なんだか、すっかり帰ってくることが当たり前になってしまった事務所に、兄と共に戻ってきた。
私が持っているのと同じ形の鍵で兄は事務所を解錠し、中へ足を踏み入れる。
「結局、今日はどうすんだよ」
「ううん……もう諦めて、ここで寝よっかな……。お兄ちゃん、長椅子かけてじゃんけんしない?」
「しない。この事務所は俺に所有権があるんだよ? 椅子もデスクも買ったのは俺」
「嘘ぉ?! 鬼! 悪魔! っていうか事務所の所有権はオーナーの富岡さんでしょ!」
どうやら兄は疲れている妹に寝床を譲ってすらくれないらしい。
じゃんけんがダメなら喧嘩で決着つけさせてやろうかと考えたところで冷静になった。
そもそも、口でも拳でも兄に勝てるはずがない。
「はぁあ……」
大人しく、小さい方の一人掛けの椅子に腰掛けたところで、立ったままの兄のスマホが鳴った。
こんな時間に誰だろう。
もしもし? とそれに応答した兄は次いで、「珍しいな、さおりさん」と続けた。
兄の言う通り、さおりさんから連絡が入るなんて滅多なことはない。
一体なんの用だろうか。
電話をしながら兄は、奥の所長椅子に腰掛けた。
『新谷先生がずっと電話に出ないんです。今日八神さんと話して、事務所でたきり』
「それで?」
事務所の中は、蛍光灯の明かりでほんのりと明るい。
電話を受けながら煙草に火を付ける兄を横目に、すっかり疲れてしまっていた私は椅子の背もたれに体重を預けた。
『共礼会に狙われてるかもしれないんですよね?』
「……いや、大丈夫。少しおどかし過ぎたかもな」
そう言って兄は煙草を手に持つ。
薄暗い室内で、兄の煙草の煙が揺蕩った。
『あの、八神さんからも電話してみてもらえませんか? 新谷先生、私からだと出てくれなくて』
「俺の電話なら出るって人でもないけど……まあでもわかった。電話してみるよ」
その言葉を最後に兄は電話を切る。
うとうととしながら、私はそのままスマホをなにやら操作している兄を見た。
「どうしたの?」
「なんか、新谷先生が電話に出ないんだって。俺からも電話してみてくれって」
「新谷さんが……? ふうん……」
ちくり、じわり。
なんだか言いようのない不安に駆られながら、新谷さんに電話をかけているらしい兄の様子を見る。
静かな室内に、兄のスマホからこぼれる発信音だけが響いた。
「ん?」
「……え……?」
――数秒後。
どこからかバイブレーションのような音がする。
ちょうど、マナーモード中のスマホの、着信時のような。
兄は事務所を見渡した。
じわり。
不安が、緩やかに広がっていく。
まだ殆ど吸っていなかった煙草を灰皿に押し付けた兄は立ち上がった。
変わらず、音は鳴り続けている。
兄はそのまま――事務所にあるクローゼットに、ゆっくりと歩みを進めた。
音は……その、中から。
思わず立ち上がる。
耳の奥で心臓がどくどくと脈打った。
スマホを耳に当てながら兄は、クローゼットの持ち手に手を伸ばして、恐る恐る開ける。
瞬間、兄のスマホから「はい、新谷です!」と元気な声が聞こえてきた。
「あ。新谷先生、今どこに」
安堵からか、兄が振り向いた直後。
クローゼットから――目を抉られた新谷さんの身体がこぼれ落ちた。
珍しく兄の口から溢れた、ううわ……ッ?!という感情ダダ漏れの悲鳴に言及する余裕は、私にはなく。
「――っひ、あ……ッ、う……ッ!」
私は力なくその場に崩れ落ちた。
クローゼット。
錆色。
――息絶えた器。
両親は殺され、私だけ生き残ってしまったあの日の記憶が、フラッシュバックする。
声にならない悲鳴を押し殺し。
『源田法律事務所のエースとして法律に関するご相談はこの新谷正道にお任せを! では、メッセージをどうぞ!』
「新谷……」と、兄が呟く声が、反響して聞こえる。
私は――兄のスマホから聞こえる新谷さんの留守電ボイスを、ただ、聞いていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「っ、あ……ッ、は、あ……っ」
呼吸が出来ない。
息が苦しい。
崩れ落ちたまま起き上がれず、私は身を屈め、胸元を握り、必死に息を吸おうともがいていた。
「――香織。吸おうとしちゃダメだ、息を止めろ」
「っ、おに、ちゃ……! おか、さ……っ、いや……っ、やだっ……!」
「おい、落ち着け!」
兄の声が遠い。
意識がぼんやり遠のく。
記憶にこびり付いてしまった新谷さんの血まみれの顔と、父と母の死に様が、何度も脳裏で繰り返される。
「クソッ……! 香織っ!」
兄が、私を後ろから抱きしめ、口と鼻を塞いだ。
呼吸が止まって――静寂が返ってくる。
数秒そのまま、私達は揃って息を止めて。
ゆっくりと兄の手が口許から離れると同時に、私は深く、息を吸い込んだ。
「っ、ごほ、っごほ……!」
少し噎せながら呼吸を整える。
後ろにいた兄が、自分の体で新谷さんの遺体を隠すようにして前に回り込んできた。
「香織。大丈夫だ、大丈夫」
これっぽっちも大丈夫なわけがない。
だけど兄はそう言って私の目を見て、手をきつく握った。
彼の指先も、ひんやりとしていて。
私達はしばし、体温を分け合うようにして互いの手を握っていた。
「――ご、めん……ありがとう、お兄ちゃん……」
震える声で言うと兄はゆるりと首を振る。
冷や汗が止まらない。
耳鳴りがする。
夢だったならどれだけいいだろうと思う。
だけど、身体は三つあるのに。
呼吸は二人分しか聞こえないこの空間は紛れもなく現実だった。
「俺は、さおりさんに連絡する。香織、お前は出来るだけ見ないように……いや、海藤さんに迎えに来てもらってここを離れたほうがいいか。待ってろ、今電話で海藤さんを――」
そう言って兄はスマホで海藤さんを呼び出そうとする。
私は、震える指先で、兄の手に触れた。
そうして、迷って。
ゆっくりと首を振る。
「……いる。ここに、いるよ」
「でも、お前」
「お兄ちゃんと、いっしょがいい――」
まるで8歳の少女のように、私は兄に縋った。
兄は少しの間考え込んでいたようだけれど、やがて小さく頷きながら、震える私の手を握る。
「わかった」
そのまま、兄は空いた手でスマホを操作し耳に当てた。
数秒のコール音の後、スピーカー越しにさおりさんの声が聞こえてくる。
兄は淡々と今の状況をさおりさんに伝え――。
『ど、どういうことです? 新谷先生が? でも八神さん、さっきは大丈夫だって……』
彼女の、焦りが見える声が降ってきた。
それに兄は、また、淡々と続ける。
「なあ、さおりさん。俺もまだよく呑み込めてないんだ。ただ……犯人は、モグラだと思う」
言いながら兄は横たえた新谷さんに目線を送った。
彼の視線につられそうなった私は、必死に目をそらす。
電話の向こうから、さおりさんの言葉を失ったような呼吸音が聞こえてきた。
『警察に通報は?』
「いや、これから」
『じゃあまず通報したほうが良いです。それから……』
「通報は……さおりさんの方で頼める?」
え、と。
さおりさんが困惑する声がした。
私ももし今声が出せたら、同じ反応をしていただろう。
「俺は警察が来るまでにできるだけ現場を調べておきたい。――頼むよ」
兄は、懇願するようにそう言った。
数秒沈黙が訪れて。
さおりさんは静かに、わかりました、と返す。
そうして電話を切った兄は、そっと私の顔を覗き込んだ。
「香織」
「……うん」
兄の手が離れ、彼はそのまま新谷さんの遺体に近づく。
私はというと壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
体育座りをして自分の膝と腕に顔を埋める。
布が擦れる音と――兄の息遣い。
何も見えないのにそれが鮮明に焼き付きそうで。
耳も目も塞いで、眠ってしまいたくなった。
だけど。
ぎゅっと拳を握って耐える。
――これはきっとモグラからの……あるいはその関係者からの、警告だ。
今までモグラの被害者は全員路上に打ち捨てられていた。
だけど今、遺体は兄の事務所にある。
新谷さんが兄の事務所を訪れる用事などあるはずもない。
更に言えば事務所には一切の血痕もついていないことから察するに、犯人はわざわざ新谷さんを別の場所で殺害し、ここまで運んできたのだ。
その意図は。
これ以上関われば、お前も、お前の周囲の人間も、同じ末路をたどるぞ、という脅し。
兄よりも多くのことを知っていた新谷さんの口止めという側面もあるかもしれない。
「これ、銃創か……?」
兄がぽつりと零した言葉に震える。
銃創……新谷先生は、銃で撃たれてから、目を抉られたのだろうか。
もう――きっと、モグラの件は一般人が流れ弾を食らうだけには留まらない。
これ以上奥に足を踏み入れたのなら。
容赦なく、邪魔な人間を排除しようとしてくるだろう。
次に目を抉られるのは、一体――。
サイレンの音が近づいてくる。
その音は事務所の窓のすぐ外で止まって、ついで、事務所をノックする音がした。
出来るだけ新谷さんの姿を見ないように顔を上げる。
兄が開けた扉の奥に立っていたのは……黒岩刑事だった。
「源田法律事務所から通報を受けてきた」
「いきなりあんたが来るとはねぇ。黒岩刑事」
兄の言葉に、つい身体が強張る。
……と同時に引っかかった。
黒岩刑事は確か、組織犯罪対策課の人だ。
つまり、暴力団関係や銃器が使われた犯罪に関わる部署の人間。
ということは新谷さんは暴力団関係で殺害されたと警察側は推察しているのだろうか?
あるいは銃創があるから彼が――。
……いや、待って。
指先が冷える。
唇が震える。
通報したのは、さおりさんだ。
彼女がわざわざ電話口で警察に"被害者は極道組織に狙われていて"なんて説明するような人にも思えない。
それに兄が銃創に気がついたのは、さおりさんの電話を切った後。
じゃあ――どうして、この人が、わざわざ、この現場に、来た?
「新谷弁護士か」
黒岩刑事の静かな声に兄が、ええ、と続ける。
「よく知ってるよ。羽村を無罪にしたスゴ腕だからな。……そうか。お前、それが妬ましかったんじゃないか?」
「は?」
彼の言葉に思わず立ち上がった。
しかし、黒岩刑事は私を見ることもなく続ける。
「被害者とはもともと不仲だったって?」
「……なるほど。挨拶代わりに人を犯人扱いか。デキる刑事はやっぱり違うな?」
兄の言葉に何も返さず黒岩刑事は、これから鑑識を入れる、と告げた。
「お前には住居人として立ち会ってもらうぞ。そのあとここは立入禁止だ」
「いつまで?」
「少なくとも今夜はよそで寝床探せ」
「そんな金ないんだけどな」
「汚職警官に払ってる金があんだろ? 綾部の情報はガセも多いぞ」
ぼやく兄に黒岩刑事は淡々と続ける。
が、兄も兄でそれに、「何の話です?」なんて挑発的に返した。
「お前……警察ナメんなよ?」
と兄を睨みつけた黒岩刑事はようやっと私に視線を投げかける。
「妹もあんなに震えて可哀想に。その上、唯一残った身内が殺人犯になったりした日にゃ人生悲惨だな? それとも、妹にも新谷殺し、手伝わせたのか?」
「――ッ、テメェ……!」
「お兄ちゃん!!」
怒りを隠そうともせず黒岩刑事を睨みつけた兄は、私の声で動きを止めた。
恐らく、黒岩刑事の胸ぐらを掴もうとしたのであろう彼の少し浮いた右手が、所在なさげに漂う。
「そんな安い挑発に乗らないで。大丈夫だから」
私の言葉に兄は黒岩刑事から離れ、私の横に並び、壁に背を預けて腕を組んだ。
「鑑識、どうぞ始めてくださいよ」
兄がそう言うと黒岩刑事は、何も言わないまま淡々と現場の指揮を執り始める。
私は一歩、兄に身を寄せながら。
野次馬で少し賑やかになった事務所前の喧騒に耳を傾けた。