「香織ちゃん」
源田法律事務所までの道すがら、そう声をかけてきたのは海藤さんだった。
彼は少し遠くから足早に私のもとへ駆け寄ってくる。
「一人か? ター坊はどうした?」
「なんか、半グレ集団に知り合いが絡まれてるとかなんとかで、いなくなっちゃったの。あとで源田さんのとこで合流する予定」
「そうか。ったく、一人で動くなって言っといて居なくなるなんて、酷い兄貴だな」
「でしょ。……まあ今は、大丈夫だと思うけど」
「ん?」
首を傾げた海藤さんに私は、東さんから聞いた話をそのまま伝えた。
羽村さんは今、共礼会に命を狙われていて雲隠れしていること。
そのせいで兄や私に構っている暇はないこと。
新しく浮上してきた共礼会のことは気になるけれど、一旦今は、前ほど警戒する必要はなさそうであること。
兄は知り合いを救ってから新谷先生への警告のため源田法律事務所へ訪れる予定であること。
それらを聞いた海藤さんは、ふうん、と小さく頷いた。
「なるほどな。とはいえ一人が危ないのは変わらないだろ。源田事務所に行くっつーなら送るぜ」
「んん……でも多分、お兄ちゃんが来るまで時間かかるだろうし、ずっと置いてもらうのもなんか申し訳なくてさ。海藤さん、時間潰しがてら一緒にご飯いかない? あと、お兄ちゃんの事務所に荷物置きにいきたい」
「お、いいぜ。なに食いに行く?」
家に一度帰ってからずっと持ちっぱなしだったトートバッグを肩にかけ直しながら、歩き出した海藤さんの横に並んで歩く。
一応兄にメッセージアプリで海藤さんと合流したので後で事務所に顔を出す旨を送っておいた。
返事はないけれど、まあ、そのうち勝手に見るだろう。
「んー。焼肉。ジャン負け奢りでどう?」
「お、いいねえ。負けても知らねえぞー?」
「……あ、単品じゃなくて食べ放題ね」
「なんだよ。勝ったら五万ぐらい食ってやろうと思ったのに」
「わあ、危なかったぁ……」
そうして私は海藤さんと食事を済ませ――、数時間後、荷物を置くため事務所へ足を踏み入れた。
「一旦持ってきたけど、寝る場所問題は解決できてないんだよねえ。どーしよ」
「まあな。ビニールシート、買いに行くか?」
「うぅう……やだなあ……」
そんな話をしていたら不意に。
事務所の扉が開いて、水色のジャージをきた中年の男性がひょこりと顔を出す。
「おーい、ここにスカジャン着た兄ちゃんいねえか?」
男性は中に居た私達にそう問いかけながら事務所を見渡した。
スカジャンの兄ちゃん……まず間違いなく、兄だろう。
海藤さんと顔を見合わせてから、私は男性へ向けて緩く首を振った。
「ええと、今はいませんが。お仕事の依頼ですか?」
「いや、兄ちゃんを捜しててよ。ちょっと渡してえもんがあってな」
そう言いながら男性はひらひらと、顔の横でCD-ROMが入ったパッケージを揺らす。
「その兄ちゃんなら七福通りにある源田法律事務所ってとこにいるはずだぜ」
「そうか! 行ってみる、ありがとよ!」
海藤さんの言葉に男性はなんだかにやにやと楽しそうに笑って、駆け足で事務所を出ていった。
一体なんだったのだろう。
まあ、悪い人ではなさそうだったし、いいか。
「さてと。俺らも源田事務所いくか?」
「うん、そうだね。そろそろ行こっか」
途中、一応ドンキに寄ってビニールシートを見たりしていたら結局、源田法律事務所に到着する頃にはすっかり夕方になっていた。
海藤さんと別れ、エレベーターを抜けて事務所のドアに手をかけた瞬間、応接椅子で兄と新谷さんとが向き合っているのが目に飛び込んでくる。
とりあえず、新谷さんが無事なことに安堵しながら事務所の敷居を跨ぐと二人はこちらへ視線をよこした。
「お、香織」
「うん。……今から話するとこ?」
「ああ」
兄が頷いたと同時に、私は事務所内を見渡す。
さおりさんも、星野さんも、源田さんも、みんなが手を止めて兄と新谷さんに注目していて、なんだか随分と物々しい雰囲気だ。
なんとなく、私はさおりさんのデスクにそっと歩み寄り、その近くを陣取った。
兄の隣に座ろうかとも思ったのだけど――それは避けたほうが良さそうな気がして。
「羽村のカシラから苦情がきてる。お前のことでだ」
不意に。
横柄に足を組み、苛立たしげに新谷さんが口火を切った。
その言葉につい私は眉をひそめる。
どうやら羽村さんは、新谷さんには連絡を取っているらしい。
「"せっかく無罪になった事件を蒸し返すな"ってよ。俺も同感だ。気分が悪い。俺が勝ち取った無罪にケチつける気か?」
「――あんたが勝ち取った、か」
挑発的な兄の言い方に背筋がひやっとした。
「そうだよ。法廷に立ったのは俺だ。おかげでウチは今、弁護依頼が殺到してる。もうあの事件は終わったんだよ」
そういう新谷さんの言葉に、兄は随分、冷たい視線を返している。
「弁護士にとっては終わったんだろうが、まだ人の目を抉る殺人犯は野放しのままだ」
「フン……"モグラ"ってやつか?」
――。
ごきゅ、と喉が鳴った。
どうして新谷さんがその呼び名を知っているのだろう。
いや、想像には難くない。
きっと羽村さんから聞いたのだ。
だけど、それがまた、燻る。
私達が思っているより羽村さんは、新谷さんに多くの情報を与えているのかもしれない。
「迷惑だっつってんだよ! お前の探偵ごっこは! なんでお前は俺の邪魔すんだ?!」
新谷さんが声を荒げる。
すると兄はしばし黙り込んだあと――静かに口を開いた。
「あの事件、羽村は真犯人を知ってたはずだ。なのに裁判中ずっと隠してた。俺らをコケにして罪を逃げ切ったんだよ」
兄の表情に少しずつ、怒りのようなものが募っていく。
「あんたはこれでいいんだろうけど……俺はこのままじゃ終われない」
「偉そうな口たたきやがって。お前だってカシラからずっと逃げ回ってんだろ? 妹まで命狙われてるって話じゃねえか」
途端、すぐ近くに居たさおりさんが私を見上げた。
次いで星野さんも、源田さんも、こちらへ視線を注ぐ。
……新谷さんは、一体、どこまで知っているのだろう。
「いま逃げ回ってんのは羽村の方だよ。共礼会に狙われてる。ゆうべの銃撃事件がそうだ」
そうだ。
今日、私と兄はそれを伝えるためにこの事務所を訪れたのだ。
何やら少し、攻めの態勢を崩した新谷さんに、兄は続ける。
「で、あるスジの話じゃ羽村を無罪にした弁護士の身も危ないらしい。――あんたのことだよ」
「あ?」
新谷さんは怪訝そうに眉をひそめた。
羽村さんの命が狙われていることまでは知らなかったのだろうか。
ましてや、その流れで自分の命まで危ないことも。
「だからせいぜい気を付けな。今日はそれだけ言いにきたんだ」
黙り込んでしまった新谷さんを前に、兄は立ち上がる。
「じゃあな。俺は、俺がやるべきことをやる」
「ふざけんなテメェ!」
そこで話が終わると思っていた私は、サングラスを外しながら勢いよく立ち上がった新谷さんの姿につい、目を見開いた。
だけど、彼が続けたその言葉に更に驚くことになる。
「――お前じゃモグラに届かねえよ」
……それは。
到底、何も知らない弁護士の言葉とは思えなくて。
「どうせヤクザ同士の抗争とでも思ってんだろ? でもな、モグラはそんなんじゃねんだよ!!」
「……どういうことだ?」
兄はその言葉にゆっくりと振り向く。
恐らく一触即発の雰囲気を感じ取ったのだろう、星野さんと源田さんが立ち上がり、数歩、兄達へ近付いた。
「何か知ってんのか? 俺が知らないモグラの情報を。……羽村から何か聞いたな?」
入口を背に立つ兄の横に、私は無言で並ぶ。
彼は、私達よりもモグラに近い場所にいる――それはきっと、とてつもなく、危険な場所だ。
「知ってること全部話せ」
しかし、新谷さんは無言で兄と私の間をすり抜けて歩き出す。
そんな彼に、兄は追従しながら続けた。
「もしまたモグラが人を殺してみろ。その責任はあんたにもあるぞ!」
すると新谷さんは振り向き、そんなわけねえだろ、と投げ返す。
その言い方はなんというか――まるで自分事ではないようで。
喉元にじわりと苦みが広がる。
「だいたい弁護士には守秘義務ってのがあるんだよ。勉強し直してこい」
「新谷!」
兄が叫ぶも、そのまま彼は事務所を出ていってしまった。
物騒な単語が飛び交う雰囲気に、いつの間にかすぐ近くに控えていた源田さんが険しい顔を浮かべる。
「あいつのこと、尊敬する兄弟子とか言ってなかったか?」
兄はそれに何も返さず、ただ、新谷さんが出ていったドアを見つめていた。
その顔はいつになく険しくて。
不安を握りしめたまま兄と共に事務所を出たところで、兄のスマホが鳴った。
もしもし、という兄の声に続いて、海藤さんの声が聞こえる。
『海藤だ。いま松金組の事務所前に来てる』
「ゆうべの事件現場ってことか」
『ああ。まだ警察でごった返してる。黒岩って刑事が仕切ってるぜ』
「黒岩? ……ああ、綾部の上司だっけ」
警察でごった返す事件現場。
ふと、私はビルの隙間から見える空を見上げた。
話しているうちにすっかり日が沈んでいる。
いつもの神室町なら事件が起こってもまるで他人事のように進んでいく。
丸一日も経てば、どんな事件現場だって警察が一人二人いるぐらいなものだけれど――未だに"ごった返して"いる。
一体、この街で何が起こっているのだろうか。
『そうだ。その綾部も現場に来てる。ちゃんと刑事らしく働いてるよ』
茶化すような海藤さんの物言いに兄は小さく笑った。
『それで、またやつからサツの捜査情報なんかが取れるかと思ってな。今からテンダーに誘い出してみる。来られるか? いま香織ちゃんも一緒だろ?』
「わかった。テンダーだね?」
そう言って通話を終えた兄はスマホをポケットに仕舞いながら、じゃ行くか、と歩き出す。
彼の背を追いかけようとして……一寸、足がすくんだ。
そんな私に気がついた兄は振り向いて不思議そうに首を傾げる。
「どうした?」
「……ん、なんでもない。――綾部さんに会うんでしょ? 初対面だし、なんか緊張するなあ」
「別に緊張するような相手じゃないよ、大丈夫」
「もう。またそんな失礼なこと言って……」
闇に飲み込まれていく。
そんな感覚を振り払いながら、私は歩みを進めた。