そうして神室町に引っ越してきてから数カ月が経過した。
やっとこの街の喧騒にも慣れてきたある日の夕刻。
夕食の買い物に出ていた私は、すっかり見慣れてしまった柄シャツの背中を見つけ、足早に駆け寄った。
「海藤さん!」
彼はゆっくりと振り向き、私の姿を見つけると笑いながら手をひらりと振る。
「おう、香織ちゃん。買い物か?」
「うん。海藤さんはお仕事?」
「そんなとこだ」
言いながら海藤さんは隣りにいた眼鏡をかけた男性に視線を向ける。
失礼ながらそこで海藤さんが一人ではなかったと気がついた私は恥ずかしさを覚えながらもその人に軽く会釈をした。
立ち姿も着ているスーツも普通の人に見えるけれど……海藤さんと一緒にいるってことは多分この人も、極道なのだろう。
「東。この子は香織ちゃん。ター坊の妹だ、前に話したろ?」
するとその東と呼ばれた人は海藤さんに小さく返事をした後、私に会釈を返す。
それを見た海藤さんはバシッと彼の背中を叩いて笑った。
「ほら、自己紹介」
「あ、は、はい、兄貴。……東徹です。兄貴とも仲良くしてるって聞きました。よろしく頼みます、香織さん」
「ご丁寧に。兄がいつもお世話になっています。よろしくお願いします、東さん」
なんだかやけに緊張したその様子が少し可愛らしくて私はつい笑みを零す。
すると彼はぴしっとそのまま固まってしまった。
困惑していると海藤さんはニヤニヤとしながら「シャキッとしろ」と言い、もう一度東さんの背中を叩く。
「コイツまだ新人なんだよ。街歩くにもなーんか緊張してっから見かけたら声かけてやってくれや」
「それ、一般人に頼むことじゃないんじゃないの? ……まあでも、わかった。じゃあ、私そろそろ行くね。じゃあまた、海藤さん、東さん」
◆ ◇ ◆ ◇
去っていく彼女の背を見送った俺は、しばらくその場に固まっていた。
具体的にどのぐらいかというと、数秒後、海藤の兄貴に「何してんだ、行くぞ」と声をかけられるまで。
兄貴の言葉に慌てて駆け出し、その背中を追いかけると、俺が追いついたのを見た兄貴はくつくつと喉の奥で笑った。
「な、東。話した通り、あの子イイ女だっただろ。にしてもお前、なんか妙に落ち着きなかったな。もしかして惚れたか?」
その言葉にぎくりと背筋が寒くなる。
何も返事をしない俺を見て兄貴は面白半分、困惑半分という様子で眉を下げた。
「ありゃ……もしかして、マジで惚れちまったのかよ?」
「う……いや、その。ええと」
兄貴はしどろもどろの俺を、豪快に笑い飛ばす。
「やめとけ、やめとけ。あの子、ああ見えて結構ガード固いぞ。それにカタギだ。ター坊とは訳が違う」
「そ、そう、ですよね……」
そう言いながらも緩くお辞儀をしながら柔らかく微笑む彼女の顔が脳裏にこびりついて離れない。
柔らかそうな頬も、その頬をさらりと滑り落ちていく髪も、艷やかな瞳も、鮮明に焼き付いてしまった。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、兄貴は俺の肩に手を回してにんまりと笑う。
「よし、東! お前、風俗行って来い! 俺が奢ってやるよ。女のことは女で忘れるに限る!」
「え?! い、いや、いいです! 平気です!」
「そう遠慮するなよ」
「遠慮じゃないですから!」
その後、その気になってしまった兄貴を引き剥がすのに数時間かかったが、なんとか風俗に連れ込まれるのは回避した。
とはいえ、兄貴の言うことは尤もだ。
俺と彼女とでは住む場所が違いすぎる。
それに――いい年こいて一目惚れなんざ、小学生かっての。
俺は、未だに脳裏に焼き付いて離れない彼女の顔を思い出さないようにしながら、帰路についた。
――だが、その数日後。
俺はあっさり、彼女とまた出会ってしまった。
一人で街を歩いていたその時、たまたま通りかかったコンビニの前で、彼女はチンピラに囲まれていたのだ。
「ねえ~、いいじゃん。一緒に遊ぼうよ」
「痛いことはしないからさ。いいだろ?」
どうやらナンパ集団に捕まってしまったらしい彼女はコンビニの袋を手に困ったような顔をしている。
一瞬、関わるべきか迷う。
ここを踏み出してしまったらもう、彼女のことを記憶から消すことは二度とできない気がして。
だけど同時に――ここを踏み出せば彼女に近付けるかもしれない。
そんな邪な思いが浮かんでしまって。
俺は彼女を助けようと一歩踏み出していた。
……しかしその数秒後、俺の助けなどハナから必要なかったと思い知らされることになる。
「がふっ?!」
あんなに、可愛らしいのに。
あんなに、大人しそうなのに。
ヤンキーに囲まれて困っていた儚げな彼女の姿は露と消え、気がつけば、寸分の手加減もなく男の顔面を蹴り上げて冷たく不埒者どもを睨みつける強い女がそこにいた。
「こ、この女ァ! ――ふぐっ!」
「なんだこいつ?! ぐえっ?!」
結局、彼女はものの数秒で自分より背の高い男4人をさくっと伸してしまい、顔にかかった髪を指先で払いながら、ふん、と小さく息を吐く。
「私ね、自分よりも強い人がタイプなの。アンタ達はお呼びじゃないから、他を当たって」
そう吐き捨て、彼女はずんずんと歩き出し――ぱっと、顔を上げた瞬間。
彼女と目があった。
途端、彼女はふわっと人懐っこい笑顔を浮かべる。
「あ、東さん! こんばんは」
瞬間――悟ってしまった。
俺は彼女に、すっかり心を奪われてしまったのだと。
「どうしたんですか? こんなところで」
「あ、いや……煙草を買おうかと。――っつーか、あの、お強い、んですね」
すると彼女は地面で伸びているチンピラ達にちょっとだけ振り向いて、困ったように笑った。
「もしかして見てました? あはは、恥ずかしいな」
「え? 恥ずかしい……?」
「だって、女としては可愛らしくはないでしょ?」
頬を掻きながら彼女は目線を泳がせる。
可愛らしくはない――きっとその言葉は、これまで彼女が投げられてきた言葉なのだろう。
「私は自分の意志でこうなったから別に気にしないんですけど。でもやっぱり、ほぼ初対面の人に見られちゃうとちょっと、恥ずかしいですね」
さっきまで堂々と背筋を伸ばし、男を蹴り飛ばして啖呵まで切って見せた彼女の姿との温度差にクラクラした。
踏み込めば踏み込むほど、彼女の魅力に取り込まれてしまいそうになる。
「そんなこと、ないっす。多分、俺より強いですよ、香織さん。格好いいです」
すると彼女は驚いたように一瞬固まった後、ふわっと嬉しそうに笑った。
その笑顔もまた、気が遠くなりそうなほどに可愛らしくて。
俺はつい、目を奪われていた。