「どうぞ」
彼は今しがた大江戸マートで買ってきたばかりの真っ白いハンカチを私に差し出す。
つい受け取るのを戸惑っていると、彼は私の手を取って手のひらを上に向け、そこにハンカチをそっと置いた。
かと思えば、促されるまま道の端っこに避難した私の隣に控える。
「あ、あの。お金払います」
「ううん、いらない、いらない。安かったんで大丈夫ですよ」
「でも……」
食い下がるも彼は私が取り出した財布を押し返しながらもう一度首を振った。
「ありがとうございます。本当に、色々」
「どういたしまして。ま、江戸の治安維持も俺達の仕事ですから」
「仕事……?」
つい首を傾げると彼はぱちくりと瞬きをする。
かと思えば身につけている黒い服を見下ろしてから、驚いた表情のまま私を再び見た。
「ええっと。知らない? 俺達のこと」
「? え、ええ。すみません、ええと、有名な方、ですか……?」
私の返答に顔色を曇らせた彼の様子に、失礼を働いてしまったかと肝が冷える。
だけどすぐに彼は、また柔らかな表情で目を細めた。
「俺、真選組っていう江戸に置かれた警察組織に所属してるんです。この黒い服はそこの制服で」
そういえば先程逃げていった男たちもその組織名を口にしていた。
江戸に来てから三年間、一度も外に出ず情報も得られなかった私にとっては、警察組織なんて縁もゆかりも無いのだから知らないのは当たり前だっただろう。
「まさか江戸に住んでて俺達のこと知らない人がいるとは思ってなかったから。さっきドヤ顔したの、ちょっと恥ずかしいな」
「あ……す、すみません。その、あんまり外、出ないので」
「いやいや、謝らないでよ。さっきのドヤ顔もっと恥ずかしくなるから」
たはは、なんて力なく笑って彼は頭を掻く。
かと思えば少し、探るような目線でこちらを見た。
「もしかして最近引っ越してきました?」
「あ、いえ。三年ぐらい、かな。住んでます、一応」
「……そうなんだ」
一瞬、会話が途切れて。
互いの呼吸音と周囲の喧騒に私達は包まれる。
どう会話を続けたら良いのかなんてわからないままふと視線を喧騒の方へ向けると、やけに視線を感じて、私は再び視線を彼に戻した。
「あ、あの。なんか、見られてませんか……?」
「ん? ……ああ、本当だ。ごめん、この制服かなり目立つんだよね。もっと端の方とか移動しようか?」
「いや、ええと。その」
思わず足元を見下ろす。
本当は帰りたくない。
だけど、ずっとここに彼と居たら。
あまつさえ名前も知らない男性とこんなに話し込んでいることに気が付かれたら。
一体どうなってしまうのかなんて想像したくもない。
「俺、山崎退っていいます。その、名前を聞いても?」
「え……」
「そういえば名乗ってなかったなと思って。ええと、嫌だったら、言わなくてもいいですけど」
彼は少し気まずそうに視線を泳がせた。
その頬を、汗が滑り落ちていく。
「……咲と申します」
「咲さん、」
彼――山崎さんは、私の名前を噛み締めるように反芻して。
少し、迷うようにしてから口を開く。
「あの。何か、あったんですか」
先程までゆるりと下がっていた彼の眉が釣り上がった。
眉間には、ほんの少しの皺が寄っている。
「な、何か、って?」
「正直――俺には、あなたが正常な人には見えません。もし、なにか犯罪に巻き込まれているのなら、助けられるかもしれない」
――……たすけ、られる?
抜け出せる?
今の、"日常"から?
「抵抗もせず、泣きも怯えもせず、チンピラに素直に従おうとするなんて普通の精神状態じゃまず有り得ないですよ。嫌じゃなかったら、俺に話してみてほしい」
「え、あ……」
喉が震える。
本当に?
あの日々を死ぬまで繰り返さなくて済むようになる?
奇跡だと思った、届かぬ日常が――また、戻って来る?
「あ、の。わ、たし……っ」
唐突に差し伸べられた救いの手。
恐る恐る、手を伸ばそうとした瞬間に、父と母の死に顔がフラッシュバックした。
仮に助けてもらったところで、その後は?
あの男がまた私を追いかけてこない保証はどこにある?
あれだけ脱走を試みて、一度もそれは叶わなかった。
それどころか今度こそ誰の目も届かない場所へ骨董品のように閉じ込められてしまうかもしれない。
窓から差し込む日差しさえ届かなくなってしまうかもしれない。
そうなってしまったら死ぬことすら出来ないまま、私は、あの男とずっと――。
「……っ、ご、めん、なさい……!」
差し出されたその手を振り払って、私はまた、彼の元から逃げ出した。
走って。
走って。
走って。
私はその身で、家に飛び込んだ。
居間へ続く廊下はしんと静まり返っていて、人の気配がない。
つい先程まで出ていた外との温度差に思わず身体が震えた。
……瞬間。
「おかえり、咲。遅かったな」
曲がり角からぬるりと男が顔を出した。
いつもと違う貼り付けられた笑みに、私は呼吸を忘れる。
「買い物袋がぐちゃぐちゃじゃないか。何があったんだ?」
男はこちらへゆっくりと歩み寄りながら淡々と私に問いかけた。
思わず、後ずさる。
「か……帰ってくる時に、落とし、ました」
「そうかあ。全く、お前はおっちょこちょいだな。お使い一つも満足にできないなんて。普通の夫だったら怒られるところだったぞ?」
「も、申し訳、ありませ――」
言いかけた私の顔を男は鷲掴みにした。
頬に指が食い込んで、ぎりぎりと音を立てる。
「でもな。嘘を吐くのは、もっとダメだ」
指が。
身体が。
恐怖で固まって。
蛇に睨まれた蛙のように私は動けなくなる。
「昨日も、今日も、知らない男と話してたんだろ? お前には俺がいるよな? なんでだ? 他の男なんていらないよな? なあ?!」
「ひ、……っう、」
頭が真っ白になる。
呼吸が喉の奥につっかえる。
嗚呼。
また、戻って来る。
陽の光に手の届かない日々が。
「悪い子にはお仕置きしないとな? お前が悪いよな?」
「……ご、めん、なさい……」
そうして私の"日常"は、再び閉ざされた。