――三年前。
兄と再会するきっかけにもなった、大久保新平の事件。
当時の私はまだ部外者で、事件についてあまり詳しくは知らなかったのだけれど、ふと。
神室町に来て一ヶ月と数週間が経過した頃。
ちょうど二度目の大久保新平の裁判を終えて弁護士バッジを外した兄が、探偵事務所の住所を私へ唐突に送りつけてくるまでの間。
何があったのか知りたいだろうからと兄が居ない場で、源田さんが事件のことを話してくれたことがあった。
まず、最初の創薬センターで起こった事件。
この事件の被害者は認知症患者の老齢の男性で、名前は和久光一さん。
先端創薬センターは新薬の開発と同時に病床施設でもあり、この被害者の男性はセンターに入院している患者だった。
事件の時系列としては、こう。
事件当日の朝8時30分、彼が寝ているはずの病室が空になっていることに職員が気付いた。
和久さんは認知症患者であり、それ故に病院内を徘徊しているものと思われていたが夕方になっても姿が見つからず警察が出動。
彼の症状から誰の目も盗んでセンターを出るのは難しいと判断した警察は、何者かによる拉致を疑った。
そうして浮上したのが、当時センターを出入りしていたリネン業者の大久保新平だったという。
警察によって身柄が確保された後、大久保は和久さんの遺体を山に埋めたと自供。
その後、被害者が消えてから三ヶ月後にやっと、和久さんの遺体は腐乱した状態で奥多摩の山中から発見された。
日数が経っていたため断定はできないが死因は恐らく窒息死。
なお、最後に和久さんの姿が確認されたのは職員が不在に気がつくより40分前……つまり7時50分に病室で眠っているのがセンターの研究職員により目撃されていて、その40分間が犯行可能時間。
その40分間の間に和久老人を殺害して運び出すことが出来た人物は記録を見ても大久保だけだったそうだ。
これらの状況証拠より7時50分から8時30分までの間に和久さんは大久保によって窒息死させられ、シーツを回収するランドリーカートによって運び出され、遺棄されたというのが警察の見解だった。
一方、当の大久保は一貫して殺害に関しては無罪を主張。
つまり遺体を山に遺棄したことだけを認めたのだ。
彼の供述としては、シーツを回収してセンターを出た後に、"いつの間にか"トラックの荷台に被害者の遺体が紛れ込んでいた……それに動転してしまい、誰にもバレないように遺体を山中に遺棄したということらしい。
しかし他に怪しい人物も挙がらず、おまけに供述通りの場所から遺体が上がったこと、更に彼が十代の頃に傷害事件を起こしていること。
事件の直前、大久保は和久さんに財布を盗んだとして殴られ口論になるというトラブルがあったことから動機もあるとして誰も彼も大久保が一人で殺害から死体遺棄までを行ったのだと信じて疑っていなかったという。
そこに疑問を投げかけ、大久保新平の言葉を信じて抗い続けたのは、兄だけだった。
当時、刑事事件を初めて担当することになった兄は、大久保の供述を信じ、新谷先生を付き添いとして事件現場の検証を行った。
しかしやはり事件をひっくり返すような証拠は現場から見つからず、新谷先生はこの勝ち目のない案件を放棄。
それでも構わず、兄は一人で調査を続けたらしい。
その結果……兄は一人、協力者を得る。
多忙な木戸センター長の代わりに兄と新谷先生に院内を案内してくれた、看護師の寺澤絵美さんだ。
彼女は、兄がセンターを訪れたその夜、変装して事務所を尋ねてきたらしい。
その変装のせいで新谷先生に不審者と間違われて焦りのあまり新谷先生にスタンガンを喰らわせるなんて一悶着もあったようだけれど、そうして協力者を得たことによって一つ、疑惑が浮かび上がった。
それは、「和久さんが7時50分に病室で目撃されたのは勘違いだったのではないか」ということ。
寺澤さんの話では、布団の中に枕が入り込んだことによって布団が膨らんでいるように見え、それを和久さんの寝姿と見間違えたのではないかということだった。
事実、創薬センターで行った調査の段階から兄は、病室の扉にある小窓からベッドの膨らみは確認できても寝ている人物の顔までは物陰になっていて確認できないことにずっと疑問を持っていたらしい。
その後兄は法廷で、外から病室を覗き込んだだけではベッドで横になっている人間の顔は見えないという事実を武器にこの7時50分の目撃情報をひっくり返し、犯行可能時間の前提を覆した。
つまり――犯行が可能な人間は大久保新平だけではなかったことを証明してみせたのだ。
それでも検察側の泉田検事は大久保新平の前科を持ち出して、粘りに粘ったらしい。
だけどそれを打ち破ったのは、傍聴人として裁判に参加していた寺澤さん。
彼女は退廷を命じられながらも大久保新平の――恋人の無罪を、涙ながらに訴えた。
それが決定打となったかどうかは裁判官達にしかわからないけれど、少なくともこの国の原則は"疑わしきは罰せず"。
事実、大久保新平を犯人たらしめていた確実な証拠は犯行可能時間だけだった。
それがひっくり返ってしまった以上、真犯人が誰であれ、大久保新平を捌くことは適切ではないというのが裁判官たちの判断となり――結果として、大久保新平と兄は無罪を勝ち取り、兄は時の弁護士となったのだ。
しかし、それからわずかひと月後。
寺澤絵美は、包丁で刺された上に火を放たれ、この世を去った。
大久保新平の手によって。
同時に弁護士としての兄も……彼に、殺されたのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
「……よく覚えてんなあ、香織ちゃん」
大量に積み上げられた寿司の皿の向こうで、ずず、とお茶を啜った海藤さんが目を丸くした。
横でずっと私の話を聞いていた東さんもまた彼と同じ様な顔をしている。
「実は源田さんからこの話を聞いた後、全部ノートに書き起こして何回も読み返したの。なにか、お兄ちゃんのために私に出来ることがないかと思って。なかったとしても……少しでもお兄ちゃんに寄り添えたら、って。正直、あんまり意味はなかったんだけどね」
背もたれに背を預けて、私は天井を見上げた。
私は今まで、何一つ間に合わなかった。
いつも、気がついた頃には何もかも終わっていて。
少し内側を知ってるだけの部外者にしかなれなかった。
兄が苦しんでるのを、黙って見ていることしか出来なかった。
もしかしたらまた間に合わないかもしれない。
私は、当事者にはなれないのかもしれない。
結局ずっと蚊帳の外で――知らないところで、また大切な人を失ってしまうのかもしれない。
そんな不安が頭の片隅でくすぶっている。
「今度はこの目でちゃんと見届けるよ。……どんな結末になっても」
――それから。
ちょうど松金組事務所に戻る用事ができたという東さんとは食事後すぐに別れ、海藤さんと何を話すでもなく神室町を歩き回っていた私のもとに事件関連の続報が届いたのは、日が傾いてからのこと。
電話をくれたのは兄ではなく星野さんだった。
『結論から言えば、特に情報は手に入りませんでした』
そう言って彼は少し残念そうに続ける。
『木戸センター長と彼と同じくアドデック9の筆頭著者に名を連ねる生野さんには、なんとか会えたんですけど』
「……生野さん?」
聞き覚えのある名前に私は首を傾げた。
すると電話口の向こうで星野さんが「ご存知なんですか?」と不思議そうにする。
「三年前の大久保新平の裁判の時、裁判に証言者として出席した人。被害者である和久さんを病室で7時50分に見たって言ってた人だよ。会ったことないから顔はわからないけど……」
まさにその生野さんの証言を兄は裁判でひっくり返して、無罪を勝ち取ったのだ。
『顔なら香織さんも見たことありますよ。ほら、あの記者会見の動画で、センター長の隣りにいた細身の男性です』
言われて、思い出す。
確かにあの記者会見の動画には木戸センター長とその両側に男性がそれぞれ座っていた。
「ああ、あの幸薄そうな……で、二人には会えたけど何も聞けなかったの?」
『ええ。生野さんも新谷という名前には心当たりがないと。八神さんは結構突っ込んだんですけど、追い返されちゃって。厚労省の風見大臣まで居ましたし』
「風見……」
つい最近その名前をどこかで聞いたことがある。
……確か、そう。
綾部さんとテンダーで話をしたときだ。
話の流れとしては、共礼会が神室町へ進出している理由を考えてて。
そのバックにはゼネコンの梶平グループがいて、共礼会を手足として大きな都市開発計画を企んでいたというのが綾部さんからの提供情報だった。
その時、その都市開発の根回しとして共礼会との繋がりで名前が上がっていたのが風見大臣だったはず。
『結構大変でしたよ。木戸センター長と話してる時に黒岩って刑事さんが部屋に割り込んできて。八神さんを事件の重要参考人として連れて行こうとしたり』
「黒岩――っ、」
多すぎる情報量に頭がこんがらがってきた。
そういえば確かにあの人は新谷先生の遺体を確認しにきた時もやたら兄をよく思っていない様子だった。
もしかしたら彼は兄を新谷先生殺害事件の犯人にしたがっているのかもしれない。
だけど実際やっていないのだからろくな証拠もないだろうし、まさか、よく思っていないからという理由だけで罪を押し付けられるほど日本の司法は簡単じゃない。
それに新谷さんが殺害されるまでの間――兄が一人だった瞬間はなかったはずだ。
まず昨日、新谷さんに狙われていて危ないと源田事務所で助言をしたのが生きている彼を見た最期。
その後兄と共に向かったテンダーで綾部さんと話していたら黒岩刑事が来たので退散。
テンダーを出てから兄と海藤さんはKJアートに向かって――杉浦くんを連れて海藤さんと共にシャルルへ戻ってきた。
そしてシャルルから兄と共に探偵事務所へ戻り、そこで新谷さんの遺体を発見。
やはり兄が一人だった瞬間は殆ど無い。
犯行どころか被疑者として名前を挙げることすら難しいだろう。
"妹にも新谷殺し、手伝わせたのか?"
黒岩刑事の嘲笑を含んだ声が脳内で再生される。
……あの人はそれさえ見越してあんなことを?
いや、まさか。
彼は一介の刑事だ。
いくら優秀な人だとしても兄の一挙手一投足を把握できるほど万能じゃないだろう。
『それでその件で今、事務所に真冬さんが来てるんです。今ちょうど八神さんも来たところで』
「真冬さんが……わかった。私も合流するよ」
電話を切り、隣で黙っていた海藤さんの顔を見上げる。
「ということで私は源田事務所に行くけど、海藤さんは?」
「そうだな――俺はちょっと一人で松金組に探りを入れてみる。事務所までは送るぜ」
「ん、了解。ありがと」
そのまま私は海藤さんと共に歩き出した。