「……大丈夫かよ、ター坊」
テンダーを出て少し歩いた頃。
そう零した海藤さんに兄は、ああ、とぶっきらぼうに返した。
「ああいう手合には慣れてんだよ」
言いながら兄は、まだ海藤さんに手を引かれたままの私を見る。
「香織、平気か?」
「……平気に見える?」
「いや? だから聞いてんだよ」
なんだかちょっと優しい兄の声色に、私はやっと、海藤さんの手のひらから自分の手をそっと引き抜いた。
まだ、指先には温度が戻らない。
「そんなに怖かったか? 黒岩」
確かに兄の疑問も尤もだ。
圧のある人だったけれど……立場を考えれば彼は、市民の味方のはずだ。
そのはず、なのに。
「わかん、ないの。わかんないけど、なんか――」
一体何にこんなに怯えているのか。
言語化できず私は口籠る。
底知れなさ?
声色?
それとも、最後の笑み?
わからない。
どれもそうであってそうじゃない気がする。
「ごめん、もう大丈夫。気にしないで」
私がそう言うと二人はまだ少し心配しているような視線をこちらに向けていたけれど、やがて、海藤さんがゆっくりと口を開いた。
「にしても黒岩は何しにきたんだ?」
「たぶんあいつは、綾部のバイトもお見通しなんだろ。で、やりすぎないように釘刺しに来たとか?」
兄の推察に海藤さんは、なるほど、と小さく零す。
「それとも、俺らの顔を見に来たか……」
兄が続けたその言葉に肩が震えた。
もしそうなら、と考えただけで崩れ落ちそうになる。
一方の海藤さんは、ふ、と小さく笑って、目をつけられたら面倒そうだ、とだけぼやいた。
「どうする? 今夜は俺らも店じまいにするか?」
「いや、その前に共礼会をもう少し調べたい」
「ん? なんでだよ?」
歩き出した兄と、それを追う海藤さん。
二人になんとかついていきつつ、私はなんだか重たい足を見下ろした。
「今まで俺は、連中がただ単に神室町のシマを狙ってるだけだと思ってた」
ネオンが眩しい。
神室町という街が、背中に伸し掛かってくる。
「でもゼネコンがバックについてたり、再開発のビジネスも絡んでいる」
「俺らは本当の共礼会を知らないってことか。でもよ、連中を調べるって、どうやってだ?」
海藤さんの問いに兄は、ふ、と笑う。
「俺たち、共礼会には友達がいたろ?」
――もしかして。
脳裏に青い派手なスーツがぼやりと浮かんだ。
「……村瀬のことだな?」
海藤さんが答え合わせをしてくれる。
そうして二人は、KJアートへ向かうことを決めたらしい。
その背を私は――少し、ぼやける視界で見る。
「お兄、ちゃん。海藤さん」
名前を呼ぶと二人はゆっくりと振り向いた。
目があった彼らは、眉間にシワを寄せる。
一体今の私は、どんな顔をしているんだろう。
「ごめん、私……待ってても、いい……?」
声が震える。
何故かわからない。
何がきっかけなのかもわからない。
ここに来るまで、ずっと恐怖は感じていたはずだ。
それでも私はそれを握りしめてここまでついてきた。
なのに今は……足が竦んで、一歩を踏み出せない。
「それはいいけどよ。でも、どうすんだ? 一人になっちまうぞ。もう遅いし、源田事務所は閉まってるだろ」
海藤さんの言葉に私は黙り込む。
と、同時に。
"彼"の顔が脳裏に浮かんだ。
「……シャルルに、行ってみる」
今の時間なら店はまだ開いている。
東さんがいるかはわからないけれど少なくとも店員さんはいるだろう。
一人きりになることは避けられるはずだ。
「わかった。そこまで送る」
随分珍しい兄からの申し出に、ほんのちょっとだけ、心臓を覆っていた氷にヒビが入った。
シャルルまでの道中、主に海藤さんが世間話を振ってくれていたような気がしたけれど、あまり覚えていない。
二人にシャルルの前まで送ってもらって。
一人で店へと繋がる階段を降りて。
扉を開けて、カウンターにいる店員さんと目があった瞬間にようやく、少しだけ意識がハッキリと戻ってきた。
「こんばんは。あの、東さんは?」
「ん? 今はいないぞ」
「そう、ですか」
それはそうだ。
昼間に彼と会った時は、事務所の守りを固めに行くと言っていたし、まだ松金組事務所にいるのだろう。
「あんた、なんか顔色悪いな。大丈夫か?」
足を引きずるようにしてカウンターに近づくと店員さんはそう言って、私の顔を覗き込んだ。
なんだか温かい視線に、ちょっとだけ、私は気持ちを持ち直す。
「あ、いえ。ちょっと疲れてて。仕事のお邪魔はしないので、休んでてもいいですか?」
近くにあった筐体に添えられた椅子を指すと、店員さんは自分の背後にある扉を指した。
そこはいつも、兄が無理やり入っていくスタッフルームだ。
「なら、裏使ってもいいぞ。その椅子じゃ横になれないだろ」
「え? でも……」
「気にすんな。東さんの"好い人"を雑には扱えないんでね」
「――あり、がとう」
"好い人"発言は少し恥ずかしいけれど、今の私にはそれに触れる元気もなく――お言葉に甘えてスタッフルームに足を踏み入れ、いつも東さんが座っている二人掛けのソファにそっと座って、ずるずると滑り落ちるように横になった。
彼が吸っている煙草の匂いが充満していて。
ゆっくりと目を閉じた瞬間に、私は意識を手放した。
◆ ◇ ◆ ◇
――赤い。
紅い。
朱い。
飛び散る錆色。
じわじわと広がっていく真っ赤な海。
中心に横たえる、父と、母。
それを見下ろす黒い人影。
座り込み、身動きが取れず震えている私に、その人影はゆっくりと振り向いて、近付いてくる。
私は声も出せないまま、気がつけば目の前まで迫っていたその人影をただ見上げた。
手が、伸びてきて。
私の首を鷲掴みにする。
血に濡れた刃物が、ゆっくりと振り上げられて――眼前に、迫った。
「――いやぁ……ッ!」
「うおっ?!」
それが夢だと気がついたのは、悲鳴と共に飛び起きて、すぐ目の前にいた東さんと目が合ってからだった。
彼は驚いたポーズと表情のまま、肩で荒く呼吸をする私の顔を見つめる。
「っは、あ、はあ……っ」
「お、おい。大丈夫かよ。どうしたんだ?」
呼吸がうまく出来ない。
随分久しぶりに見たあの真っ赤な夢が、瞼の裏にこびりついて離れなかった。
東さんはというと、困ったような顔で私の顔を覗き込む。
かと思えば、少し悩んだような仕草の末――そっと、私の背に手を添えて、ゆっくりと撫でた。
「香織……?」
「――、」
名前を呼ばれて。
一瞬、呼吸が止まる。
だけど徐々に、はち切れんばかりに暴れていた心臓が落ち着いてきて。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「ご、めん。東さん。もう大丈夫」
「本当か? どっか具合悪いなら、無理すんな」
「……ん。ありがとう」
しばらく彼は私の顔を見つめていたけれど、やがて長テーブルを挟んで向こう側にあったパイプ椅子をわざわざ長椅子の近くまで持ってきて、そこにどかっと座る。
煙草に火を付けながら彼は、んで?と首を傾げた。
「何があった?」
流石に、私が一人、シャルルの裏で寝込んでいたことに彼も驚いたのだろう。
絶対に吐いてもらうという圧が、彼の言葉には滲んでいた。
「黒岩って刑事に会ったの。松金組の銃撃事件の指揮を取ってるらしいんだけど」
「ああ、そういや、そんなやつがうちの事務所の前によく顔出してたような気もすんな。……そいつに何かされたのか?」
何をされたかと訊かれれば、何もされていないというのが答えではあるのだけれど。
「名前を、知られてて。……説明できないけど、すごく、怖かったの。その人が」
「怖い? 相手は刑事だろ? 極道よりよっぽど立派な人間じゃねえか」
「そう、なんだけど」
彼の言う通り一般人からすれば、そりゃ警察組織の人間よりもヤクザのほうが怖いに決まっている。
なのに私は……黒いスーツに身を包んだ黒岩刑事という存在から怯えるように目を逸らし、派手なスーツに身を包む東さんに拠り所を求めていた。
「お兄ちゃんと海藤さんは、まだ動くみたいだったんだけど、私、ちょっとついていくの無理そうで」
「それでうちに来たのか。ったく、ここは託児所じゃねえんだぞ」
「うん……ごめん」
素直に謝られるとは思っていなかったのか、東さんは「うぐ、」と小さく呻く。
沈黙がその場を包んで。
私は膝の上でぎゅうっと拳を握った。
指先の震えは、まだ収まらない。
「ああ、もう。いつもの冗談だろ、素直に受け取るなよ」
「え……?」
顔を上げると、少しバツの悪そうな顔をした彼と目があった。
「だぁから! ……何かあったんなら、いつでも来て良い。俺ぁ基本、事務所かここにいるしな。安全かどうかは保証できねえけどよ」
彼の言葉に思わず泣きそうになる。
だけどそれはぐっと堪えた。
「ありがとう、東さん」
「……おう」
やっと、指先に温度が戻ってきて。
瞬間、ちょっとだけ扉が開いて、店員さんがひょこりと顔を出した。
「東さん。俺、二時間ぐらい店出てましょうか? 店のシャッターも下ろしときます?」
「いらねえよ馬鹿!」
東さんの怒号に、ようやく私はほんのちょっとだけ笑う。
すると彼もまた――安心したように、小さく笑ってくれるのだった。