その日の夕方。
羽村さんの裁判を終えた兄は、いの一番に私の病室を訪れ、怒気を孕んだ様子で私のベッドの脇に腰を下ろした。
「はあ……そんで? お前はなんであんなとこにいたんだよ。おまけに数針縫うほどの怪我までして」
意識を失った私はあの後、海藤さんによって近隣の病院へ担ぎ込まれた。
診断は頭部からの出血と脳震盪。幸い、検査の結果外傷以外に大きな影響はなかったようで一晩入院すれば無事に帰ることができるらしい。
「別に、なんでって理由は特にないの。街を歩いてたらたまたま、女の人が車に詰め込まれそうになってて。周りは誰も助けようとしないから、その、つい」
「危険も顧みず突っ込んだってわけか。大人数のヤクザ相手に」
「う……」
「お前のそれは無鉄砲って言うんだぞ」
ここまでずっと付き添ってくれていた海藤さんも、兄の言葉に渋い顔を浮かべる。
「だ、だって。ヤクザだってわかったのは喧嘩売ったあとだったし……それに、お兄ちゃんだって海藤さんだって、同じ現場に居合わせたら助けに入ってたでしょ?」
すると二人は顔を見合わせた。
兄は「まあそりゃ、そうしたかもしれないけど」と目をそらすが、海藤さんは腕を組んで私に視線を戻す。
「でもな、多少傷ついたぐらいじゃ平気な俺達と違って、香織ちゃんは女の子なんだぞ。そもそも物理的に男とは耐久度が違う。わかるだろ」
「それは――そうだけど」
「香織ちゃん。俺達はなにも、助けに入ったことに怒ってるわけじゃない。無理をしたことに怒ってんだ」
いつになく真剣な顔で海藤さんは私の目をじっと見つめた。
「……ごめん、なさい」
「わかればよろしい」
私の返事ににぱっと笑みを浮かべた海藤さんはそっと私の背中を撫でる。
その指先から伝わってくる高めの体温が心地よい。
「つーか、今回は俺がたまたま助けに入れたから良かったものの、もし俺とは別件だったらどうするつもりだったんだよ。今後は一人で突っ込まず、まず俺か海藤さんに連絡すること。わかったな」
「はぁい」
頷いてみせると兄は小さく笑った。
「ところで――結局、裁判はどうだったの?」
「ああ。羽村は無罪で釈放されたよ。新谷がうまくやってくれた」
「そっか。……で、お兄ちゃんはこれからどうするの?」
「ん?」
その問いは想定していなかったのか、兄は不思議そうに声を漏らす。
「言ってたでしょ。羽村さんは真犯人と繋がってるはずだから、その尻尾を掴むために羽村さんを無罪にして泳がせておくって」
「――ああ」
すると兄は少し考え込むようにして天井を見上げた。
「まだどうするかは決まってないよ。でも、羽村は俺達を利用してまんまと無罪を勝ち取って、真犯人の存在を闇の中に隠した。……俺達はコケにされたんだ。黙って引き下がるわけにはいかない」
「相変わらず、負けず嫌いだね。お兄ちゃん」
言いながら海藤さんに視線を移すと、目があった彼は困ったように笑う。
「さてと。そろそろ面会時間終わりだろ? もう行くけど……明日、退院出来るんだよな?」
「うん。大丈夫そうって先生が」
「わかった。何かあったら連絡しろよ。じゃ、またな」
去っていく二人を見送ると、病室にはしんと静寂が訪れた。
途端、なんだか少しだけ寒さを覚えた私は両腕を擦る。
今の部屋は4人部屋なのだけれど――なんの因果か、私が使っている以外のベッドは空っぽだ。
大きな部屋を独り占めすることがこんなにも寂しいとは思っていなかった私はつい、人の気配を求めて談話室へ向かおうと身体を起こす。
瞬間、病室のドアが開く音がした。
そうして入ってきた足音はゆっくりと私のベッドへ近付いてきて――。
「よう。香織」
「――!」
背筋がひやりとする。
そこにいたのは、狡猾にも兄を利用して釈放されたばかりの、羽村京平、その人だった。
「せっかく久しぶりに話すってのに、そんな顔しなくていいだろ?」
正直、彼のことは初対面の時からずっと苦手だ。
だってこの人はいつも――"兄"というフィルターを通して、私を見ている。
「にしても、お前の兄貴のおかげで助かったぜ。礼を言っといてくれよ」
「……伝えておきますね」
彼にとっての私はいつだって"八神隆之の弱点"でしかない。
私を、ただの、兄を失脚させるためのカードとしか見ていない。
この人と対峙しているとそれがひしひしと伝わってきて――それが酷く、悔しくて、怖い。
「だがな、困ったことにター坊は、どうやら俺をまだ疑ってやがるんだ。だからよ、お前から言っといてくれねぇか? これ以上首突っ込んだら、優しくしてやれねぇって」
ベッド脇に置いていたパイプ椅子に許可も取らず座った彼は、ゆったりと足を組んだ。
「私が言って聞くような人なら、最初から首突っ込んだりしませんよ」
「はっは! 違いねえ」
乾いた笑いをこぼし、羽村さんはベッドに手をついて寄りかかる。
スプリングが軋んで少し身体が傾いた。
「でもよ、お嬢ちゃん。相手に言うことを聞かせたい時は、なにもわざわざ真心こめて説得するだけが手段じゃねぇんだ」
「――、」
そうしてゆっくりと近づいてきた彼は、私の身体をベッドに押し倒す。
肩に、彼の指先が食い込んだ。
「今、てめぇを攫って、閉じ込めて、指を一本ずつ切り落として送りつけでもしてやりゃあ、すぐに手を引いてくれるかもな?」
低く、響く声。
この人は……あまりにも、ヤクザらしいヤクザだ。
裏の世界においてはカリスマ性すら感じさせる。
「ここまで脅されて、眉一つ動かさねえのかよ。はは、腐ってもター坊の妹ってことか?」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「ふん、つまんねー女だ。――いいか、忠告はしたぞ」
そう告げると彼は面白くなさそうに顔を歪め、私の肩を乱暴に離し、病室を出ていった。
遠ざかっていく足音と反比例して、徐々に心拍数が上がっていく。
そうしてようやく、深く息を吐いた私はスマホを手に談話室へ足を運んだ。
『通話OK』の表記を確認してから少し震える指で兄に電話をかける。
数コールの後に聞こえてきた「どうした?」という彼の声に、緊張がほんの少しだけ解けた。
「――お兄ちゃん。今、羽村さんが来た」
『なに? 病院にか? 何された?!』
「大丈夫、なにも。……釘を差しに来たんだと思う。お兄ちゃんに。これ以上首突っ込むなってさ」
『……なるほどね』
電話の向こうで兄は小さく息を吐く。
多分、また怒ってる。
『本当に何もされてないのか?』
「平気だってば。心配しすぎ」
少しずつ、乱れていた心拍が落ち着いてきた。
『なら、いいけど。香織、明日の退院何時だったっけ』
「ん? ええと、確か9時だったかな」
『わかった。迎えに行くから、勝手に帰るなよ』
「なにお兄ちゃん。そんなこと言うの珍しいじゃん。そんなに私のことが心配?」
少し茶化すように言うと、電話口の兄は少しだけ苛立ちを滲ませながら『当たり前だろ』と吐き捨てた。
『相手は、目玉抉られるってわかってて他人差し出せる男なんだ。心配するに決まってるだろ』
「……そう、だね。ありがと」
『じゃあ明日。また何かあったらすぐ連絡しろ』
「うん。じゃあね」
名残惜しさを感じつつ、電話を切る。
そうしてなんとなく見上げた談話室の窓からは真っ赤な夕日が差し込んでいて。
なんだか眩しくて、私はそっと目を細めた。