「あの……っ、今度、一緒に食事でもどうですか!」
真剣な表情で。
随分と気合の入った語気で。
少し上ずった声で、そんな風に誘われてしまって。
私もつられて赤面してしまうかと思った。
唐突に私を誘ったその人――東さんは、まるで告白の返事を待つかのような表情で私の反応を伺っている。
あの日、コンビニの前でナンパしてきた男4人を撃退し、東さんとの接点ができてから気がつけばもう数カ月が経っていた。
彼はというと、街で私を見かける度に声をかけてくれていて、近況報告やら世間話やらをして別れることが日課になりつつある。
今日もまた街を歩いていたら偶然彼と出会い、軽く話をして別れようとしたその瞬間に、彼は私を食事に誘ってくれた。
いくらなんでも、その誘いに明確な目的があるとわからないほど私は鈍感じゃない。
気付いてしまったのだ。
彼が私にやたら声をかけてくれる理由にも、食事に誘ってくれた理由にも。
私を熱心に見つめるその瞳に、どんな感情が滲んでいるのかも。
「だめ、ですか」
驚きでつい固まってしまっていると彼はしゅんとした表情で私を見る。
その顔が、なんだかとても、愛おしくて。
「……いいですよ。行きましょうか」
「ま、マジすか?! やったぁ……!」
そうして私達の関係は、「たまに会って世間話をする間柄」から「たまに食事をする間柄」へと変化した。
食事に行っても話す内容は大きく変わらなかったけれど、それにしたって、共に過ごすその時間はなんだかとっても大切なものに感じて――私もまた、彼に惹かれるようになるまでそう時間はかからなかった。
「香織、お前、東のこと好きなのか?」
「へあぇっ?!」
ある日曜日。
兄のために作ったおかずが詰まったタッパーを事務所の小さな冷蔵庫にしまおうとしていた私の背に、兄がそう声をかけてくるものだから、私は思わず手に持っていたそれを落としてしまう。
瞬間、蓋が開いてしまうかもしれないとヒヤッとするけれど、幸いタッパーがそのまま地面に叩きつけられるだけに留まってくれたので、慌ててそれを拾い、改めて冷蔵庫にしまった。
「な、なんで……?」
「なんでって。流石に見てりゃわかるよ」
そう言って苦笑いする兄に、私は顔が熱くなるのを自覚する。
別に、恥ずべきことではない。
そのはずなのに、身内に自分の恋心が悟られていると思うと、どうにもこそばゆくて逃げ出したくなってしまう。
「別に俺がどうこう言うことでもないけどさ。そもそも俺が松金組と繋がってたから、お前まで繋がっちゃった結果が今なわけだし。……でも、わかってるか。相手はヤクザだぞ」
「……ん。わかって、る。つもり……」
言いながら段々と自信がなくなってしまい、私の声は空気中に溶けてしまった。
勿論、頭ではわかっている。
だけど、ヤクザの男と共に居ることが何を意味するのか、きっと私は本質的に理解できていないだろう。
兄や海藤さん、東さん達と違って私は――あくまで一般人だから。
「そ。ま、危ないことはすんな。なんかあったら、ちゃんと俺達を頼れよ」
「うん……ありがとう、お兄ちゃん」
◆ ◇ ◆ ◇
そうして、彼と一緒に過ごすことが当たり前になり始めた頃。
気がつけば神室町へ来て、二年の月日が流れていた。
「じゃあな、ちゃんと戸締まりするんだぞ。香織」
「うん、送ってくれてありがと。東さん」
いつの間にか私達の間に敬語はなくなり、月に数回、多い時は週に一回、共に食事をして、彼が私を家まで送り届けてくれることが習慣づいている。
なんだか煮え切らない私達に周囲はほんの少し呆れ気味で、私のことを心配していた兄からは「まだくっついてないの?」と驚かれるし、海藤さんに至っては毎回食事だけで済ませる東さんに思いっきり説教までかましたらしい、と兄から聞いた。
それでも彼はまだ、踏み出してはくれない。
寂しいけれど――でも、きっと彼は迷っているのだと思う。
私を、極道組織の内側に招き入れることを。
そして私もまた、そこに自ら飛び込んでいけるほど無鉄砲でもない。
彼と二年弱もの間話をしてきて、ヤクザ組織は決して一枚岩ではないこともわかった。組員が20にも満たない小さな組織の中でも混沌とした人間関係が渦巻いているのだということも。
だから私は、内部にいる彼が自ら私を招き入れてくれるまで待つことにしていた。
「――なあ、香織」
「ん?」
呼ばれて見上げると、視線が絡む。
ちょっと人相が悪く見えてしまう切れ長の目がゆるりと細められ、彼の指先がゆっくりと頬に伸びてきた。
だけど彼はそのまま少し迷って――手を引っ込めて、じゃあ、と零して去っていってしまう。
もう、このやりとりも何度目だろうか。
いっそこちらから強引に口づけをしてしまいたくなるけれど、それが出来てしまうほど私達の立場は簡単じゃない。
でも、だけど。
「……意気地なし」
私はつい、ぽつりとそう零してしまった。
一体いつまでこの関係が続くのだろうと不安を覚えていた、その数日後。
私達の関係は、あっさりと、途切れてしまうことになる。
「え、破門?!」
その日、私は兄が使ったタッパーを回収しに事務所を訪れていた。
そうしたら事務所に海藤さんがいて。
別段それ自体は珍しいことでもないのだけれど、海藤さんが兄の探偵の業務にやたら詳しいことに気がついた私はふと、二人で膝を突き合わせて仕事の話をしていた彼らに振り向いた。
そして、気がつく。
初対面の時からずっと海藤さんの胸元にあった、家紋を模したバッジが外されていることに。
不思議に思った私は何の気無しにそれを訊ね、つい昨日、彼が松金組を破門になり、兄の探偵事務所で従業員として雇われることになったと聞かされた。
「海藤さんが居る時に組に強盗が入って一億が盗まれたんだ」
「じゃあ……海藤さんは、その責任を取って?」
「そういうことになる」
頷いた兄は小さく息を吐きながら苦笑いをする海藤さんを見る。
「破門で済んで良かったよ。俺が行った時には、指詰めさせられる直前だったから」
「そう、だったんだ……」
それ以上なんと言うべきかがわからず言葉に詰まっていると、それに気がついた海藤さんはくしゃっとした顔で笑った。
「ま、過ぎたこと言ったって始まらねえ。だからよ、香織ちゃんもあんま気にしないでくれ」
「……わかった。今度からおかず多めに作ってくるね。海藤さんも食べられるように」
「そりゃ助かる。楽しみだな」
言いながら海藤さんはゆっくりと立ち上がる。
「さて、香織ちゃん。そろそろ帰るだろ? 送ってくぜ」
「え? でもまだ仕事の途中なんじゃ――」
「送ってもらえ、香織」
私の言葉を不意に兄が遮った。
少しだけ驚いていると兄は続けて、その強盗はまだ捕まってないからな、と零す。
なるほど確かに、ヤクザの事務所に強盗に入るような胆力のある人だ。
犯行が行われたのはつい最近のようだし、まだ神室町に潜んでいてもおかしくない。
遭遇してしまったらと想像するだけで肝が冷える。
「じゃあ、お願いします。海藤さん」
「おうよ」
海藤さんと共に事務所を出て、帰路につく。
道中、彼はずっと明るく世間話をしてくれていたけれど、不意に会話が途切れた瞬間、私に気を遣うようにして優しく笑うその顔がなんだか切なかった。
と同時に。
海藤さんがいなくなってしまった今、東さんはどうしているのだろうと思い至る。
彼と最後に会ったのは先週で、次に会う約束はまだしていない。
というのも、その日以降、彼からは一度も連絡が来ていないからだ。
「香織ちゃん、東とはどうなんだ?」
「へ……っ」
脳内を覗かれたのかと思い、私は思わず固まる。
「なんか進展したか?」
「……相変わらず、かな」
「そうかい。あいつも度胸がねぇなあ」
くつくつと笑う彼につられ、私もつい笑ってしまったその時だった。
ポケットの中でスマホが震える。取り出すと、スマホの画面は東さんからの着信を教えてくれていた。
そんな私の様子を見ていた海藤さんはにやにやと笑いながら「出ていいぞ」と口にする。
少し恥ずかしかったけれどお言葉に甘えて電話に出ると、私の耳に飛び込んできたのは――小さな、ほんのコンマ数秒の、嗚咽だった。
「東さん?」
思わずそう電話の向こうに問いかけるも数秒、沈黙。
何かあったのかと焦燥に駆られつつ返事を待っていたら彼は――。
『お前とは、これっきりだ』
「え……?」
酷く冷たい声で、彼は続けた。
『二度と連絡してくんな』
「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」
『……馴れ馴れしくしやがって。ずっとウザかったんだよ』
「待ってよ……東さん、どうしたの……?」
『端っから、お前のことなんて何とも思ってなかった。お遊びに付き合ってやってただけだからな』
まるで自分自身に言い聞かせるように、彼は私に畳み掛ける。
彼の背後で、水音が反響した。
『けどもう飽きたんだよ。俺の人生にお前は必要ない。じゃあな』
ぷつり、と。
通話が切れて。
困惑に支配された私の心だけが残された。
震える指でもう一度かけてみるけれど、着信拒否をされてしまったのか繋がらなかった。
「香織ちゃん? どうしたんだ?」
ずっと横で様子を見ていた海藤さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
真っ暗になったスマホの画面を見つめながら、私はただ、今あった出来事をなぞるように話した。
「東が本当にそんなことを? 冗談だろ?」
「冗談、って感じじゃ……なかった、かな」
足元がふわふわする。
だけど同時に、ぼんやりと理解した。
あの電話が決して彼の本心ではないことを。
いや――もしかしたら、そう思いたがっているだけなのかもしれないけれど。
東さんに何かあったのかもしれない。
けれど、彼との連絡手段が途切れてしまった今、私にはそれを知る手段はない。
それにきっと東さんはそれを望んでいないだろうとも思う。
彼が本当に私のことを弄んでいただけならわからないが、そうじゃないなら、わざわざ強い言葉で私を拒絶した彼の真意はきっと――私を自分から遠ざけることだ。
淡い期待に過ぎないけれど、そうだとしたら。
私達の関係は、もう。
「――ごめん。海藤さん。私、ここからは一人で帰る」
「え? ちょ、香織ちゃん?!」
「平気だから。ごめんね」
私はまるで逃げるように駆け出し、何もかもかなぐり捨てるようにして家に飛び込んだ。
扉を閉めて、鍵をかけた瞬間に、ぼろぼろと感情が目尻から溢れ出す。
「っう、うう……っ、」
確かに恋をしていた。
愛おしくて、毎日が楽しくて、でも不安で。
失った瞬間こんなにも胸が痛い。
私の胸を突き刺すこの痛みは、確かに、恋だった。
その日私は、夜が明けるまで声を押し殺して泣き続けた。