ノートパソコンのキーボードを打ち込む音だけが響く店内。
事件について調べてくれている星野さんの、なんだか頼もしい姿をぼうっと眺めていたら不意に海藤さんが口を開いた。
「……先端創薬センターか。また妙なとこで妙なもんが出てきたな」
「八神さんにとっては因縁の場所ってわけ?」
東さんがいるカウンターに片腕を預けながら杉浦くんがそう問いかける。
「ああ。新谷は殺される直前、なぜかその創薬センターに電話をかけてた」
そう言いながら兄は何か考え込む。
「創薬センターって、去年テレビで騒がれてたね。確かノーベル賞ものの新薬を作ってるとかで」
「新薬? どんな?」
杉浦くんの言葉に首を傾げると、パソコンを操作していた星野さんが「これですよ」と言いながら画面をこちらに向けた。
そうして流れたのは記者会見と思われる映像。
『えー……本日は先端創薬センターで開発を進めております"アドデック9"の、論文が科学雑誌に掲載され、海外を含め多くのメディアの方々にお集まりいただきました……』
マイクを握っている中年の男性はなんだか辿々しい様子で言葉を紡ぐ。
その両側には同じように少し恰幅のいい中年の男性と、少し頼りなさの滲む細身の男性が座っていた。
それを眺めていたら、星野さんが口を開く。
「認知症の新薬、"アドデック9"。センター長の木戸博士がその論文を発表したんです。まだ動物実験の段階ですけど認知症の実験マウスをほぼ正常に回復させたと」
「認知症患者をほぼ正常に……なんて。そんな薬が実現したら、本当に夢の新薬じゃない?」
思わず声を上げる。
認知症は現状、治療が不可能とされている病だ。
罹患した場合の選択肢は進行を遅らせるための治療のみ。
そんな病を治せる薬を開発しようものなら、杉浦くんの言っていた通りノーベル賞ものの大躍進だろう。
「ええ。この、笑顔でフラッシュ浴びてるのが木戸博士です。神経脳生理学の世界的な権威で、アドデック9論文の筆頭著者」
そう言って星野さんは画面の中の一人の男性を指した。
先程マイクを手に辿々しく挨拶をしていたのと同じ人だ。
すると記者会見を見ていた兄が、三年前、と口を開く。
「大久保事件のとき、センターを案内してもらった。その時から木戸はセンター長だったよ」
つまり木戸博士は兄とは面識がある人ということになる。
とはいえ、新谷先生との繋がりはまだ不明瞭だ。
「今はアドデック9の完成に向けて、厚生労働省が予算枠を強化してるみたいですね。創薬センターの建物、今度また一気に増築するようです」
認知症を直してくれる夢の新薬。
そんなものを開発すれば日本だけではなく、海外にとっても日本の権威を示すことが出来る。
国が大手を振って応援してくれるのは至極真っ当な流れだろう。
「フン、景気のいい話だな」
と東さんは鼻で笑う。
確かにこんな話、一般人どころか松金組にすら関係のないことのように思える。
未だに雲の上の話という感覚は拭えない。
「だがよ、そんなとこにあの新谷がなんで電話してたんだ?」
「それをこれから確かめるんでしょ? センターに問い合わせてさ」
海藤さんからの至極真っ当な疑問に杉浦くんが応え、かと思えば彼はシャルルのカウンターに置いてあった子機電話を許可もなく取り兄に差し出した。
東さんの「てめ、人の電話勝手に……!」という抗議の声が虚しく響く。
「まず新谷さんがセンターの誰宛てに電話をかけたか、だね」
「ああ。それを電話だけでどう聞き出したもんかな」
「そこは腕の見せ所じゃないの? 八神探偵」
険しい顔で悩む様子を見せた兄を、杉浦くんがけしかけた。
なんというか、杉浦くんは海藤さんとは別の意味で人誑しな性格だ。
これだけ年上ばかりが揃っている空間で圧し負けず、寧ろ主導権を握るだけの胆力は褒めるべきだろう。
杉浦くんの言葉に背中を押されてか、兄は小さく笑いながら電話を受け取り、センターへ電話をかけ始めた。
とはいえ、国からの予算で新薬を開発しているような機関だ。
きっと機密情報だらけのはず。
そう簡単に情報を引っ張れるとも思えないけれど……。
『先端創薬開発センター、総合受付でございます』
「……あ、もしもし。私は――」
電話の向こうから柔らかな女性の声が聞こえてきた。
その声に兄が少し自信なさげに口を開く。
私はそれを、仲間たちと固唾を呑んで見守った。
「源田法律事務所の弁護士で、"新谷"といいます」
唐突のでまかせに私は心臓が冷える。
が、ここで素直に名乗ったところで怪しまれるだけだろうし、ファインプレーなのだろう。
『はい、新谷様でございますね』
と受付の女性が素直に受け取った声がすると同時に兄はどうだと言わんばかりに杉浦くんの顔を見上げた。
一方それを受けた杉浦くんは親指を立てるジェスチャーをする。
……星野さんに肝が据わってるとかなんとか言っていた彼のほうが随分と年齢に似合わない肝の据わり方をしているように思うけれど。
「昨日もそちらへお電話したんですが、またそのときの方とお話したくて」
『昨日の者と言いますと、名前はおわかりになりますでしょうか?』
「それがうっかりしてまして……なんとかそちらでわかりませんか?」
『うーん……あ、では、ご用件はなんでしたでしょうか? 担当のセクションへお繋ぎ致します』
女性の声に心臓が跳ねる。
センター受付という役職の人からすれば尤もな質問だ。
「用件はですね、ええっと……」
兄が言葉に詰まる。
当たり前だ。
こちらとしては、その"用件"こそ知りたいことなのだから。
「――大久保新平の事件について。三年前にそちらで患者さんが殺害されたかと思うんですが」
兄の返答に固唾をのむ。
いきなり新薬の話をするよりは事件の話の方がまだ不自然さはないだろう。
あくまで弁護士を名乗って連絡をしたわけだし。
とはいえ、今更弁護士が三年前の事件のことで連絡をするという違和感は拭えないだろうけれど……。
すると流石に受付の女性も不審に思ったのか「失礼ですが、マスコミ関係の方ですか?」と切り出した。
「いえいえ、弁護士ですって」
と、兄はあくまで新谷弁護士を名乗り続ける。
すると女性は少し迷った末に、ここではわからないので広報に繋ぐと提案してくれた。
あまり情報が出てきそうな部署には思えないけれど……。
少なくとも不審者判定を喰らわなかったことに関してはほっと胸を撫で下ろす。
「なんか……あんまりいい手応えじゃなさそうだね」
「まあ、こっち情報ゼロだしね……」
杉浦くんの言葉についそう続くと、彼はこちらを見て、まあね、と困ったように笑った。
『お待たせしました。広報では、新谷様から昨日お電話はいただいてないとのことです』
「そうですか、わかりました」
電話を切った兄は、電話じゃ難しいな、と小さく悪態を零し次いで、直接行ったほうが早いと続ける。
「行けばなんとかなるの?」
「俺も一応センター長とは面識もあるし、最悪、無駄足でも構わないんだから」
すると黙って話を聞いていた星野さんが自分もついていくと手を上げた。
「ほんじゃ、俺は東と松金組の様子でも探っとくか。羽村のカシラが消えたままだしな。香織ちゃんもこっちのチームでいいか?」
「ん、いいよ」
創薬センターに行ったところで私に出来ることはない。
海藤さんの提案通り、神室町でひとまず待機しておくのがいいだろう。
すると、しれっとメンバーに含められていたことに東さんが大きなため息と共に「また勝手にそんな……」と呆れ声を漏らした。
今後の方針が固まったところでふと、杉浦くんが兄に数歩近付きながら、そういえば、と切り出す。
「八神さんが無罪にした大久保新平だっけ? 今はどうしてるの?」
なんだか、彼の声色が少し、低いような。
先程までずっと明るい調子だった杉浦くんの様子がほんの少しだけ変わったことに、私は首を傾げた。
「拘置所にいる。死刑囚は刑が執行されるまでずっとそこだ」
「八神さん、面会に行ったりとかは?」
「いや、俺は一度も。なんでそんなこと聞くんだ?」
その言葉に、三年前探偵になったばかりの兄の顔を思い出す。
思えばあの頃から兄はずっと、この事件に触れることを避けている……というか、まるで他人事みたいに見ているような気がした。
「大久保って実際どんな人だったのかと思って。結構ニュースでも騒がれた事件だったから。――八神さん。大久保を無罪にした時、本当はどう思ってたの? マジで無実と思ってた?」
すると兄は杉浦くんからの問いに、居心地悪そうに目を逸らし――多分な、と自信なさげに呟いた。
「でも、そのあとあいつ……恋人殺しちゃったんでしょ? それも八神さんが弁護してたよね?」
「……ああ」
「そのときも……無罪だと思った?」
……?
確かに大久保新平の事件は、創薬センターと繋がりがある。
だけど、今、三年前の事件をわざわざここまで掘り下げる必要はあるだろうか?
「――杉浦、くん? なんで今、そんな……?」
なんだか追い詰めるようなその質問に私はつい兄を庇いたくなって思わず口を挟んでしまう。
兄が触れないで欲しいと思うのなら、兄が手から離しておきたいと思うのなら、その意思を尊重するべきだと当時からずっと思っていたから。
すると彼は困ったように笑った。
「ちょっとね、気になって」
気になって――。
本当にそれだけ……?
ざわざわとした心持ちでいるとふと、兄が口を開いた。
「大久保はそう言ってた。誰も殺してないって。ただ俺は……それを信じ切ることができなかった。法廷で彼の無罪を主張する度に、ずっと吐き気を感じてた」
「――、」
思えば。
兄が自分から当時の胸中を話してくれるのは、初めてだった。
私は二度目の大久保新平の事件も、裁判の結果も、全て後から知っただけの部外者で。
兄の元へ駆けつけた頃にはもう兄は全て終わったような顔をしていて、何も話してはくれなかったから。
そんな兄の内側へは私もまた、踏み込まなかった。
そうするべきじゃないと思ったから。
私に出来ることが、なにかあっただろうか。
無理にでも踏み込んでいたら何か違っただろうか。
「じゃあ、大久保は死刑で当然?」
「もうそのくらいで勘弁してやれや、杉浦」
杉浦くんの質問を不意に海藤さんが遮った。
そのまま海藤さんはなんだか複雑そうな顔で兄と、次いで私に視線を注ぐ。
助け舟が来ると同時に私は、気付かぬ内に呼吸を止めていたことに気がついて、深く息を吐いた。
「……ちょっと立ち入りすぎた?」
杉浦くんの言葉に兄は小さく笑って、いや、と首を振る。
それにまた杉浦くんも、ならいいけど、と応酬した。
かと思えば彼はそのままシャルルの出口へと歩みを進め始める。
「あの、八神さん。すぐ行きますよね? 創薬センター」
リュックを背負って立ち上がった星野さんが兄の顔を見た。
「僕、先行ってタクシー捕まえておきますから。公園前通りで待ってます」
星野さんの言葉に何も返さず。
身動ぎもせず。
兄は、シャルルを去る星野さんを見送った。
四人だけになったシャルルに、静寂が訪れる。
「――おにい、ちゃん」
つい、立ち上がって兄に声をかける。
だけど二の句が出てこなくて。
脳裏で浮かんでは消える頼りない言葉達に頭を悩ませていたら、兄はゆっくりと立ち上がって私の頭に手のひらをぽんと乗せた。
かと思えばなんだか力なく笑って、何も言わないままシャルルを後にする。
兄を見送って再び静寂が訪れると海藤さんが座ったまま私の顔をついと見上げた。
「香織ちゃん、平気か?」
「……ん。ありがとう、海藤さん」
頷くと海藤さんは、よし、と両膝を叩いて立ち上がる。
「そんじゃまず何をするかね」
「松金組の動向を探る、だったよね。とはいっても私達の情報源ってほぼほぼ……」
と、東さんに視線が集まる。
すると彼は本日何度目かわからない溜息を零した。
「なにか勘違いしてるのかもしんねえがな、俺はお前らの仲間になった覚えはねえぞ。少しは遠慮しろよ?」
言いながら煙草の煙をくゆらせる彼に苦笑いが漏れる。
「そう言うなって、東。お前だって香織ちゃんと一緒にいられて何だかんだ満更でもねえんだろ?」
「……兄貴」
東さんからのじとりとした視線を気にせず海藤さんは豪快に笑った。
「まずはチームの結束を高めるために飯でも食いに行くかね。香織ちゃん、今日は寿司にすっか」
「だから俺は行かねえって……!」
いいからいいから、となんだかんだ流されてカウンターから出てくる東さんと、けたけた笑いながら歩き出した海藤さんのあとに続く。
まだ胸の中のもやもやは消えないけれど。
私は小さく息を吐きだして、なんだか狭く感じる神室町の青空を見上げるのだった。