事務所の扉を開けるとちょうど兄と真冬さんが何やら話をしているところだった。
私の顔を見た真冬さんは、なんだかぎこちなく笑う。
それに挨拶を返したところで私は二人の傍に控えていた星野さんに「どういう状況?」と小さく耳打ちをした。
「泉田検事が、新谷先生の件で八神さんの逮捕に動いているそうです。真冬さんはそれを知らせに来てくれたみたいで」
「……泉田さんまで?」
律儀に耳打ちで返してくれた星野さんの言葉に目を丸くする。
それはもう黒岩刑事の独断ですらなくなったということで……検事まで動いているとなると、黒岩刑事は本気で兄に対して令状を取るつもりなのかもしれない。
とはいえ、兄を犯人たらしめられるような証拠はなにもない筈だけれど。
「一応聞くけど八神君……やってないよね?」
と、真冬さんが切り出す。
すると兄はそれに目をまん丸くして、呆れたように目を細めた。
「俺が? 新谷を? やってないよ、よく聞けるなそんなこと」
「仕方ないでしょ、検事なんだから。人を疑うのは仕事上の務めです」
真冬さんの言葉に兄は小さく息を吐き、「で?」と続ける。
「泉田が俺を疑う根拠は? なにか証拠でもあんのか?」
「どうかな。なんか私、ハブにされてるから。ただ森田検事正まで八神君を疑ってるみたい」
「はは。嫌われてんだなあ、俺」
真冬さんが事件から外されているのは兄に肩入れしかねないから、だろうか?
検事正まで疑ってかかっているとなると、なにか、私達には把握できていない証拠になりえそうなものでも見つけているのかもしれない。
それは、だいぶ厄介だ。
「さすがに好き嫌いで動くほど検察は感情的じゃないはずだけど。……まあ、八神君がやってないって言うなら安心した」
真冬さんはそう言いながらゆっくりと立ち上がる。
「それでも……なにかあったら連絡して。私で力になれることがあれば言ってほしい」
「ああ。ありがとな」
兄のお礼を聞くと真冬さんは歩き出した。
またね、と彼女に声をかけられたさおりさんは操作していたパソコンから顔を挙げないままひらひらと真冬さんに手を降る。
そうして事務所の扉に手をかけた彼女の背を、私は追いかけた。
「真冬さん。タクシー?」
「うん、通りまで出て捕まえるつもり」
「なら私、タクシーに乗るまで送るよ。ちょうど小腹空いたからコンビニ行きたかったの」
コンビニは建前だ。
真冬さんには騙すようで悪いが、もう少し、検察側の雰囲気を探っておきたかったのが本音。
すると兄は少し腰を浮かせながら「大丈夫か」と私の背に問いかける。
「まだ明るいしちょっとコンビニ行くぐらい平気だよ。送ったらすぐ帰って来るから」
「……気をつけろよ」
「うん。行ってきます」
見送られ、真冬さんと共に事務所を出た。
人で賑わう夕暮れの街を歩きながらふと隣を歩く真冬さんを見上げる。
「ねえ、真冬さん。泉田検事は、本当にお兄ちゃんのこと疑ってるのかな」
「ううん。どうだろう」
少なくとも泉田さんは兄に対してかなりの私情がある人だ。
大久保新平の最初の事件の時には、相当な赤っ恥をかかされたことだろう。
あの人が兄をどう思っているのかは彼の態度を見れば明らかだし、もしこの件を兄を失脚させるチャンスだとでも思っていたらそれは公私混同も甚だしい。
「正直、泉田検事はお兄ちゃんのこと大嫌いでしょ。だから逮捕に前向きってこと、ない?」
「流石にないと思うよ。確かに八神君への態度はよくないけど、真面目な人だし」
「……そっか」
真冬さんがそう言うなら、そうなのかもしれない。
となると泉田さんを兄が犯人だと納得させられるだけの証拠でも隠しているのか、あるいは――真面目さが災いして、うまく黒岩刑事あたりに丸め込まれたのだろうか。
「あのね真冬さん。新谷さんと最期に会って、遺体を見つけるまでの間、お兄ちゃんは絶対誰かと一緒に居たの。特に、私と殆ど一緒だった。だから……」
「ふふ、わかってる。大丈夫だよ、香織ちゃん」
すると真冬さんは私の顔を覗き込んだ。
艶のあるルージュの乗った唇が優しく弧を描く。
「八神君がそんなことするわけないってわかってるから」
その言葉に、私はほんの少しだけ安堵した。
と同時に彼女のバッグに入っていたスマホが音を立てる。
一瞬真冬さんは気まずそうな顔をして私を見たけれど、気にせず出て良いと促すとゆっくりと歩きつつ電話に応答した。
そうして隣を歩いていたら不意に前方から悲鳴が上がって――黒塗りのワゴンが、歩行者をかき分けながら私達の目の前に突っ込んで来る。
「きゃあぁっ?!」
避けるのは間に合わない。
少しでも衝撃を和らげなければ。
そう思った私は真冬さんの肩を抱く。
だがそのワゴンは、私達の目の前で大きくドリフトしてぴたりと止まった。
困惑していると車からは派手なスーツを着た男が二人降りてくる。
男たちはそのまま私から真冬さんを引き剥がし、車の中へ連れ込もうと引きずり始めた。
「真冬さんっ!」
「いや! なに?! やめてっ、やめなさい! 誰かぁッ!」
抵抗する真冬さんの悲鳴。
瞬間、私は目の前で通せん坊していたもう片方の男の股間を蹴り上げた。
「っぐぅ?!」
男の悲鳴をBGMに、真冬さんの腕を掴んでいる男の脛を払って転がし彼女の手を引いて後ろへ駆け出す。
……が、そんな私達の背後はいつのまにか、三人ほどの男によって塞がれていた。
ふと私は彼らの胸元を睨む。
そこには予想通りというか、硬派なバッジがきらりと光っていた。
(ああ、もう! こんなのばっかり……!)
また兄に叱られる。
いや、今回は不可抗力だ。
話すつもりがないのか、あるいはわざと口を閉ざしているのかはわからないが、男たちは無言のまま拳を振り上げた。
「香織ちゃん……っ」
不安そうな真冬さんの声が背後から聞こえる。
この挟まれている現状を、彼女を守りながら打破するのは正直絶望的だ。
……だが。
「やるっきゃない、ね」
私は深く息を吐き――きつく拳を握りしめて構えた。
暫く睨み合いをしていたら、痺れを切らしたように男が一人飛び込んでくる。
この人数差と体格差だ。
気は抜いていないまでも流石にナメられているのだろう。
大ぶりの拳を右手で受け流して左でカウンターする。
よろけた隙に側頭部へ回し蹴りを入れ、ぐらついているであろう頭へ顎を蹴り上げて追撃すると男は後ろへ倒れ込んだ。
この手数でようやく一人。
やはりウエイトの違いはそう簡単に埋められるものでもないようだ。
できればもう一人ぐらい削っておきたかったけれど、一人撃破した段階で男たちは警戒度を上げてしまったらしい。
一斉にかかるつもりか、男たちはジリジリと間合いを詰めてくる。
どうシミュレーションしても二人倒すのが関の山、残った男に囲まれたら終わってしまう。
こうなると私はめっぽう弱いのだ。
兄や海藤さんなら殴られながら戦えるかもしれないが、私じゃ一発もらうだけで致命傷になる。
ふと周囲を見渡す。
周りの人間は誰も彼も飛び火を恐れて逃げ出したり、見ているだけだ。
援軍は望めそうにない。
せめて、真冬さんだけでも逃さないと。
でも、だけど、どうやって――。
「観念しろや!」
拳が向かってくる。
避ける?
いや、ダメだ。避けたら真冬さんに当たってしまう。
受け流すのも間に合わない……!
「っぐ、う……ッ、」
腹部に男の拳がめり込んだ。
胃の中身がひっくり返りそうになるのを息を止めて耐え、ボディが入ったことでニヤリと口角を挙げた男の顎目掛けて横から掌打を撃つ。
男は頭が揺れてがくりと膝をついたが、ダメージで言えば多分、私のほうが喰らっている。
膝が震えて、立っているのが不思議なくらいだ。
そんな状態だと言うのに息を整える間もなく追撃が来る。
……これ以上は、もう。
じんじんと痛む腹部に唇を噛み締めると、勝ちを確信したらしい男のうち一人が真冬さんの腕を掴み、当初の目的を果たそうとその身を引きずり始めた。
男は抵抗する彼女の頬をはたき、口を塞ぐ――。
その男の肩を、兄が掴んで。
振り向いたその顔を殴り飛ばした。
私に向かってきていた男たちは突然の襲撃に足を止める。
「香織、立てるか!」
真冬さんを背に守りながら発した兄の言葉で初めて、安堵から地面に膝をついていたことに気がついた。
呼吸を整え、なんとか膝を支えにして私はもう一度立ち上がる。
「離れてろ」
そう言って兄は真冬さんへ視線を送った。
が、彼女は恐怖のあまりパニックになってしまったのか、「なんで? やだ……!」と兄の腕にしがみつく。
まさかしがみつかれるとは思っていなかったらしい兄は困惑からか、あたふたと真冬さんと正面の男たちを交互に見た。
「八神この野郎ぉお!!」
「い、いやちょっと待った!」
そんな兄へ男たちは構わず殴りかかる。
すると兄は真冬さんの頭を下げさせて二人一緒に拳を避け、そのまま彼女を横抱きにしたと思ったらその場で一回転し、真冬さんの足で男たちを蹴散らした。
……?
なんか今、すごい面白いことが目の前で起こらなかった?
「……何遊んでんのお兄ちゃん」
「ちがっ、こうするしかなかったろ!」
「いや絶対他にあったと思うよ?」
突然の回転に目を回したらしい真冬さんを道の脇に座らせた兄は少し気恥ずかしそうな顔をしている。
往来で突然大道芸を始めた兄の姿に腹部の痛みも一瞬吹っ飛んでしまった。
「香織、ここは俺がやるから。真冬を頼んだ」
「ん。よろしくー」
手をひらりと振り、座り込んでいる真冬さんの脇に立つ。
時折腹部がずきりと痛むけれど殴られた直後よりは多少マシになった。
……だが多分、そこそこ痛々しい痣にはなってるだろう。
「まだ来るかもしれない。すぐ離れるぞ。香織、歩けるか」
ほんの数分後。
そう言ってこちらへ駆け戻ってきた兄の背後には男たちがうめき声と共に地面に倒れている。
男たちから兄へ視線を戻した私は首を縦に振り、真冬さんの手を引いて先導する兄の背中を追ってその場を離れた。
すっかり夜の帳が降りた神室町を進み続け、ピンク通りへ入っていった兄はそのまま通りがかりにあった無料案内所へ滑り込むように足を踏み入れる。
その後を追いかけ、外から見えないよう中にあった大きなパネルの裏へ三人一緒に身を隠した。
「大丈夫か?」
「うん、なんとか……でも、香織ちゃんが」
兄に問われ、真冬さんは私を見る。
彼女の目線は私の腹部に注がれていた。
「大丈夫。一発もらっただけだし。あのぐらい、慣れっこだから」
「でも」
「平気だってば。真冬さん、心配しすぎだよ」
すると彼女はしばらく私の顔を見つめていたけれど、やがて小さく息を吐いて、兄へ視線を戻し、「さっきの人たちはなに?」と声を震わせる。
「いや、わからない。俺も仲間の知らせがあったから来れただけで……」
「仲間?」
「ああ。杉浦が、事務所出たお前と真冬がヤクザに尾けられてるって連絡くれたんだ。海藤さんも助けてくれた。今度会ったら礼言っとけよ」
「そっか。二人に助けられたね」
兄は私の言葉に小さく頷いた。
杉浦くんが知らせてくれなければ、あるいは海藤さんがいなかったら。
きっと兄の到着はもっと遅れていただろう。
本当に危ないところを助けてもらった。
すると、黙って話を聞いていた真冬さんが、酷く怯えた顔で足元を見下ろす。
「私がヤクザに狙われたの……? なんで?」
当たり前だ。
検事という役職柄、一般人よりは非日常に近い場所にいるとは言え、それでも彼女は一般人だ。
兄や私のような既に半分当事者のような人間ならまだしも殆ど関係のない真冬さんが狙われた。
それだけ相手も切羽詰まっているということかもしれない。
「悪い、ちょっと待った」
兄のスマホから着信音がする。
真冬さんからの問いに答えないまま兄はスマホを耳に当てた。
『八神さん、無事? 女の人と香織さんは?』
「杉浦。おかげで助かった。ありがとな」
『ならよかった。僕の方はね、さっきのワゴンを追っかけてるとこ』
「ワゴン? 真冬をさらおうとした……?」
『そう』
私は小さく震える真冬さんの様子を気にしつつ、兄の会話に耳をすませる。
距離的に兄の声しか聞こえないけれど、会話の流れからするに恐らく杉浦くんからの連絡で、今彼は先程逃げていったワゴンを追いかけてくれているらしい。
生身で車を追いかけるとは、流石は神室町を騒がせている窃盗団出身だ。
彼の前では障害物なんてあってないようなものなのかもしれない。
「もしもし、泉田検事? 藤井です」
と、同時に真冬さんも電話をし始めた。
そういえば襲われる直前彼女は電話をしていた。
どさくさで切れてしまっていただろうけれど、その相手はまさに今連絡を取っている泉田検事だったのかもしれない。
「共礼会がなんで真冬を?」
兄が電話口でそうぼそりと呟く。
やはり、先程の男たちは共礼会の人間だったらしい。
『うん。だからそれを直接聞いてやろうよ。八神さんもすぐこっち来れる?』
「いや彼女を安全なところに連れてったあとだ。また連絡する」
そう言って電話を切った兄の背中に真冬さんが「私なら大丈夫」と切り出した。
「泉田検事が警官を迎えに寄越してくれるって。……共礼会って関西のヤクザでしょ? その連中が私を狙ったの?」
「そうらしい。理由はたぶん、俺のとばっちりだ」
苦虫を噛み潰したような顔でそう言った兄は彼女の顔をまじまじと見る。
かと思えば真冬さんの両肩を包んで、ほんの少し赤い右頬に目を留めた。
「さっき殴られてただろ。……大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよ。ね、香織ちゃん」
兄が突然近づいたせいか真冬さんはたじろぎ、両頬を赤くしながらこちらを見る。
「結構思いっきりビンタされてたからねぇ。相当痛いんじゃない?」
「ちょ、ちょっと香織ちゃん……?!」
目の前で兄が女性を無意識に誑し込んでいるのが何だか面白くて、つい真冬さんからのパスを突き返してしまった。
早く付き合えばいいのにこの人たち。
「もう二度とこんなことがないようにする。共礼会と話をつけてくるよ」
「そんなの、危ないんじゃないの? 私なら大丈夫。もう神室町には近づかないようにするし……そうだよ、八神君もこの際少し街を離れたら? ね、香織ちゃんも、そうした方が良いって」
真冬さんの説得に兄は何も言わず、ちらりと私を見る。
その数秒後、案内所の中へ警官が二人顔を出した。
恐らく泉田検事が寄越してくれた真冬さんを迎えにきた警官だろう。
「お迎えがきた。もう大丈夫だな?」
警官二人に連れられ、真冬さんは帰り際、とても不安そうな顔で私と兄に振り向く。
彼女に視線を返しながら兄は、当分街を離れるつもりはないと口を開いた。
その頑なな様子に真冬さんは私の顔を見る。
だが何も言わない私の様子に兄と同じ気持ちだと悟ったらしく、おずおずと切り出した。
「離れる気はないって、どうして?」
「今追ってるモグラが三年前の事件と繋がってきた」
「三年前のって……大久保新平の?」
真冬さんの言葉に兄は、ああ、と小さく頷いた。
「モグラに殺された新谷は創薬センターの生野って研究員に連絡を取ろうとしてたんだ。その生野は大久保の事件で検察側の目撃証人だった」
「それだけ……?」
「俺もまだパズルのピースを集めてるとこだよ。でもそれを解くまではもう、前に進むしか無い」
新谷さんの目的はわからない。
だが、センターそのものやセンター長相手なら兎も角、個人的に生野さんへ連絡を取ろうとしていたことにはきっと何かしらの意味があるはずだ。
それにもう、私達に逃げ道は用意されていないだろう。
とっくに引き返せない場所まで足を踏み入れてしまっている。
「そっか。……三年ぶりかな、八神君のそんな顔。ニンジンを目の前にした馬みたいな」
「はあ?」
「"生き生きしてる"って感じ」
なんだか嬉しそうな真冬さんの様子に、兄もつられて小さく笑った。
「じゃあ、またな」
その言葉に兄は真冬さんに背を向けて歩き出す。
彼女を見送るわけではないというところがまたこの兄の憎いところだ。
「真冬さん、気をつけて帰ってね」
「うん。香織ちゃんも、気を付けて」
真冬さんに手を振りながら、兄を追いかる。
すると兄は歩きながらスマホを取り出して何やら操作した後、耳に当てた。
かと思えば私の顔を見て、通話をスピーカーに切り替える。
「杉浦? 八神だ。もう動ける。そっちは今どこだ?」
『結局ワゴンは神室町から出なかったよ。古いキャバレーでみんな降りてった。公園前通りにある『本丸園』って店』
「キャバレー……? 相手は共礼会なんだよね? 事務所に戻ったんじゃないんだ?」
何故そんな場所に?
とはいえ、この神室町は根の深い場所だ。
風俗店のバックにヤクザがついているなんてそう珍しい話でもない。
『海藤さんも向かってくれてる』
「よしわかった。すぐに行く」
電話を切って兄は私の顔を見た。
「香織、いけるか? お前も殴られただろ。しんどいならシャルルで待ってても良いけど」
「ううん、大丈夫。だいぶ痛みは引いた。骨は折れてないし、多分……内臓も平気」
「無理はすんなよ」
「わかってるって」
歩き出した兄の背を、私は恐る恐る眺める。
(……めっちゃくちゃ怒ってるなあ)
いつにない兄のキレっぷりに思わず生唾を呑み込んで。
無言のまま彼を追いかけるのだった。