逃げ出す"彼女"の背を、ただ見送ってしまってから、もう数日が経過していた。
あの日以来、彼女が大江戸マート近隣に姿を現すことはなく。
無駄に発揮してしまった気遣いを、俺は今更、酷く後悔している。
こっそりと追いかけることも出来た。
だけど、それを躊躇してしまって。
あんな取り乱した姿を見ておきながら――腕にくっきりとつけられた青黒い痕跡まで確認しておきながら。
もし追いかけたことがバレてしまったらなんて、監察にあるまじき心配をしてしまった。
また明日も会えるだろうなんて、油断をしてしまった。
「……咲さん」
其の名を零す。
ぶっちゃけた話、彼女には"助けられるかも"なんて言ったけれど、個人の救出なんて本来は真選組の仕事ではない。
どちらかといえば万事屋の旦那の領分だろう。
今の時代、家庭環境に悩む人間なんてごまんといる。
その全員を救うことなんて出来っこない。
真選組の職務は江戸の治安維持。
先日のように表立って治安が乱れてくれたのなら介入できるけれど、家庭内で発生している問題に踏み込むことは畑違いと言える。
それでも俺は巡回を理由に毎日大江戸マート周辺を彷徨いていた。
厚手の制服のせいで流れ出た汗を拭いながら飛び上がるほど冷たかった彼女の体温を思い出す。
強く引いたら、それだけで壊れてしまいそうで。
だけど、もしまた会えたら。
無理矢理にでもその腕を掴んで引き寄せたら。
彼女は俺に寄りかかってくれるだろうか?
「難しそうな顔をしているな、山崎」
巡回中の俺にそう声をかけてきたのは私服に身を包んだ真選組局長こと近藤勲だった。
真っ赤に腫れ上がった頬を隠すこともせず、彼は爽やかに笑みを浮かべる。
「局長、どうしたんですかそれ」
「いやあ、はっはっは。今日もお妙さんがあまりに素敵でなあ」
「……そりゃ良かったっすね」
いつものことながら殴られたのだろう。
痕の形から察するに、グーで。
「それで。お前はどうしたんだ?」
唐突に話が戻ってきて、思わず俺は肩をびくりと震わせた。
一瞬、相談するべきか迷って。
結局何も言えず、気まずさから頬を掻く。
「まあ、その」
「言わなくてもいいさ。俺にはわかる」
「え?」
「お前のその表情は恐らく、いや十中八九、"恋煩い"……だろう?」
きらん、なんて効果音を口で言いながら。
彼は目を細めて片方の口角を怪しく持ち上げ、親指をぴんと立てて、そう言った。
効果音をわざわざ自分で言う辺りにイラッとして無事な方の頬も殴ってやろうかと思ったが思い直す。
流石に上司だし。
黙っている俺を見て肯定と取ったらしい局長は、ばしんと俺の背を強く叩いた。
突然の衝撃に背筋がしゃんと伸びる。
「堂々としろ、山崎! 人が恋をするのは普通のことだ、恐れる必要はない! どーんと、アタックすればいいんだよ!」
真昼間から好意を寄せる女性にグーで殴られた男からの助言だと思うといまいち有難くないけれど、それでも、俺の背中を押すには充分で。
その日から俺は巡回中だけではなく、休日や退勤後の時間も彼女の捜索に費やした。
……だけど、彼女の痕跡は"不自然なほど"に掴めない。
まるで誰かが彼女の存在を意図的に隠しているかのように。
はじめは希望を持って彼女の姿を追い求めていたはずが、その希望は日を追う毎に、焦燥と後悔に成り代わっていった。
「おい、山崎」
連日連夜、余裕のない顔で屯所を出ていく俺を不意に、真選組副長・土方十四郎が呼び止める。
彼の後ろには珍しく、大人しい様子で一番隊隊長・沖田総悟も控えていた。
「テメェ毎日忙しそうじゃねェか。お気に入りのキャバ嬢でも出来たのか?」
「……そんなんじゃないです」
煙草をふかしながら副長は怪訝そうに眉をひそめる。
「近藤さんから聞いた。休日返上で女追っかけてるって?」
「知ってたなら、意地悪な言い方しないでくださいよ、副長」
「山崎。俺たちの仕事は江戸の平和を守ることだ。女のケツ追っかけることじゃねェ。テメェだって分かってんだろ」
彼の言葉に思わず顔を逸らした。
そんなこと言われなくとも、わかっている。
「でもあの人、傷だらけなんです。もしかしたら何か事件に巻き込まれてるかも」
反論するとずっと一歩後ろで様子を見守っていた沖田隊長が、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「男とシた時の痕じゃねぇのかィ?」
「っそ、んな……!」
ピンクのガムを膨らませながら、彼は目を細める。
まるで彼女を踏みにじられているようで拳を握りしめるけれど、俺はそれ以上何も言えなかった。
「今のご時世、救われねェ女なんて山ほどいる。不幸なのはその女だけじゃねェ。そうだろ?」
副長は煙を吐き出し、俺の目をじいと見る。
わかっている。
そんなこと、端っからわかっているんだ。
――それでも。
「別に、いいでしょう。プライベートで女のケツ追いかけたって。局長だって同じ事してるんだから」
「……まあ、そりゃそうだが」
言葉に詰まった副長に背を向け、俺は屯所の扉に手をかけた。
今宵は新月。
忍ぶにはちょうど都合がいい。
「仕事はちゃんとするんで心配しないでくださいよ」
背後で、副長が溜息を零す声が聞こえた。
◆ ◇ ◆ ◇
あれから、また数日。
あんな啖呵を切っておきながら、結局その後も彼女の消息は掴めないまま時間だけが無情に過ぎていって。
そんなある日、寝る間も惜しんでいた俺を唐突に局長が呼び出した。
「最近、攘夷浪士達の装備がやけに整っていてな。恐らく、なんらかの組織が武器を流している可能性が高い。だが、今のところ尻尾すら掴めていないのが現状だ。……行ってくれるか」
それは潜入任務の命令で。
未だに尻尾も掴めないほどの組織となると全貌を掴むまでにかかる時間は決して少なくないだろう。
局長が神妙な面持ちで言うその言葉に、俺が首を振る理由はどこにもない。
これが俺の仕事だ。
「それと、山崎」
「……? なんですか、局長」
両腿を豪快に手のひらで叩いて立ち上がった局長は窓の外を眺めながら続けた。
「まだ確定ではないが、その組織は売春の斡旋もしていると情報が入っている。数週間に一回、多いときは週に数回。しかもどうやら、その娼婦は一人しか居ないらしい」
「一人……?」
「ああ。なんでも組織の人間が外にも出さず囲ってるって話だ」
一瞬――リンクする。
江戸に三年も住んでいながら、真選組のことすら知らなかった彼女の姿が。
「どこから聞いたんですか?」
「今日捕縛したばっかの攘夷浪士だ。武器の出処を聞いても出てこなかったが、その娼婦の話だけポロッと零したんでね」
そう言って、局長は目を細めながらこちらを見る。
「……確かにトシの言う通り、この江戸には救いを求めている人はたくさんいる。それら全てを俺達だけの手で救うのはちと難しい」
だがな、と彼は口角を上げた。
「好きになった女を救えないのは、真選組以前に男として失格だ」