近は反応がなくてつまらないな。そろそろ新しい商品を仕入れるべきか」
「なら俺、明日あたり適当に女を見繕っておきますよ。どうせ活きの良いのが吉原の端にでも転がってるでしょう」
ふと。
何の気なしに動かした視界に、部屋の端で縮こまっている"同居人"の姿が見える。
目が合った男は、酷く、心底悲しそうな顔で。
わざとらしく。
顔を覆った。
……私は、いつ、死ねるのだろうか。
「御用改めである! 神妙にお縄に付け!」
――怒号が、鼓膜を劈いた。
寝転されている床が大量の足音と共に小刻みに揺れる。
視界の端で、そう広くはない家いっぱいに、黒い服の男たちがなだれ込んで来るのが見えた。
……黒い、服?
瞬間。
モノクロだった視界に色が戻ってくる。
音が、匂いが、景色が。
私の中に滲み出す。
「な……っ、し、真選組だと?! お前、どうなっている?!」
「知らない! 俺は何もっ! どうしてここが……!」
被害者面をしていた男は青い顔で立ち上がり、数歩後ずさった。
そうしている間に黒い服の彼らは、十人ほどいた"お客さん"を慣れた手つきで張り倒しては捕縛していく。
喧騒の中。
見知った人が、混乱をかき分けてこちらへ向かってくるのが見えた。
「咲さん!」
黒い服。
少し長い黒髪。
優し気な垂れさがった目尻。
「や、まざき、さ……」
喉を滑り出たその声は本当に出ていたかどうかすらわからないくらい、か細くて。
だけど、久方ぶりに外へ出した、私自身の、声だった。
伸ばされた手。
一度は振り払ってしまった手。
それに私は躊躇しながら――今度こそ、手を。
「――あ、う……?」
目の前で彼の顔色が青くなる。
同時に、背中が焼けるように熱くなって。
私の身体は立ち上がれずに、そのままぐらりと、倒れて。
力なく落ちかけた私を山崎さんが受け止めてくれたけど。
背中から――暖かいものが、なが、れて。
「テメェ!」
そんな怒号と、鈍い音と。
こぽり。
私の背中から液体があふれる音がした。
「咲さん! 咲さんッ! クソッ、救急車! 早く!」
「応急処置だ! 家の中の布ありったけ持って来い!」
賑やかな優しい声が五感を撫でた。
……嗚呼。
あたた、かい。
「やまざき、さん……」
「?! 咲さん、喋っちゃダメだ! 安静に――!」
冷たい場所で、最期を迎えるのだと思っていた。
誰にも看取られず、逝くのだと思っていた。
だけど。
「さみ、しくない……ありが、とう、ございます……」
最後まで言えていたかもわからないまま。
私の意識は闇に沈んでいった。
◆ ◇ ◆ ◇
遠ざかっていく救急車の音を聞きながら、俺は隊員達に組み敷かれた"男"を見下ろした。
「俺の……俺のだったのに。俺だけのものだったのに。返せよ、返せよ……!」
俺を睨みあげて。
男はまるで被害者のように喚いた。
この男には彼女が一体"何に"見えていたのだろう。
「山崎。後は任せて、病院に向かってやれ」
先程男を殴りつけた方の拳を再びきつく握りながら局長はそう言って俺の顔を見た。
だが、俺はそれに首を振る。
「今は俺が行っても何も出来ませんから。後で顔だします」
それに今は――目の前の男を、どうにかしてやらないと気がすまない。
一体どう育ったら、女性を監禁し、襤褸布のようになるまで追い詰めて、逃げ出そうとするその背に刀を振り下ろせるのだろう。
冷たかった彼女の身体からほんの少し残っていた体温さえ逃げていく感覚を思い出して、呼吸が苦しくなる。
勝手に身体に力が入って、目の前の男を、ぐちゃぐちゃに引き裂いてやりたい衝動に駆られた。
「諦めない……絶対に諦めない……! 咲は、俺のものだ! 組織さえ、"あの人"さえ残っていれば、また……!」
「ふうん。それって、"この人"ですかィ?」
背後から気怠げな声がして振り向くと、家の入口に別の拠点を叩いているはずの副長と沖田隊長がいた。
かと思えば隊長は、襟首を掴んで引きずっていた"人物"をぽいと適当に放り投げる。
「こいつが組織の親玉だろ。混乱に乗じて自分だけさっさと逃げ出そうとしたみてェだが、残念だったな」
縛られすぎてミノムシみたいになっている親玉を見下ろして副長は煙草に火を付けた。
煙がくゆんで、消える。
「本部と他の拠点にいた奴らは全員まとめてしょっぴいた。一匹残らずな。……もうテメェの頼る宛はどこにもないってことだ」
その言葉に男はついに項垂れて。
あろうことか泣き出した。
それを見て、俺はつい、力のままに男の胸倉を掴んで顔をぶん殴る。
「ふざけんなよ……! なんでアンタが泣くんだよ! 泣きたいのは咲さんの方だろうが!」
俺の腕の中で目を閉じた彼女はもう泣くことすら出来なくなっていた。
怯えて、縮こまって、顔色を窺って。
相手の一挙手一投足に息を呑んで。
そんな彼女の、ようやっと漏れ出た前向きな感情が"寂しく死なずに済む"、だなんて。
「これで終わりだと思うなよ、クソ野郎。彼女に負わせた傷の責任は、きっちり、アンタに払ってもらうからな」
それでもまだ被害者面を崩さないその男の胸ぐらを放り、俺は、彼女を閉じ込めていた檻に、背を向けた。