そして時は流れ――1年後、2018年12月。
夜の神室町は、松金組と関西の極道組織「共礼会」との抗争の話で持ちきりだった。
古くからヤクザが跋扈していた神室町において、今更抗争なんて珍しいことでもない。
では何故こんなにもその抗争の存在が一般人の耳にさえ届くほど大きくなっているのかと言うと――共礼会組員の遺体が、両目をくり抜かれた状態で、三度も見つかったからである。
そしてその事件は松金組若頭・羽村京平が容疑者とされており、彼は警察に身柄を拘束され、裁判の開廷を待っているらしい。
まあ、とはいえ。
やはり一般人である私にとっては、まるで雲の上の話のように感じてしまうのだけれど。ただ――羽村さんならやりかねない、と思うぐらいだろうか。
「あ、真冬さん!」
「あら、香織ちゃん。こんばんは」
今日も今日とて兄の元へ作り置きのおかずを届けに来た私は、事務所の前で見慣れた女性と鉢合わせた。
藤井真冬さん。
現役の検事で、兄がまだ弁護士として働いてきた頃からの付き合いだ。
そして当時と同じく――おそらく、兄のことを慕ってくれている。
「お兄ちゃんに会いに来たの?」
「ええ。ちょっと、仕事の話を。香織ちゃんは?」
「これを届けに来たんだ」
保温バッグに入れて持ってきたおかずを見せると真冬さんは困ったように笑った。
「もう。八神君ったら、まだ妹さんにご飯作らせてるの?」
「あはは。本当に。真冬さんからお説教してあげて」
言いながら一緒にビルの階段を登り、事務所に足を踏み入れる。
すると、すっかり探偵助手が板についてきていた海藤さんが出迎えてくれた。
「よ、香織ちゃん。……ん? 真冬ちゃんまで?」
「こんばんは、海藤さん。八神君は?」
「まだ仕事中だ。仕事の話か? 中で待ってていいぞ」
「そうさせてもらうね」
そうして事務所に足を踏み入れた彼女に続き、私はいつもの通り、冷蔵庫におかずを詰め込む。
ついでに戸棚から適当なマグカップを出して応接椅子に座った真冬さんの背中に声をかけた。
「真冬さん、コーヒーでいい?」
「うん、いいよ。ありがとう、香織ちゃん」
インスタントコーヒーなことを少し申し訳なく思いつつ彼女にマグカップを差し出すと、彼女はそれを一口飲んでふわりと優しく微笑む。
その時、階段を登ってくる音がして、数秒後、事務所に仕事終わりらしい兄が姿を現した。
「あれ? なんでお前が……」
「お前とか言っちゃ駄目だろ、ター坊」
戻ってくるなり、真冬さんを「お前」呼ばわりする兄を海藤さんが諌める。
それを受けた彼女はなにを返すでもなく、「ごきげんよう、八神君」とだけ挨拶をして微笑んだ。
「言っとくけど。真冬ちゃん、お前とヨリ戻しにきたわけじゃないぞ」
「ヨリ戻すって……」
海藤さんの言葉に兄は困ったように顔をしかめる。
するとすかさず、真冬さんが「付き合うまでいってない」と強く訂正をし、海藤さんは真剣な顔で「失礼しました、検事殿」と頭を下げた。
そのやりとりがなんだか微笑ましくて、冷蔵庫にもたれかかった私はつい吹き出してしまう。
「何笑ってんだよ、香織」
「んん? なんでも?」
兄が矛先を私に向けるも、私はニヤニヤしたままそう返した。
すると兄は口を噤んでぷいとそっぽを向いてしまう。
我が兄ながらわかりやすい人だ。
「……仕事の話で来たの。当然だけど」
不意に。
緩んだ空気を咳払いで戻しながら、真冬さんが本題に入った。
彼女の言葉に兄は「仕事?」と鸚鵡返しをする。
「松金組若頭、羽村京平の例の事件。検察の方で起訴にしたから。八神君も絡んでるんでしょ?」
「――早耳だな」
「源田法律事務所の情報は私に筒抜けなの」
「さおりさんから聞いたのか。相変わらず仲良いな」
「当たり前でしょ? 幼馴染だもん」
「それに大学同期か」
「そ」
二人の会話を聞いているとふと、まさにそのさおりさんの顔が脳裏に浮かんだ。
そういえば彼女とはしばらく会っていない。
兄が弁護士を辞めてしまってから私が源田法律事務所を訪ねる理由がなくなってしまったのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。
「羽村の件だけどもう起訴なの? まだ逮捕したばっかりなのに」
「担当検事は前から羽村に目をつけてたみたい。逮捕するまでずっと泳がせてたんだって」
「その担当検事っていうのは――あ、いや、待って」
「なに?」
話を続けようとした兄が不意に会話を止めた。
不思議そうに首を傾げた真冬さんから、兄は私に視線を移す。
「これ、一般人が聞いていい話?」
事務所にいた三人の視線が一気に私に集中した。
確かに、ここにいるメンバーで一切事件に絡んでいないのも、そもそも、兄が羽村さんの事件に絡んでいることさえ知らされていなかったのも私だけだ。
「なに? 私、仲間はずれ?」
ついそう言ってしまうと、真冬さんは小さく笑った。
「大丈夫。別に機密情報じゃないから。ニュースにもなってるぐらいだし」
「そう。なら、いいけど」
兄が頷くと真冬さんは一拍おいて、口を開く。
「担当は、泉田検事」
「なんかそんな気がしたんだ」
顔をしかめ、うんざりとしたような顔をする兄の様子に、私は記憶を辿った。
泉田検事。
なんだか聞いたことはあるけど、誰だったっけ。
「泉田って……ター坊が無罪とった時の検事か」
「――ああ!」
海藤さんの言葉に私は思わず声を上げてしまった。
兄が弁護士として名を馳せることになった大久保新平の最初の裁判、その時、兄と対峙したのが泉田検事だった。
「3年ぶりの対決ね」
「いや俺が法定に立つわけじゃないから。そういうのは全部新谷がやる」
なんだかしみじみと零す真冬さんに兄はそう返す。
というか、担当弁護士、新谷先生なんだ。
兄と喧嘩したりしないと良いけど。
「やっぱり弁護士に戻る気はないの?」
「この間、源田先生にも言われたよ。その話はもういいって」
「……そっか」
残念そうに目を逸らした真冬さんはゆっくりと立ち上がり、傍らに置いてあったバッグを手に持って歩き出す。
「検察からもなんかうちに仕事ないかな? 真冬だったら安くするよ」
去っていく彼女の背中に兄がそう投げかけると彼女は足を止めて振り向いた。
その目には複雑な感情が滲んでいるように見える。
「前から思ってたんだけど……」
「ん?」
「八神君、探偵なんて全然似合ってないからね」
そう言い残して、真冬さんは事務所を出ていった。
さて私もそろそろ帰ろうかなんて思っていたら不意に海藤さんが随分楽しそうな声色で「電話で済む話だったな」と切り出す。
「なのにわざわざ会いに来たわけだ。どう思う?」
茶化すようなその言い回しに兄は視線を外し、外が暗いから送ってくると言って真冬さんを追いかけていった。
その背を見送りながら、私は意味深に「ふうん」と零した海藤さんと顔を見合わせる。
「どう思うよ、香織ちゃん」
「どうもこうも……ねぇ?」
野次馬根性が働いた私は事務所の窓から外を覗いた。
先に出ていた真冬さんに兄が声をかけようとしたその瞬間、兄の腕を見知らぬ中年男性が掴むのが見える。
「海藤さん、なんかお兄ちゃん揉めてるっぽいよ?」
「んん?」
私の隣に立って窓の外を眺めた海藤さんは、にんまりと笑みを浮かべた。
「こりゃ面白そうな予感がするじゃねぇか。ここからじゃ会話は聞こえねぇし、香織ちゃん、覗きに行こうぜ」
「あいあいさー!」
海藤さんと共にビルを出て、物陰から兄の様子を伺う。
話を聞くにどうやら兄の腕を掴んだ男性は検事正なのだとか。
「検事正って確か、地方検察庁の一番偉い人だよね? すごい大物が来ちゃった……」
「それだけじゃねえみたいだぞ。泉田まで出てきた」
噂をすればなんとやら、明らかに敵意剥き出しで近付いてきた泉田検事は兄に挑発的に話しかける。
送る必要はなかったと踵を返そうとした兄に、彼はわざわざ「今、探偵をやっているんだってな」と切り出した。
「一度は無罪を勝ち取った弁護士なのに、もったいないなあ」
それは明らかな挑発で、私は思わず海藤さんと顔を見合わせて表情を曇らせる。
あの程度の挑発、軽く流してしまえば良い。
だけど兄は――乗ってしまう人なのだ。
負けず嫌いで、なんというか、悪く言ってしまえばチンピラ精神を持っているから。
「あんときはあんたが相手だから勝てただけだよ」
兄が返した言葉に私は頭を抱える。
挑発に乗ってしまうだけならまだしも、その「やり返し」がまた結構な威力なのだ。
相手の遠回しな開戦の合図に、兄はいつも真正面から武器を突きつける。
彼が厄介事に巻き込まれ――いや、自分から首を突っ込んでいる時の大体お決まりのパターンだ。
「ほざいてろ。野良犬が」
案の定、泉田検事は嫌悪感を隠そうともせず、兄からの更に大きな挑発に乗ってしまう。
「お前のでたらめな弁護で誤審が生まれたんだ。そのせいで一人の女の子が殺されたんだぞ……!」
「ん? どこがでたらめだった? 検事だったら具体的に言ってみろ」
「なにもかもだ!!」
今にも殴り合いの喧嘩が始まってしまいそうな空気感に、私は海藤さんを見上げた。
いざとなれば加勢にと思ったけれど、そもそも相手は法を司る機関に勤めている検事だ。
こんなところで傷害事件など起こすはずもないだろう。
「もういいだろ、泉田」
「やめましょ、泉田さん」
ハラハラしていたら様子を見守っていた森田検事正と真冬さんが止めに入ってくれ、そのまま真冬さんは泉田検事を連れて去っていった。
去り際、送りに来てくれてありがとう、と零した彼女の表情はなんだか嬉しそうで、とりあえず、安堵する。
次いで森田検事正も見送ったところで歩き出した海藤さんに続いて、私も道に出た。
「なかなかシブいな、今のおっさん。あの貫禄、若い女は参っちまうぞ」
「だったらなんだよ?」
苛立ちを隠そうともしない兄に海藤さんは相変わらず楽しそうにしつつも、「いや、なんでもねえ」と会話を切り上げる。
「で? 仕事の話だけどよ、次はどうする?」
「検察はカシラの起訴を決めたってことだった。源田事務所にいって新谷と打ち合わせよう。海藤さんも一緒にいてくれ」
「わかった。なら俺は香織ちゃんを家まで送って、先に行ってる」
「ん? 送るのは良いけど、なんで? 一緒に行けばいいだろ」
そう言いながらこちらを向く海藤さんと目があった。
彼はそのまま再び兄に視線を戻し、眉を下げる。
「お前はまあ、その……少し頭冷やしてからゆっくり来いや。香織ちゃん、行こうぜ」
「うん。じゃあまたね、お兄ちゃん」
歩き出した彼の背を追いかけつつ、なんだか不満げな顔の兄に振り向いて、口を開く。
「あんまり危ないことに首突っ込まないでよー?!」
私の言葉に兄は何も返すことなく――迷惑そうに眉をひそめるのだった。