それから、しばらくして。
立会からやっと解放された私と兄は、警察により占拠された事務所を追い出された。
「……ああ。さっきまで警察の捜査に立ち会ってて。源田先生はまだ事務所に?」
『ええ。八神さんから新谷先生の話を聞きたいって』
さおりさんと通話中の兄の横顔を、私はふいと見上げる。
時折、脳裏に新谷さんの死に顔が浮かんで。
私は必死に、何度もそれを振り払った。
『私も同じです。星野君も』
「わかってる。……今からそっちに行くから。じゃあまた後で」
電話を切った兄はスマホをポケットに仕舞う。
その仕草を置き去りにするように、私は歩き出した。
向かうは、源田法律事務所。
「香織、いけんのか」
兄は、先に歩き出した私の横にあっさりと並ぶ。
「――モグラの事件を調べ始めたばっかの頃、」
「ん?」
突飛な口火に兄は不思議そうに首を傾げた。
そんな彼を気にすることなく私は続ける。
「お兄ちゃん言ってたでしょ。"やれるかどうかじゃない、やるんだ"って。……私も今、やっと同じ気持ちになった」
膝も、手も、震えてるのに。
身体は恐怖を訴えているのに。
12月のひやりとした気温が気にならないほど、私の身体には熱が籠もっていた。
「私、おかしくなっちゃったのかも。怖くて、逃げ出したくて、泣き叫びたくて、どうしようもないのに……それと同じぐらい――ううん、それ以上に。"絶対にぎゃふんと言わせてやりたい"って思ってる」
「……へえ」
兄はそう零しながら目をまん丸くした。
だけどすぐ、小さく笑う。
「お前、さては黒岩に結構キレてるだろ」
「うん」
可哀想だの。
人生が悲惨だの。
随分と勝手を言ってくれる。
それは……両親を失った当時の私が、一番嫌いだった言葉達だ。
私の人生を。
私そのものを。
侮辱する言葉だ。
人生がどうだったかなんて。
そんなもの、私が自分で決める。
「最初はあんなに怖がってたのに頼もしいもんだ」
「別に今も怖いよ。それとこれとは別」
どうせもう引き返せない。
兄だって、あの"警告"を素直に受ける気なんて毛頭ないだろう。
なら、前に進むしかない。
怖かろうが。
不安だろうが。
痛かろうが。
――死が、眼前に突きつけられていようが。
上等だ。
こうなったら最後までやってやる。
「……お兄ちゃん」
「なに?」
「モグラ。絶対ぶっ飛ばそうね」
「――そうだな」
足取りは重い。
だけど、力が籠もる。
怒りのまま神室町を踏みしめて、私は歩みを進めた。
◆ ◇ ◆ ◇
兄と共に足を踏み入れた源田事務所には重苦しい空気が漂っていた。
電気がついているはずの室内より、窓の外に広がるネオンの方が眩しくて。
私達を出迎えた事務所メンバーは何も言わないまま立ち上がり、応接椅子に向かい合って兄と源田さんが腰掛けた。
そんな二人を、星野さんとさおりさんが並んで立って見つめる。
「あの。香織さん。なんか、怒って、ます?」
星野さんの隣に並んだらそう問いかけられて驚いた。
そんなに顔に出ていただろうか。
慌てて笑顔を作って、彼を見る。
「ううん。怒ってないよ」
「……そう、ですか?」
少し不安そうな彼から目を逸らすと、兄がゆっくりと口を開いた。
「"新谷先生と連絡が取れない"って――さおりさんからそう聞いたんで、電話をかけてみました。その着信音がうちのクローゼットの中から聞こえてきたんです。新谷はモグラの手口でやられてました」
「モグラの手口って……じゃあ新谷先生も、目を?」
少し震える声で問いかけた星野さんの言葉に、さおりさんが胸元で指先を握りしめる。
「ええ。抉られてた」
兄は淡々と続けた。
「共礼会に狙われてたはずが、モグラに殺られるなんてな」
……そういえば。
新谷さんの身が何故危なかったのかという状況の前提に立ち返ると、少し違和感がある。
モグラは羽村さんの陣営。
逆に、共礼会はモグラに対する報復を行い、そのせいで羽村さんは身を隠している。
つまりモグラと共礼会は敵対していて、故に新谷さんが共礼会に狙われる可能性があって、危険。
そういう前提だった。
共礼会側がわざと挑発としてモグラの手口を真似た可能性もなくはないけれど、それなら兄の事務所に遺体を運び込む必要はないだろう。
となるとやはり犯行はモグラによるもの。
動機は、以前にも思った、口封じと脅しだろうか。
「新谷先生……今日、なにか知ってる口ぶりでしたよね?」
「ああ」
"どうせヤクザ同士の抗争とでも思ってんだろ?"
"でもな、モグラはそんなんじゃねんだよ!"
新谷さんの言葉が、ひっかかる。
そんなんじゃない――では、一体なんなのか。
「あの人はなにか俺も知らないモグラの情報を持ってた。たぶん、羽村からの仕入れだ。その口封じに殺されたのかもしれない」
すると、ずっと黙って話を聞いていたさおりさんが、あの、と切り出した。
「モグラが新谷先生を……八神さんの事務所で発見させた理由はなんでしょう?」
「わかんね。やつを追っている俺へのいやがらせか脅し。その両方かも」
もしそれが目的なんだとしたら、狙い通りなのかもしれない。
少なくとも彼の死を持って私はようやく、事件の当事者であるという意識を植え付けられてしまったから。
怯え、たじろぐ私と、それを必死になだめる兄。
モグラがその様子をどこかで見ていたんだとしたら、ほくそ笑んでいるに違いない。
思わず拳を握りしめる。
と同時に、腕を組んで話を聞いていた源田さんが、八神、と声をかけた。
「はい?」
「お前、しばらく大人しくしてろ。かなりヤバいんじゃねえか? なんなら少し街を出てた方がいい。お前と、香織君までモグラに狙われたら……」
「――わかりました。先生の言うとおりにします」
兄は、殆ど間髪入れず頷く。
その横顔を、星野さんはなんだか不安げに見つめていた。
「俺は、新谷が駆け出しの頃から見てきた」
言いながら、源田さんは項垂れる。
「あいつは頭が良くてよ。俺なんかよりなんでも要領がよかった。ただ、いざってときの意気地はねえし、弁護士としちゃ粘りも弱え。それでもずっと俺についてきた。……この先もずっとそばにいるもんだと、思ってた」
手元を見つめて黙り込んでしまった彼に、兄は少し、目線を泳がせてから。
口を開いた。
「……初めて俺がここに来た時、弁護士のイロハを仕込んでくれたのも新谷先生です。頼れる先輩でした」
兄の言葉に源田さんは少し、留まって。
「報告ありがとな、八神」と鞄を手に立ち上がった。
「さおり君。今日はもう帰ろう。駅まで送る」
「はい」
頷き、さおりさんが事務所のドアへ向かって歩き出すと、源田さんは兄へ向き直った。
「お前は今夜、ここで寝てったらいい。香織君もな。椅子は二つあるし、なんとかなるだろ」
「――助かります」
兄が言うと源田さんは「星野君は?」と、振り向く。
「僕は、もう少しやってから帰りますんで」
「そうか。じゃ……お先」
源田さんとさおりさんが事務所を出て。
事務所内にはしばし、沈黙が訪れる。
「八神さん。この事務所、八神さんの好きに使っていいですから」
そう言って彼は鍵を兄に差し出した。
「元々僕のほうが新参者ですし、鍵も渡しておきますね」
立ち上がり、鍵を受け取った兄と入れ違うようにして、私は兄が座っていた椅子に腰を下ろす。
今までの私ならきっと疲れて眠っていただろう。
だけど今は……眠れそうにない。
窓越しに、妙に静かな神室町の景色を見ながら私は小さく息を吐いた。