三年前、兄の過去を聞いた日のことをぼんやりと思い出しながら、私は兄に続いてテンダーに足を踏み入れた。
お店のカウンター奥にはマスターがいて――それと向かい合うように、カウンター席にカーキ色のコートを着た男性と海藤さんが並んで座っていた。
あのコートの男性が恐らく、綾部さんだろう。
兄はそのまま、綾部さんの隣に腰を下ろす。
私がどこに座ろうかと悩んでいたら、こちらへ振り向いた海藤さんが自分の隣の空いている席をぽんぽんと叩いた。
誘われるまま私は彼の隣に座る。
「海藤。そいつが話してた八神の妹か?」
不意に、綾部さんが海藤さん越しに、横目で私を見ながら口を開いた。
彼が持っているグラスの中で氷が小さく音を立てる。
「ああ、香織ちゃんだ」
「……こんばんは」
小さく頭を下げると綾部さんは私をなんだかまじまじと見て、正面へ視線を逸らした。
「聞いた話じゃ裏社会とは何の関係もなかったカタギだそうじゃねえか。巻き込まれて大変だね」
まるで心配しているような言葉選びだけれど。
口調はなんだか、冷ややかで。
彼本人にも、事件そのものにも、あまり歓迎されていないような気がした。
「しかし、こう物騒じゃ情報屋も繁盛するね? 綾部刑事」
それに刺し返すように、兄は皮肉交じりに口を開く。
すると綾部さんは小さく笑いながら「おかげさまでな」と返した。
「ゆうべ松金組が撃たれた事件……なにか情報は?」
「それがあんまりねんだよ。大体、お前らにも松金組に東ってネタ元がいんだろ?」
――。
少しだけ体がこわばった。
警察関係者に個人が特定されるのは、あまり良くないような気がして。
まあ、相手が汚職刑事ならまだ安全そうではあるけれど。
「耳が早いな。誰に聞いた?」
「さっき。海藤から」
「は? なんで言うんだよ、海藤さん。あいつとのことは黙ってた方が良くないか? もし羽村にバレたら、あいつの立場がマズくなんだぞ?」
そう言って険しい顔で兄は海藤さんを見る。私もまた、兄と同じ気持ちで彼の横顔を見つめた。
「綾部の場合、バレてから口止めじゃ遅いんだよ。バレる前に口止めしとく方がずっと安全だ」
「……そっか。バレてからじゃもう情報がどっかで売られてるかもしれないし、そもそも、"東さんのことを知っているかどうか"も綾部さんからしたら"商品"なんだ」
だから、私達が"綾部さんは既に東さんの情報を掴んでいる"と気付ける頃には手遅れになっている可能性が高い、ということなのだろう。
すると綾部さんは思わず口を挟んでしまった私を少し、見て。
にやっと笑った。
「そういうこと。これでもプロなんでね」
「プロって……汚職刑事のだろ」
兄の言葉に綾部さんは、好きに言えよ、と続ける。
「ただ、今日はマジでたいしたネタがないんだ。悪いな」
「なんだぁ? じゃあ俺ぁ、タダ酒おごらされただけかよ?」
「待てよ。そんな風に言われちゃ心外だな」
不満げに漏らした海藤さんに綾部さんが顔を向けた。
すると一瞬、綾部さんと目が合う。
彼は何も言わなかったけれど、ちょっとだけ、あの冷ややかな雰囲気は和らいだような気がした。
「じゃあ、これ1杯分の勘定は情報で払ってく」
言いながら飲んでいたお酒のグラスを掲げ、綾部さんは兄に視線を戻す。
「どんな?」
「じつはゆうべから羽村が姿を消してる。知ってたか? 組の事務所にもずっといねえ。目下警察でも行方を追ってるとこだ」
すると兄は小さく息を吐いた。
「それならもう東に聞いてた」
「今のでグラス1杯か……綾部情報は高けぇなあ」
兄と海藤さんの言葉に綾部さんは、わかったよもう、と投げやりにぼやく。
「なら……なんか他に聞きたいことがありゃ言え。世間話ってことで、タダでいい。おっさん三人、黙って飲んでてもつまんないからな」
「何言ってんだ、綾部。香織ちゃんがいるだろ?」
「あのね、海藤さん。私キャバ嬢じゃないんだけど」
肩に置かれた海藤さんの手を振り払いながら、私はマスターに向き合った。
「マスター。なんか、ソフトドリンクちょうだい」
「オレンジジュースでいいか?」
「うん、ありがと」
すると海藤さんは、呑まないのか?と首を傾げる。
そんな彼に気分じゃないからと返しつつ、マスターがさっと出してくれたオレンジジュースを一口飲んだ。
甘酸っぱさと、それを追いかけるようにオレンジの苦みが舌の上で滲む。
「世間話ねえ。じゃあ、そうだな……あんたの目から見て、最近の神室町はどうなってる?」
「ゆうべの一件でいっそう空気が悪くなっちまったな。また抗争の流れ弾がカタギにも飛んでくるかもってよ」
私はつい、グラスを握りしめた。
オレンジ色に、波紋がゆるりと広がる。
「ああ。モグラの犠牲者も今までは極道だけだったけどな」
海藤さんの言う通り、今までは、いうなれば別世界で起こっていた出来事だった。
室内からガラス越しに外を見ているような。
鏡をふと覗いたらそこに広がっていた世界のような。
だけど今は、一般人と裏社会との間になんとか張っていた薄氷がすっかり砕けてしまって。
宵と明が混じったような世界に感じる。
「流れ弾に目を抉る殺人鬼……そりゃおっかないよな」
兄の言葉にふっ、と小さく笑って、綾部さんは、それより知ってるか、と話を切り替えた。
「お前が始めた"モグラ"って呼び名、刑事たちも使い出しててな。街ん中でもわりと通じんだぞ」
「へえ……」
なんだか少し嬉しそうな兄を可愛らしく感じつつ、もう一口ジュースを飲む。
ネットが普及して久しい今の時代でも、人の口伝というのは、人々の生活に重要な役割を担っているのだ。
特に、この神室町では。
「そもそもの話、共礼会はなんで神室町に来てるんだ? わざわざ関西から」
兄の問いに少し姿勢を正す。
素人目ながらぼんやりと、縄張りを広げるためだろうかなんて思っていたけれど、実際のところはどうなのだろう。
「そりゃ、東京にも縄張り持ちたいからだろ」
と答えたのは、綾部さんではなく海藤さんだった。
すると兄は少しだけ眉をひそめる。
「東城会と抗争してでも? 共礼会はそこまで強い組織なのか?」
「まあ、東城会2万5000に比べたら、共礼会はせいぜい1000人程度。おまけに神室町じゃ完全にアウェイだし、全然だ」
いまいち極道組織の規模感が掴めないけれど、東城会が関東を束ねる巨大な極道組織であることから察するに、確かに及びそうもない規模のようだ。
「普通に考えれば勝負になんないな」
その兄の言葉に小さく頷く。
だけど同時に、それなら何故という疑問がまた浮かんできた。
「ああ。共礼会は1、2年前から神室町に出てきたが……すぐ東城会に潰されるだろうって警察でもそう見てた」
「じゃあなんでそうはならなかった?」
「共礼会のバックには関西の梶平グループってのがついてる。その資金力がでかいんだよ」
……梶平?
なんだか、聞き覚えがあるような。
「梶平って……ゼネコン大手の?」
海藤さんがそういった瞬間、ああ、と私は手を叩いた。
そういえば神室町へ来る前にCMを見たことがある。
しかし、地上波にCMを流せるほどのゼネコングループが極道組織と繋がっているなんて。
そんなのドラマや映画の中だけかと思っていた。
「そうだ。その梶平系列のカタギの会社を、共礼会は隠れ蓑にしてた。それが、KJアートだ」
再び出てきた聞き覚えのある名前に少し、考え込む。
「ねえお兄ちゃん。そこってもしかして、私がセイヤさんの妹さんと一緒に監禁されたビルの会社?」
「ああ、そうだな」
なるほど、通りで。
連れ込まれる時、受付に置いてあったパネルに"KJアート"と書いてあったことを思い出した。
すると、そのやり取りを見ていた綾部さんが、ついと私の顔を見る。
「あんた、思ったより場数踏んでんだな」
「あ、いや、あれを場数と数えて良いのか……巻き込まれたようなもんですし」
「ヤクザに監禁されてなおヤクザの事件にクビ突っ込んでんだ。ただの一般人にゃ無理だろ」
そういうものなのだろうか。
今もまだ、ただ巻き込まれているだけという感覚は否めないのだけれど。
それはともかく。
図らずも共礼会の詳しい話が聞けただけでも、ここに来た甲斐はあっただろう。
バックに潤沢な資金を蓄えた大企業がいるということなら確かに、東城会に喧嘩を売るという手も、決して悪手ではないのかもしれない。
「梶平は共礼会とどういう関係なんだ? 大手のゼネコンが、なんでヤクザなんかに金を?」
「じつは、東京進出の野心を持っているのは共礼会じゃなくてたぶん梶平の方だ。東京ででかい再開発を進めようとしていたらしい」
わざわざ東京進出のために企業がヤクザを使うなんて。
だけどそれだけ、神室町の裏には極道組織が深く根付いていることの裏返しで。
極道の牙城を崩すには同じ土俵に絶たなければいけない、そういうことなのかもしれない。
「再開発? ……どんな」
「さあな。でもわざわざ関西から乗り込むんだ。でかい話だろうよ。で、その手の話には汚れ仕事が付きものだろ?」
すると、しばらく黙って話を聞いていた海藤さんが「どういう?」と問いかけた。
「地上げとか立ち退かせ。あとは政治的な根回しとか? 梶平のそれを全部請け負ってるのが共礼会……そういう噂だ」
「"多分"とか"噂"とか、貴重な情報ありがとよ」
少し嫌味っぽくそう言う海藤さんに綾部さんは向き合う。
「でも一時期は梶平の会長も頻繁に東京へ来てた。それは間違いねんだぞ? で、政治家とか役人……変わったとこで、厚生労働省の風見大臣にも何度か会ってた」
厚生労働省の大臣……これまた雲の上の人の名前が飛び出してきたものだ。
なんだか現実味が薄れていくのを感じながら、私はカウンターに頬杖をついた。
「ゼネコンと厚労大臣? そんなのが会って、なに話すの?」
兄の疑問に綾部さんは、さあな、と首を振る。
「とにかく共礼会が神室町に来たのは極道の理屈だけじゃねえ。もう少し複雑なんだよ」
確かに話を聞いた限りだと、ただの極道の抗争だと片付けるには色々なものが絡み合いすぎているように思える。
だけど今はまだ――その全貌は掴めなかった。
「じゃ、そろそろ帰るよ」
「なんだ。もういいのか?」
「ああ。充分だ」
そう言って先に立ち上がって歩き出した兄を追いかけ、海藤さんも立ち上がる。
私も慌ててオレンジジュースを飲み干して、マスターに会釈をしつつそれを追いかけた――瞬間。
テンダーの扉が開いて。
スーツを着た、なんだか真面目そうな男性が二人、その場に立ち塞がった。
「八神に、その妹の香織。海藤だな?」
背後で、綾部さんがまるで隠れるようにして居住まいを正す。
知らない人に名前が割れている。
それがなんだか恐ろしくて、心臓が縮こまった。
「神室署、組織犯罪対策課の黒岩だ」
それはほんの少し前にも聞いたばかりの名。
栗本さん銃撃事件の指揮を取っていたという刑事さんだ。
それはまだ、いい。
どうして――私たちの名前を。
ふと、数歩前方に立っていた海藤さんが一歩、私に身を寄せた。
警戒しているらしい彼の様子に思わず指先に力が入る。
「黒岩……?」
「お前らが無罪にしてくれた羽村は、俺が手錠かけたやつだった」
黒岩刑事の淡々とした、だけどどこか冷たい温度をまとったその言葉に、兄は「へえ、だから?」と笑みを返した。
またそんな、挑発的に。
「おかげでいい笑いモンになってる。ありがとよ」
背筋がぞくりとする。
冷たい。
そこには怒りだけではなく、なにか、別の感情も含まれている気がして。
「うん、どういたしまして」
兄が、今度は隠しもせず挑発をしたその様子に思わず、海藤さんの服の袖を指先でつまんだ。
目があった海藤さんは薄く微笑んでくれる。
いつもならそれで、少し、安心するのに。
「うちの綾部とは仲がいいらしいな」
それにびくりと肩を揺らした綾部さんは、困ったように笑いながらぎこちなく振り向いた。
「あ、あれえ? 黒岩さん、いらしてたんスか」
「ああ。仕事サボって飲みに来たんだ。お前もだろ、綾部?」
「そんな、サボるだなんて」
乾いた笑いを零す綾部さんを、黒岩刑事は表情を変えないまま見つめる。
どうしてこんなに――この人の一挙手一投足が、鋭い針のように感じるのだろう。
「じゃ、俺らはこれで」
兄が歩き出す。
それを追いかけて、私の手首を優しく握った海藤さんも歩き出した。
「――なぁ。ひとつ教えてくれるか?」
背後に針先が突きつけられたような気がする。
足を止めた兄と海藤さんの背を、私は恐る恐る見上げた。
「3年前、お前の弁護で無罪になった人殺しが、何の罪もない女の子を焼き殺した」
思わず振り向く。
どうして今更、この場で、その事件のことを。
「なのに、この間の裁判でもまた人殺しを野放しにしたな?」
一瞬、黒岩刑事と目が合ってしまう。
怯えている私からさっさと視線を外した彼は兄の背を見た。
その人の目を覗き込むのは、怖くて――でも、目を離せなくて。
「今度の犠牲者は誰になるんだ? 教えてくれよ、"八神先生"」
ほんの一瞬だけだった。
だけど、確かに。
黒岩刑事は――口角を上げて笑っていた。
その真意は、わからない。