「あの……ちょっとだけ話をさせてもらってもいいですか?」
不意に。
まだ事務所に残っていた星野さんがそう言って、兄と私の顔を順に見る。
「話って?」
「ええ。新谷先生の件なんですけど」
言いながら、星野さんは私の対面の椅子に腰を下ろした。
倣ってか――兄は私の隣に腰掛ける。
「八神さん、言ってましたよね。源田先生に"しばらく大人しくしてる"って。でも、本当はモグラを追う気でいるんじゃ……?」
そう問われた兄は表情を変えないままふいと横の私を見た。
星野さんはというと、そんな私と兄の顔を交互に見て唇をきゅっと結ぶ。
「もし、そうだとしたら?」
兄が言うと星野さんはほんの少し、迷っていたようだったけれど。
やがてゆっくりと口を開いた。
「源田先生には黙ってます。ただそのかわり……僕も、いいですか? 一緒にモグラを追いかけても」
「――えっ?」
源田先生からも釘を差されたのと同じように、彼もまた、危ないからやめろとでも言うのだろうと思っていた私はつい声を上げる。
すると星野さんは、随分覚悟の決まった顔でこちらを見た。
「八神さんたちの足は引っ張りません。だから……!」
「もしかして新谷の仇討つため……?」
兄の言葉に、星野さんは目を伏せる。
「あの人はいつも自分に自信がないのを虚勢で隠して……わかりやすい人でした。見た目や態度よりずっと弱かったはずです。羽村のカシラとだって、好きで付き合ってたわけじゃない。ヤクザなんて怖いに決まってますよ」
――それは、そうだ。
あの人の恐ろしさは私だって知っている。
二人きりの空間で。
逃げ場を塞いで。
あの人は、他人を徹底的に追い詰める。
だけど私には……兄という逃げ道があった。
海藤さんという盾があった。
東さんという、止まり木があった。
新谷さんはたった一人で、あの人と渡り歩いていたんだ。
後戻りができないところまで引きずり込まれていても不思議はない。
「その結果が、今回の事件です」
もしかしたら新谷さんに羽村さんが情報を与えたのも、仲間意識ではなく、手元に縛り付けて離さないためだったのかもしれない。
あの人のやり口はいつだってそうだ。
東さんにだって、"言葉"で、呪いをかけた。
「僕はいつも新谷先生のすぐそばにいたのに……何の力にもなれなかったんですよね」
星野さんは、まっすぐに兄の顔を見る。
「本当に、僕は若造で。自分でもまだ、どんな弁護士になりたいのかさえわかってません。刑事弁護なのかそれとも民事でやっていきたいのかすら。――でも」
力強い、声色。
思わず背筋が伸びた。
「仲間が殺されても知らん顔なんて。そんな弁護士になるのだけはごめんです。ですから」
「いいのか? 源田先生はおとなしくしろって言ったんだ。なのに君が俺と動いたら……」
兄の疑問に星野さんは、気にしないでください、と頼もしく返す。
「自分の弁護は自分でできますから。だから八神さん、香織さん。いいですか? 僕も一緒に」
つい口元が緩む。
まさか彼がこんな熱さを秘めていたなんて、想像もしていなかった。
「だって。どうするの? お兄ちゃん」
「ふ……どうするも何も。OKしないと源田先生にチクるんだろ?」
なんだか楽しそうに問いかけた兄に、星野さんもまた、少し楽しそうに笑みを浮かべる。
「ええ。申し訳ないですけど」
「――よし、わかった。じゃあ早速ひとつ頼まれてくれ」
「喜んで」
これは随分頼もしい仲間を得られたかもしれない。
だけど同時に、気をつけなければならない。
モグラの切っ先がもし星野さんへ向くことがあれば――。
こっそりと拳をきつく握った私の横で、兄はスマホを取り出しながら続けた。
「まず殺される前の新谷が何をしようとしていたか知りたい。で、そいつがわかるかもしれない証拠があるんだ」
兄が差し出した画面には、050から始まる電話番号が表示されている。
「今日、新谷がスマホからかけてた電話番号。これがどこのものなのか知りたい」
「なるほど。了解です」
頷いた星野さんは早速、と言わんばかりに手元にあったパソコンをなにやら操作し始めた。
「でも運がよかったですね。犯人がスマホを残すなんてミスしてくれて。こうやって通話履歴も見れるし」
「いや、ミスじゃない。スマホの端末をどうしようが通話履歴は残るんだよ」
「あ、そうなんですか」
確かに、端末を処分したところでプロバイダを経由している限りデータとしては残る。
そしてそれが残っている限りは、いくらでも追うことは可能だ。
「ひょっとしたら……モグラは早く俺に死体を見つけさせたかったのかもな」
「――なんで?」
つい口を挟んでしまうと、兄はふいとこちらを見る。
「わざわざうちの事務所なんてとこに死体を隠したんだ。どんな騒ぎになるかすぐ見たかった、とか。お前と一緒にいるタイミングも、わざわざ狙ったのかも」
「……要するに喧嘩売られてるってこと?」
「そうかもな」
なんて話していたら、パソコンを操作していた星野さんの手が止まった。
「さっきの電話番号、ネットにありました。……先端創薬開発センター? そこの代表番号ですね」
「なんだって?」
兄の困惑したような声と同時に、私の身体は固まる。
その施設名には聞き覚えがあった。
「知ってる場所ですか?」
「3年前……その創薬センターで殺人があった。入院中の患者がそこで殺されて、山に捨てられたんだ。そして捕まった犯人が――大久保新平」
「……」
それは、兄を一躍時の人気弁護士に押し上げ。
兄から弁護士バッジを奪った人物。
その創薬センターで起こった殺人は――私が、兄と再会するきっかけにもなった、兄が無罪を勝ち取った事件だ。
それがまさか、こんなところで繋がってくるなんて。
「大久保って……八神さんが弁護した、あの?」
「大久保新平は、創薬センターに出入りするリネン業者で、タオルやシーツを2、3日おきにクリーニングしてた。で、回収したシーツごと死体を運び出したとされてた」
「そうでしたね。その裁判で八神さんは大久保を無罪にして……でも彼は、すぐに次の事件を……」
私が兄と再会した時にはもう、それは終わったはずの事件だった。
だけど、もしかしたら――まだ……?
「新谷先生は、なんでまた創薬センターに連絡を? 誰と話そうとしたんです?」
「それはセンターに問い合わせればたぶんわかる。ただ、今日はもう遅いか」
言いながら兄は外を見た。
眠らない街と呼ばれる神室町でさえ、もうあまり人通りがない。
共礼会と松金組の抗争、モグラの出没。
それらによって人々も外出を控えているのかもしれない。
「星野君も帰りな。お互い、少し休んだ方が良い」
「じゃあ、明日から仕切り直しですね。どんな風に進めます?」
「……そうだな。ここだと源田先生の目があるし、神室町のシャルルってゲーセンがある。まずはそこをアジトにしよう」
「わかりました。海藤さんには僕から連絡しときます」
「ええ……?」
思わず、嫌そうな声を漏らした私を、兄が横目で見た。
「なに? なんか都合悪い?」
「いや、悪くはないけど、さあ」
つい最近東さんから"気軽に来るな"と言われたばかりだというのに、この兄は。
それどころかメンバーを増やしてどうする。
「なんだよ。東と二人きりになれなくなりそうなのが嫌なのか?」
「一言もそんなこと言ってないでしょ」
また大所帯で押しかけられて困惑している東さんの顔が目に浮かぶ。
彼も大概、苦労人だ。
「え、なんですか? もしかして香織さんの恋バナです?」
「ああ、そうそう。そのシャルルって店、こいつの好きな男が――」
「お兄ちゃん!!」
「いいじゃないですかあ。聞かせてくださいよ、香織さん」
先程までの勇ましさはどこへやら。
私はすっかり野次馬になってしまった星野さんを睨んだ。
全然効いていないようだけれど。
「……なんか今の香織さん、ちゃんと女の子って感じして良いですね」
「星野さん。早く帰らないと終電なくなるんじゃない?」
楽しそうに微笑む彼からぷいとそっぽを向く。
すると兄も、星野さんも小さく笑った。
「じゃあまた明日、シャルルで」
そうして星野さんが事務所を去って。
兄と二人きりになったところで、私は深く息を吐いた。
「知らないよ。東さんにまた怒られても」
「んなこと言ったって俺の事務所は警察の目があるし。安全そうなとこって言ったら、シャルルぐらいしかないだろ」
まあ、その意見には賛成だ。
実際私も一度はシャルルを避難場所として使ったわけだし、そもそも拒否権はない。
「さてと、んじゃ俺らもそろそろ休むか」
「……うん」
立ち上がって、星野さんが座っていた対面の椅子に移動する。
ゆっくりと横になると、やわらかな感触に包まれた。
兄の事務所の椅子よりも随分寝心地が良い。
元々は座り寝の予定だったところからすると思わぬ僥倖だ。
そのまま私は、ソファに寝転んで天井を見上げている兄の横顔を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。