ある、麗らかな午前。
窓の向こうから小鳥の鳴き声がするような清々しい夏空の日。
男は私に近隣のスーパーへ買い出しに行くよう言いつけた。
思わず、え、と声を漏らした私に、男は眉を下げながら困ったように笑って続ける。
「今まで苦労かけたし、そろそろ息抜きに買い物ぐらいと思ってな。夕食はお前が好きなものを作って良いから。ほら、これお金」
そう言って男は私に小さな花柄の財布を差し出した。
震える指先で受け取ると、男は頬を赤くする。
「その財布も、プレゼントだ。これからは小遣いもやるから好きなお菓子とか買って来ていいぞ」
男の笑顔に心臓が冷えた。
一体どういう風の吹き回しだろうか。
「あ、りがとう……ございます……」
「いいってことよ。じゃ、買い物行って来い。俺は家で待ってるから、気を付けてな」
ひらりと手を降って男は私を見送った。
私はといえば、数分、迷って。
震える手を握りしめながら恐る恐る外へ出て、玄関の扉を閉める。
そうして暫し、玄扉を見つめたまま待った。
だが男は追いかけてくる様子はなく――それどころか、私が出ていったのを確認したらしい男がそのまま家の奥へ歩いていく音が聞こえてきて、困惑のあまり私はその場に固まる。
本当に行ってもいいのだろうか。
甘言に惑わされたが最後、今までより酷い仕打ちが待っているのではないか。
これまで脱走を試みた時と同じく、きっと今も、どこかで誰かが私を監視しているのではないか――。
「……っ、」
怯えて振り向いた瞬間、三年ぶりの直射日光が瞼に刺さった。
それが、あまりに温かいから。
あまりに眩しいから。
私は、誘われるようにして歩き出していた。
季節は夏。
薄手の着物に身を包み汗を滲ませながら歩く人たちの中で、季節感の欠片もない着物とその下に首まで隠れるタートルネックを着ている私の姿はきっと、ひどく面妖に映っただろう。
だけどそんな周囲からの視線に気が付かないまま、私は、窓越しではない空を見上げながら、夏の匂いを吸い込んで、土の感触を踏みしめた。
江戸はこんな街だったんだ。
こんな匂いだったんだ。
こんな、心地よい場所だったんだ。
三年ぶりの外の空気。
少しでも長く味わっていたくて、私は一歩ずつ、本当に、気が遠くなるほどゆっくりと歩いた。
あの男のことだ、次いつ外に出られるかなんてわからない。
明日にはまた雨すら浴びれない日々に戻ってしまうかもしれない。
もう、一生に一度かもしれない。
そう思えば思うだけ足取りは重たくなって。
喧騒が私を置き去りにして過ぎていった。
「――あ、」
一際大きな喧騒に顔を上げるともう目の前に目的地のスーパーが迫っていて、私はつい足を止める。
"大江戸マート"と書かれた大きな看板の下を、人々が往来していて。
それをぼうっと眺めていたらふと、母親に手を引かれて店を出てきた小さな女の子と目が合った。
ぱちくりと瞬きをしたその少女は不思議そうな顔のまま、手に持っていたお菓子にかぶりついて――私から目を逸らして母親の顔を見上げ、にこりと笑い、そのまま立ち去っていく。
それはあの少女にとってはただの日常で。
私にとっては、もう、手を伸ばしても届かない奇跡の時間で。
買い物を終えたらまた戻らなければいけない。
私の"日常"へ。
「……っ、や、だ……」
蚊の鳴くような声が喉の奥から滲み出る。
それは今まで、必死に蓋をしていた感情だった。
もう嫌だ。
逃げ出したい。
帰りたくない。
あんな生活、もう――。
「うわっ?!」
思わず振り向いて大江戸マートから逃げ出そうとしたら丁度後ろにいたらしい人にぶつかってしまった。
私の身体はそのまま弾き飛ばされて、グラつく。
「あっ……ぶ、ない……!」
そんな声と共に、ぶつかってしまったその人はバランスを崩して倒れそうになった私の背中を支えた。
必然、至近距離で視線が混じって。
すれ違うだけではあまり記憶に残らなそうな、だけど優し気な垂れさがった目尻が印象的なその人は、小さく息を吐いて口を開く。
「す、すみません。大丈夫ですか?」
暖かな手の温度に私は少しだけ呼吸を忘れて――慌てて、彼の腕の中を抜け出した。
「ごめんなさい。前、見ていなくって」
思えば、"人"と会話をするのは三年ぶりのことで。
そう発した私の声は随分と掠れていた。
「いえ、俺の方こそ。どこか痛めてないです?」
「……平気、です。ありがとうございます」
首を振ると彼は「よかった」と言いながら小さく笑う。
そうして会話は途切れて。
思わずそわそわしながら彼を盗み見ると、彼はじいと私の服装を見つめていた。
かと思えば、あの、と少し気まずそうに切り出す。
「暑くないですか? 服」
「え……あ、その。いえ、別に……」
彼の視線から逃げるように私はタートルネックの襟を指先で摘んで、口元まで持ち上げた。
この下には、"同居人"や見知らぬ男たちに付けられた傷や煙草の跡が無数にある。
"同居人"の言葉を借りるわけではないけれど、見えていて気分の良いものではないだろう。
「そう、ですか」
私からの返事に、彼は少し怪訝そうな顔をした。
また会話が途切れて。
ついに私は居た堪れなくなって、踵を返す。
「それじゃあ、ええと。――さようなら」
「えっ、あ……」
困惑した様子の彼を置き去りにして帰路につく。
感情が胸の内でぐちゅぐちゅと渦巻いて、気がつけば私は走っていた。
手ぶらのまま息を切らして帰ってきた私を"同居人"はどう思ったのか随分満足そうな顔で出迎える。
「なんだ、買い物忘れたのか? 息抜きしすぎだって、全く。お前は俺がいないとダメだなぁ」
そう言って男は私の頭を撫でた。
酷く、冷たい手だった。
「代わりに俺が買い物行ってくるよ。留守番宜しくな」
男が出ていって。
一人残された私は壁を背にずるずると座り込んだ。
心臓が痛いほどに高鳴っている。
同時に家の中が、とても、気持ち悪く感じて。
「……っう、おえ……ッ!」
思わず厠に駆け込んで胃の中身をすべて吐き出した。
嘔吐物と一緒に、奥底に押し込めていた感情がせり上がってくる。
幸せな日常。
心地の良い目覚め。
不安のない夜。
諦めたはずのそれらに、指先が触れてしまって。
私の"日常"が、崩れ落ちていく。
……ダメだ。
もう一度、飲み下さなければ。
そうしなければ私は。
不快感から滲んだ目尻の涙を拭って、息を止める。
(――誰か助けて)
喉の奥まで出かかったその言葉を。
私は、ごくりと飲み下した。