兄にはその後何度か別の家を探すように打診を受けたけれど――結局、私はその家に住み続けることにした。
治安の悪さのおかげか相場より家賃は安いのに部屋は広く、端的に言ってかなり快適な家だったから。結構な頻度でヤンキーに絡まれるのが面倒であるということを除けば私にとっては好条件な物件だ。
神室町への引っ越しはかなりバタついたけれど兄との連絡手段も入手したし、ようやくこれで失っていた兄妹の時間を取り戻していける。
そう安堵したのも束の間、事件は起こった。
八神隆之弁護士によって無罪を勝ち取った大久保新平が、恋人である寺澤絵美を殺害し、再び法定に戻ってきたのだ。
私はこの事実をニュースで知り、それと同時に、兄の弁護士生命に終止符が打たれてしまったことを悟った。
二度目の裁判。
起訴されたら99%は有罪になると言われているこの法治国家において、その確立を覆す奇跡なんて二度も起こるはずもなく――兄はそのまま、弁護士バッジを外して源田法律事務所を去ってしまった。
「……お兄ちゃん」
「ん。ああ、香織」
それから少し経った後、兄から唐突に送られてきた住所へ向かうと、その扉には「八神探偵事務所」とプリントされていた。
扉を開けて中に入ると兄は少し憔悴したような表情で、私を出迎える。
「心配かけて悪かった」
「ううん、それは良いんだけど……お兄ちゃん、探偵になるの?」
「ああ。他に出来そうな仕事もないし。探偵なら源田先生のとこから仕事とか貰えるかもしれないしな」
乾いた笑いを浮かべる兄を私はじっと見つめた。
「もう……いいの? 弁護士は」
「良いも何も。お前だってわかるだろ。俺に弁護の依頼をしたい人なんていないよ」
「そ、れは――」
私が言葉に詰まると彼は困ったように笑って立ち上がり、ぽんと私の頭に手を置く。
その指先はひどく、冷たかった。
「兄ちゃんは大丈夫だから。な」
「――う、ん……」
◆ ◇ ◆ ◇
そうして神室町に引っ越してきてから数週間。
やっとこの街にも慣れて、細々と探偵業を続けているらしい兄と連絡を取りながらたまに会って食事をして。
探偵という不安定な仕事であるがゆえに収入も不安定な兄のため、週末にはおかずを作ってタッパーに詰めて彼のもとへ届けて。
自身に起こった出来事をどこか冷めた目で俯瞰するように見ていた兄を心配に思いつつも、失っていた兄妹の時間を取り戻すようにして過ごしていたある日のことだった。
「え……?」
時刻は19時を少し回った頃。
仕事を頑張ったご褒美にと神室町を散策していた私は、派手な柄シャツを着た大男と共に兄が、「松金興業(株)」と書かれたドアの建物から出てくるところを目撃してしまった。
まだ神室町に来て日の浅い私でも、その場所がただの会社のビルではないことぐらい知っている。
彼の横を歩く男が一般人ではないことも、察しが付く。
その数秒後には私は思わず兄の元へ駆け寄っていた。
「お兄ちゃん。どういうこと?」
「――、香織……!」
私の顔を見た兄は、しまった、という顔をした。
それを見て私は確信する。
兄が意図的に、この大男との交流を私に隠していたことを。
もしかしたら弁護士の職を追われたのがショックなあまり良くない輩とでもつるんでいるのだろうか。
「その人、誰?」
「えっと……この人は、だな……」
兄は言葉に詰まって視線を泳がせた。
すると、兄の隣で不思議そうな顔のまま事態を見守っていた柄シャツの男が兄に視線を送る。
「ター坊。もしかしてこの子が、話してた妹か?」
"ター坊"。
随分親しげな呼ばれ方に私はつい、顔をしかめてしまった。
すると兄はまたバツが悪そうに顔を歪めながらも男の言葉に小さく頷く。
「お前、言ってなかったのかよ。こっち来たときのこと」
「しょうがないだろ。色々あって忙しかったし。大体、なんて説明すりゃ良いんだよ」
すると男は呆れ顔を浮かべ、相変わらず言葉に詰まっている私と兄の顔を交互に見た。
「お兄ちゃん。流石の私でもこの建物がどんな場所なのか――この男の人がどんな役職の人なのかぐらい知ってるよ」
ちらりと私は男の胸元に視線を注ぐ。
そこには小さな、家紋らしきものを模したバッジが付けられていた。
神室町を歩いていて、知ったことがある。
それは――この街には東日本最大の極道組織が根付いていること。
そしてこの松金興業の実態は、松金組という極道組織の事務所であるということ。
道端で声をかけてきたキャッチやら偶然入った個人経営の小さな飲食店やらで口酸っぱく言われたのは「あの場所には近づかないほうが良い」という警告だった。
「どういうことなのか全部説明して」
私がそう詰め寄ると、兄はついに言葉を失って黙り込んでしまう。
そんな兄を私はじっと睨みつけた。
数秒の拮抗の末――それを破ったのは、傍で様子を見守っていた柄シャツの男だった。
「ター坊。観念しろって。今更隠し通せることでもないだろ」
「……わかったよ、海藤さん」
兄が頷くと柄シャツの、海藤と呼ばれた男は私に向き直り、人の良い笑みを浮かべる。
「妹ちゃんよ、全部話すから場所を移さねぇか。大丈夫だ、取って食ったりしねぇからよ」
海藤と呼ばれた男の言葉には何も返さず、私は兄を見た。
すると兄はまだ、少し覚悟の決まっていないような顔をしていたけれど、それでも私の目をしっかりと見つめ返して、「こっちだ」と歩き出す。
ただ口を噤んで先行する兄の背中を追いかけていたら不意に、少し前を歩いていた海藤という男が振り向いて困ったように笑った。
「ター坊――あんたの兄ちゃんも、悪気があって隠してたわけじゃないんだぜ」
「それは……わかってます」
小さく頷くと彼は兄の背中に随分似た兄妹だと笑いかける。
兄は背中越しに「うるさいよ、海藤さん」とだけ返した。
「そうそう、自己紹介がまだだったな。俺ぁ海藤正治」
「……香織です」
「香織ちゃんか。よろしくな」
突然の「ちゃん」呼びに少し驚いたけれど、なんだか嬉しそうにニコニコと話しかけてくるその人を見ているとこんなに怒っているのがバカらしく感じてしまって、私は少しだけ肩の力を抜く。
「海藤さん、は……その、ヤクザ、なんですよね」
恐る恐る訊ねると彼は少し返答に困ったようだったけれど、素直にそうだと頷いた。
「ター坊から17年ぶりに妹と再会したとは聞いちゃいたがよ。そりゃ、そんな久しぶりに会った兄貴が、見るからにカタギじゃねえ男と歩いてたらびっくりするよな。悪かったよ」
その言葉に私は、はいともいいえとも返せず困ってしまう。
だけどそんな私を見て海藤――さんは、気にしていないかのようにニカッと笑った。
「ちゃんと全部説明すっから、安心しろ」
「……ありがとう、ございます」
随分、人の警戒を解くのが上手い人だ。
想像していた極道の人間とはかけ離れた人当たりの良さに驚いていると、兄が茶色い扉の前で不意に足を止める。
「入るぞ」
「あ、うん……」
そこはどうやらバーのようだった。
マスターらしき人と親しげに挨拶を交わした兄は、奥の席へさっさと歩いていってしまう。
途中、赤いワンピースに身を包んだ綺麗な女性にまた「ター坊」と声をかけられていた。
「この子、あんまり見ないけど。恋人?」
「違うよマリ姉。妹」
「あら、妹さん? 小さい頃以来、会ってないって話だったけど再会できたのね。良かったじゃない」
マリ姉と呼ばれた女性は私へ視線を移し、笑みを浮かべてひらひらと手を振る。
「ここはター坊が昔バイトしてたところなのよ。私はその時から常連で、よくお話してたの」
「そう、なんですか……」
つい、同性でありながらも彼女の色気に当てられ、私は縮こまった。
同じ女として格の違いがありすぎる。
きっといくつか年上なのだろうけれど、私はいつか彼女のような魅力的な大人の女になれるのだろうか。
「私はマリ。マリ姉って呼んでね」
「は、はい……マリ姉、さん」
「ちーがーう。マリ姉でいいの」
「ね?」と、彼女はくすくす笑いながら私の頬を指先でつついた。
その様子を私は顔が赤くなるのを感じながら、都会ってすごい……なんて感想を抱きながらぼんやり眺める。
「香織? おーい、香織ー」
「はっ……あ、ええと、マリ姉さ――ま、マリ姉。じゃあまた……!」
先に奥の席に座っていた兄に呼ばれ、私は慌てて「マリ姉」にそう告げて店の奥へ足早に進んだ。
兄の隣に腰を下ろすと、海藤さんが私を間に挟むように逆側の隣に座る。
「おい、海藤さん。なんでそっち座るんだよ」
「固いこと言うなって、ター坊。むさ苦しく男二人で並んで座るより、女の子の隣に座りてぇもんだろ?」
「あのなぁ……」
呆れつつ兄は一息ついて、真剣な表情で私の顔を見た。
いよいよ真実を明かしてくれるのかと私はつい背筋を伸ばす。
こんな状況になってもまだ兄は、私に話すべきか迷っていたようだったけれど――数秒の沈黙の後、彼が15歳から今まで何をしていたのかをゆっくりと話し始める。
兄が15歳の頃。
両親を失ったばかりの私を親戚に預け、姿を消した兄はこの神室町へ流れ着いた。
ここ、「BARテンダー」でバイトをしながら日銭を稼ぎ、チンピラと喧嘩をし、そうしているうちに海藤さんと、松金組の組長さんと出会ったらしい。
組長さんは兄によくしてくれて――夜間学校と、司法試験関連の費用を全て賄ってくれた。
その組長さんと源田さんは旧知の仲らしく、その繋がりから兄は司法試験合格後、源田さんの元で雇われ、今に至るということらしい。
「今の俺があるのは、松金の親っさんと海藤さんのおかげなんだ。ただ……俺にとっては親代わりと兄貴分だけど、お前にとってはただの極道モンだろ。だから、言い出せなかった」
そう言って、兄は注文したお酒のグラスを傾けた。
グラスの中でからんと氷が音を立てる。
一寸、私は事実を噛み砕くため黙り込み、沈黙がその場を包んだ。
少しも減っていないカルーアミルクのグラスを見下ろしながら黙りこくってしまった私を、兄と海藤さんは両側から少し不安そうな顔で窺っている。
「……事情は、わかった」
小さく零すと兄は小さく肩を揺らした。
次に何を言われるのかと少し身構えているらしい兄には背を向け、私は海藤さんの顔を見上げる。
「海藤さん。……ありがとうございます」
「んん?」
突然お礼を零した私に海藤さんは不思議そうに目を丸くした。
「兄と再会した時、私、安心したんです。記憶の中の兄とそんなに変わらないままだったから。――だけどそれはきっと、あなたが兄でいてくれて、松金組の組長さんが親でいてくれたからだと思うんです。周りの環境が兄をそのままでいさせてくれたんだって話を聞いてわかりました。だから、ありがとう」
私は座ったまま正面から向き合って、彼に頭を下げる。
しばらく海藤さんはそんな私を見つめて――やがて豪快に笑いながら、優しく私の肩を叩いた。
「初めて会った時から思ってたけどよ、香織ちゃん、あんた本当に良い子だな。さっきは似てるなんて言ったが、その真面目なとこはター坊の妹とは思えねえよ」
「どういう意味だよ」
兄の言葉に海藤さんはぐいっとグラスに残っていたお酒を飲み干して、にやにやと笑う。
「だってなあ、香織ちゃん。こいつ、初めて会った時、俺にタメ口利いて喧嘩売ってきたんだぞ? 最初はなんてクソガキだって思ったぜ」
「ちょ、海藤さん……!」
「それは流石にチンピラ過ぎるよ、お兄ちゃん」
「うるせーな! 今はもうしないって!」
まるで諌められている子供のように声を荒げた兄に海藤さんが笑い、私も釣られて笑うと、やっと――ずっとこわばったような顔をしていた兄の表情がふわりと緩んだ。
「よし、兄妹の再会を祝って、ここは俺の奢りだ! 二人とも、じゃんじゃん飲んでいいぞ」
「お、マジで? じゃあそこの高そうなボトル入れてもらお」
「おいおい、ター坊! 流石にそりゃねぇだろ?!」
騒ぐ二人の間で、私はつい胸の中がじんわりと暖かくなり、零れそうになる涙を堪える。
きっと兄は今までこうして、彼と過ごして大人になったのだろう。
なんだか、ようやく本当の意味で兄と再会できたような気がした私は、今日のことを忘れはしないだろうとひっそり思うのだった。