「……どうぞ」
目の前に出された珈琲を一口飲み、私は鼻を啜る。
そして、神妙な顔で正面の応接椅子に座っているこの事務所の主、源田龍造さんと、珈琲を入れて持ってきてくれたこの事務所の所属弁護士、城崎さおりさんを交互に見て、ゆっくりと頭を下げた。
「お騒がせして、本当にすみません……」
とても成人して数年も経過した大人の対応ではなかったと今更恥ずかしく思いつつ、恐る恐る源田さんの顔を見ると、彼は優しげに微笑んだ。
「いいんだよ。17年ぶりの再会だったんだろ? 寧ろ怒られるべきなのは、妹を置いて17年も行方くらましてた兄貴のほうじゃねぇのか? なあ、八神」
「ちょ、源田先生……勘弁してくださいよ」
兄は私の隣で居心地悪そうに眉を下げる。
そんな兄を見てくつくつと笑った源田さんは再び私の顔を見た。
「お前に妹がいるっつーのはいつだったかに聞いたことはあったが……まさかニュース見てその翌日に直接会いに来るなんてな。兄思いの良い妹じゃねぇか」
出された珈琲に口をつけつつ、私は羞恥でつい目線を逸らす。
今になって思えば、ニュースを見てすぐ引っ越すだなんて酷く子供っぽい行いのように思えたから。
後悔は、していないけれど。
「香織、お前帰りはどうするんだ? 送ってやりたいけど……」
兄は言いながら事務所を見渡す。
彼が忙しいことぐらい、素人の私でもわかる。
結局、私がこの事務所を訊ね、涙が枯れるまで泣いて今に至るまで、ずっと"八神弁護士"への依頼を求める電話が鳴り続けているのだから。
「忙しいんでしょ。それに私、近くに住んでるから平気」
「え……神室町にいたの? なんで今まで会わなかったんだろ」
不思議そうに首を傾げる兄に、首を振ってみせる。
「違うよ。引っ越してきたの。今日」
「今日?! 俺が出てるニュース観たの、昨日だって……」
「そうだよ。昨日見て、昨日の夜から今日の朝にかけて引っ越してきた」
頷くと兄は言葉を失いながら私を見つめた。
「なによ、そんな顔しなくたっていいでしょ」
「いや、だって。お前そんなにブラコンだったっけ?」
「その言い方やめてよ、気持ち悪い。たった一人の家族なんだもん、会いたくて当然でしょ。……まあ、私も自分の行動力にちょっと、かなり、びっくりしてるけど」
だけど仕方ない。
私にはつい昨日まで兄の生死すらわからなかったのだ。
前のめりになってしまうのもおかしくはない。
「それなら家まで送るよ。それぐらいの時間ならあるから」
「え、でも」
兄の提案に私は源田さんの顔を見た。
すると彼はにこりと笑う。
「ああ、行って来い。兄妹水入らず、積もる話もあるだろ」
そうして事務所の人たちに見送られて私は兄と源田法律事務所を出た。
振り向いて、改めて事務所を見上げる。
入る前はあんなに不安で痛かった心臓が、今は再会の喜びに打ち震えていた。
「事務所のみんな、良い人たちだね」
「……うーん、一部、そうでもない人もいるけど」
言葉に詰まった兄の姿に、あの新谷という人の顔が浮かんで、私はつい笑ってしまう。
「新谷さんとはあんまり仲良くないの?」
「別に、そういうわけでもないけどさ。馬が合わないっつーか、まあ、普通だよ」
「ふうん、そっか」
兄と並んで、引っ越したばかりの家までの道を進む。
なんだか景色が新鮮で、ついきょろきょろと脇見をしながら歩く私と対象的に、随分慣れた様子で神室町を闊歩する兄の横顔はなんだか頼もしかった。
「なあ香織。家、本当にこの辺?」
「え? うん、そうだけど……」
あと角を二つほど曲がれば新居に辿り着くという場所で、兄が不意に怪訝そうな顔をした。
彼の真意がわからず首を傾げると、兄は周囲を見渡しつつ警戒した様子で歩き出す。
「だってこの辺、神室町の中でも結構治安悪いとこだぞ。大丈夫なのか?」
「ん……? そう言われれば……」
兄と早く会いたくて条件も特に確認することなく、とにかくすぐに入れる物件を契約してしまったのが仇となったか、確かに今いるこの場所はゴミが散乱し何やらヤンキー達が地面に座り込んでいて、決して治安が良いとは思えない場所だった。
「金はかかるけど今からでも家変えたほうが良いって。俺、なんなら一緒に探すから」
「うーん、別にいいよ。だって――」
その時、私の言葉を遮るように「オイ!」と声を上げながら、道端に座り込んでいたヤンキー数名が立ち上がりこちらへ寄ってくる。
「なーに目の前でイチャこいてんだお前ら! 喧嘩売ってんのか?! あぁん?!」
すると兄はこれまた慣れた様子で私とヤンキーの間に割って入った。
「俺達、兄妹なんだけど」
「知るか! 我が物顔で良い女連れて歩きやがって! ムカつくからぶん殴らせろ!」
「……はあ、めんどいな」
悪態を零しつつ、兄は私の顔を見る。
「香織。ちょっと下がってろ、すぐ片付けるから」
「片付けるって。そんなことしていいの? お兄ちゃん、弁護士でしょ」
「正当防衛の範囲でやるから大丈夫。……ん? っていうかなんか、香織、妙に落ち着いてない? 今、俺達、ヤンキーに絡まれてんだよ?」
「うん、そうだね。知ってるよ」
「知ってるって……」
どうやら妙に警戒心のない私に兄は呆れているようだ。
だけど、今更怯えろなんてのも土台無理な話になる。
だって私は――。
「何ごちゃごちゃくっちゃべってんだ、ゴラァ!」
「ちょ、今話し中だから――」
拳を振り上げて飛びかかってきたヤンキーに慌てて対応しようとした兄の横をすり抜け、私は靴の底をそのヤンキーの顔面に叩き込んだ。
意識外からの攻撃は見事にクリーンヒットし、ヤンキーの身体は数秒宙を舞い、地面に叩きつけられる。
「えっと……香織さん……?」
驚きからか突然私を「さん付け」しはじめた兄に、私は視線を返す。
「私ね、ずっと後悔してた。お父さんとお母さんが殺された時、もしも私があの犯人を取り押さえられるぐらい強かったら、まだ私達は幸せな家族でいられたんじゃないかって。お兄ちゃんと離れ離れになることもなかったんじゃないかって」
だから私は、強くなるために努力した。
引き取ってくれた親戚に頼んで、日本拳法と柔術、キックボクシング、柔道の習い事を同時に始め、8歳から専門卒業まで続けた。
格闘技経験者から、それらが一番実戦向きだと聞いたから。
「高校の時は、よく近所のヤンキーと喧嘩もしてたよ。……卒業する頃には全員、私の姿を見たら逃げ出すぐらい」
社会に出て以降はストリートで経験を積み続けた。
幸い、ナンパ師からヤンキーまで、殴る理由を提供してくれる相手はごまんといたから。
私の顔を見ながら兄は目をまん丸くしている。
当たり前だ。
彼の中の私はきっとまだ、8歳の幼い少女で止まっていたのだろうから。
「私だって、ちょっとは強くなったんだからね」
困惑する兄に、私はにやりと笑ってやった。