男は――父の弟子だった。
今からおよそ八年前。
折れた刀を手に、男は父の鍛冶工房を訪ねてきた。
聞くところによれば彼は攘夷戦争に参加する武士だったらしい。
しかし戦に疲弊してこっそり離脱し、苦難の末、戦の中で拾った刀に刻まれていた父の銘を頼りにここまで来たという。
職も宛も失ったらしいその男を父と母は快く迎え入れた。
抵抗がなかったかと言われれば嘘になる。
だけどその人は武士というにはあまりに弱々しくて、柔らかくて。
気の許せる"兄"のような存在になるまでそう時間はかからなかった。
しかし男にとっての私は可愛い妹ではなく"ただの女"だったのだ。
「お、俺っ……咲が好きなんだ。俺と結婚してくれ!」
20歳を迎えて、すぐのこと。
男からの突然の申し出に私は困惑した。
それでも、誠実に、断ったつもりだった。
「あなたのことは尊敬してます。だけど、その、男性として見たことはなくって。ごめんなさい」
私の言葉に男は――なんの感情も読めない顔で、家を出ていって。
翌朝、何食わぬ顔で帰ってきた。
「昨日は突然変なこと言ってごめんな。俺、お前に相応しい男になれるように頑張るから」
「え……?」
その日から男は夜な夜な家を出ていっては音もなく帰ってきて、毎日私に「待っていて欲しい」と言い続けた。
私は、待ってなどいないのに。
更にそれから数カ月が経過した頃、事件は起こる。
男が、不買品の刀を闇商人へ横流しして金を得ていたことが発覚したのだ。
流された刀は主に、父が打ったはいいが納得しなかった出来のものや、まだ修行中の身である男が打ったもので。
「何故そんなことをしたんだ?! いつも言っているだろう。うちの銘で打つのは誰かを守るための刀だ。闇商人などという、どこに行くかもわからない輩に渡すものじゃない……!」
"誰かを守るための刀しか打たない"。
これは父の口癖だ。
実際、彼は刀を売る先をこれでもかというほど厳選していた。
その上、流された刀は父が納得しない出来のもの。
つまり――端的に言って、切れ味があまり良くないものということになる。
誰かを守るどころか、斬られた人間を長く苦しめる刃。
そんなものを父が市場に流すわけがなかった。
「もういい。理由はどうあれ、お前は破門だ。二度とうちの敷居を跨ぐな」
それが、父の最期の言葉だった。
逆上した男に、父は斬られ。
私を守ろうと立ち上がった母もまた、同じように斬られた。
「アンタ達が悪いんだ、師匠……おかみさん……! 俺に、咲をくれないから……ッ!」
そこにはもう――柔らかな"兄のような彼"は、居なかった。
◆ ◇ ◆ ◇
「おい姉ちゃん」
乱暴なその声に、はっと意識が戻って来る。
どうやらぼーっとしていたようだ。
三年ぶりに外へ出た、その翌日。
昨日よりは幾分スムーズに大江戸マートへ辿り着いて。
数分迷った末に意を決して中へ入り、慣れない店内で軽く迷子になりかけながらも卵や牛乳を購入してやっと店を出た矢先。
ガタイの良い男と衝突し、私の身体は弾け飛んで、手に持っていた買い物袋はぐしゃりと音を立てて地面に落ちてしまったというのがここまでの経緯である。
「ちょっと付き合えや」
目の前の、私の身体を弾き飛ばしたその男はわざとらしく買い物袋を踏みつけながら地面に座り込んでいる私の手首を乱暴に引いた。
瞬間、私の身体は無理やり持ち上げられ、着物の裾から青白い腕がぬるりと顔を出す。
生気のない白蛇のような肌に浅ましくも生を主張するようにして青白い痣や傷が植え付けられていた。
それを見た男の口元が、にたりと緩む。
「いいから来いって。優しくしてやるからよ」
下品に歪む目から私は視線を逸らした。
抵抗したって意味はない。
すべて終わったら口封じに殺されるかもしれないけれど……もう、その方がマシなのかもしれない。
ここを無傷で凌いだとしても私にはきっと、同じ様な終わりしか用意されていないだろうから。
だからもう。
どうでもいいか。
抵抗を諦め、男に手を引かれるまま一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「離せよ」
手首に巻き付いていた粗暴な男の手が解けて。
代わりに、暖かな温度が指先からじんわりと流れ込んできた。
目の前には少し長めの黒い髪と、黒い背中。
腰に提げられている刀の柄が、心地よいお天道様の光を浴びてぎらりと光る。
「おい、真選組だ!」
「やべえ……行くぞ!」
ばたばたと足音が去っていく音がして、同時に、突然間に割り込んできた彼が振り向いた。
そうしてやっと、その人が昨日もここで会ったあの垂れ目の彼であることに気がつく。昨日とは服装が違ったから、背中越しでは気が付かなかった。
「大丈夫ですか?」
昨日より少し静かな声色で彼はそう言いながら私の顔を覗き込む。
いつの間にか握られていた指先が、少しずつ温度を取り戻していった。
「あ、ありがとう、ございます。その、何度も」
慌てて彼の手から自分の指先を引き抜く。
徐々に体温が逃げていくのが寂しくてむず痒い。
「いえ、間に合ってよかった」
そう言って笑った彼は地面に落ちていた買い物袋をそっと拾い上げて砂埃を優しく払った。
が、中身をふと見て顔をしかめる。
「うわあ……卵全滅ですね。さっきの奴ら、追いかけて弁償させます?」
「え? い、いえ、そこまでしなくても。大丈夫、です」
「そうですか? あ、じゃあ俺が弁償しますよ。ほら、昨日ぶつかっちゃったお詫びに」
「そ、そんなっ。平気ですから……ぶつかったのは私が悪いですし。お気遣い、ありがとうございま――」
声が震え、私はつい言葉を飲み込んだ。
鼻の奥がつんとして。
視界が潤む。
「え……あれ……?」
滲む視界の中、彼が酷く驚いている顔が見えた。
「だ、大丈夫ですか? やっぱりどっか痛いです?」
「ちが……っ、ちが、うんです……っごめんなさい、ごめんなさい……っ」
暖かい。
眩しい。
心地よい。
……ただ、優しくしてもらうということが。
裏表なく心配してもらうということが。
こんなにも。
「ごめんなさいっ、気に、しないで……っ」
感情が溢れて止まらない。
今更、失ってしまったものの大きさに気がついたように。
「気にしないでってのは、ちょっと難しいかな」
言いながら彼は困ったように笑って。
もう一度私の指先を、優しく握った。
その暖かさが私の涙に拍車をかけて――結局その場で私は、棒立ちのまま十数分泣き続けていた。