なんだか、多大なる時間を無駄にしたような気がする。
まあ、仕事は結構進んだから良いのだけれど。
クライアントのメールで盛った進捗になんとか追いつけたし。
そんなことを思いながら私は兄と共に源田法律事務所を出て、その足でシャルルへと続く階段を降りていた。
二度の来訪ですっかり見慣れてしまったプライズトイコーナーを抜けてシャルルに足を踏み入れる。
まだ時刻はお昼を少し過ぎた頃。
明るい時間だからかシャルルの中にはちらほらと客が入っていた。
瞬間、私はつい、天井を見上げる。
そこには数日前に兄が発砲した跡がくっきりと残っていた。
彼らは知る由もない。
ここがヤクザの運営する場所であることも。
つい少し前は拳銃が取り出されるほど、危機が充満していた空間であったことも。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん……っ!」
最初に来たときと同じく、兄は堂々とカウンター裏の扉へ手を掛ける。
店員さんは一瞬顔をしかめたけれど、言うだけ無駄だとわかってしまったのか何も言わなかった。
それがあんまり申し訳なくて私はここに来るまでの間に無理やり兄を引っ張って入った和菓子屋の菓子折りをそっと差し出す。
「……本当にご迷惑をおかけしてます」
「え。あ、いや、なんか、こちらこそすいません……」
険しい顔をしていた店員さんは面食らったような顔をしていたけれど、とりあえず菓子折りは受け取ってもらえたことに安堵した。
兄のこともそうだが、先の戦いの最中私は思いっきり彼を殴ってしまったので、本当に受け取ってもらえてよかった。
二度と話しかけるなと言われても文句は言えないところだったから。
それにしても松金組員でも当事者でもないのに巻き込まれてしまっている彼にはなんだか、親近感が湧いてしまう。
せめてもう一言挨拶でもと言葉を探していたら兄がさっさと裏へ入ってしまった。
私はそれを詫びつつ、彼の後に続く。
「お……八神!」
ノックもせず堂々とスタッフルームへ侵入した兄に東さんは困惑の声を漏らした。
我が兄ながら本当に、なんというか。
「う、ちょ……なにしに来てんだ、お前! 香織まで……!」
とりあえず裏へ続くドアを後手で閉めながら謝ると、彼は私と兄の顔を交互に見ながら立ち上がった。
「お邪魔か?」
「本当にごめん、東さん。礼儀のなってない兄で」
あっけらかんと言い放つ兄に私は頭を抱える。
一方、東さんは苛立たしげに眉をひそめながら口を開いた。
「"お邪魔か"だぁ? もしカシラに見られたら、お前」
「ん?」
「あ、いや。そんなに心配することはねえかぁ……もうカシラもお前に構ってる場合じゃねえし」
言いながらゆっくりと座り、煙草をふかして手に持っていたスマホを見た東さんに私は少し、肩透かしを食らったような気持ちになる。
「ゆうべの銃撃事件のせいでか?」
そういえば昨日彼と会った時も、栗本さん襲撃事件のせいで松金組は大騒ぎだと言っていた。
昨日の段階では"手薄になった"程度だったようだけれど、なんだか余裕がありそうな彼の様子と言い方から察するに、羽村さんはもう兄のことを睨んでいる場合じゃないのだろう。
……あれ。
じゃあもしかして、家に帰れる?
「ああ。そのすぐあと、カシラは事務所を出てそれっきりだ。サツが来た時にはとっくに雲隠れしてたよ」
――?
彼の言葉に、私は一つ、違和感を覚えた。
どうして羽村さんが隠れる必要があるのだろう。
てっきり羽村さんが兄に構う余裕がないのは、共礼会への報復や対応で忙しいからだと思っていたのに。
「で? なんの用だ? ぼさっと突っ立ってんな、一応客なんだからよ。ったく、お前ら座れ」
「え。座れ、ったって……」
私はスタッフルームを見渡した。
足元にはパイプ椅子が一つ。
二人掛けのソファは長テーブルを挟んだその対面で東さんが使っている。
「香織、東の隣に座らせてもらえば?」
「……表から椅子貰ってくる」
兄の言葉を無視して私は一度スタッフルームを出て、店員さんからパイプ椅子を一つ借りて戻った。兄の隣にそれをおいて腰掛け、姿勢を正す。
なんだか楽しそうな顔で私を見ていた兄はそのまま東さんへ視線を送った。
「にしても、ゆうべから松金組は大変だね」
「ああ。事務所はサツでごった返してる。俺もこれ吸い終わったら行くんだけどよ」
そう言いながら煙をふかす彼に、首を傾げた。
私の疑問を代弁するように兄は「何しに?」と問いかける。
「事務所の守り固めに、だ。組のモンは全員招集かけられてる」
「そっか。抗争の真っ最中、だもんね」
そもそも栗本さんが殺された時点で共礼会の報復が完了しているとも限らない。
また鉄砲玉を送り込まれる可能性だって否定できないだろう。
思わず不安になって指先をぎゅっと握った私を見て、東さんは目を細めた。
「なるほど。それにしても……なんで共礼会は急に"やる気"になったんだ? 今まで大人しくしてたのに」
兄の言葉は尤もだ。
もしモグラへ復讐するなら、もっと早い段階でその判断に至っても良かっただろう。
例えば、羽村さんが無罪で釈放された直後、とか。
「今、向こうのナンバー2ってのが神室町に来てんだよ。関西の方からわざわざな」
「ナンバー2……?」
共礼会がどのぐらいの規模感の組織なのかはわからないけれど、関西から神室町へ進出してくるような組だ、決して小さくはないのだろう。
そんな組織の二番手がわざわざ出張ってくる。
なるほど事態は思っているよりも深刻なのかもしれない。
「共礼会の若頭で、塩屋聡。バリバリの武闘派でゆくゆくは古葉会長の跡目だ」
「じゃあゆうべの銃撃はそいつの指図?」
「ああ。しかも塩屋が本当に狙ったのは多分……羽村のカシラだ」
その言葉に、数分前の疑問がほどける。
なるほど。
理由はともあれ、羽村さんは自分が狙われているとわかったから隠れたのだろう。
「ん? なんでそんなことが……」
わかるんだ、ときっと兄は続けようとしたのだろう。
すると察したように東さんは、わかるんだなこれが、と言いながらスマホを取り出し、兄にだけ向ける。
「こいつはゆうべ殺された栗本の写真だがよ」
「うぅ……どぎついな」
兄は言いながら顔をしかめた。
彼がそう言うほどだ、きっと凄惨な遺体がそこには写っているのだろう。
好奇心からつい覗いてみたくなるけれど、せっかく東さんが気を遣ってくれたので、なんとか自分を抑え込む。
「両目を撃ち抜かれてる。ただ見せたいのは顔じゃねえ、服装の方だ」
「ん? この服がなんだって?」
「昨日はカシラもこんなジャージを着ててよ。栗本とは年も背格好も似ている。カシラも気付いたはずだぜ、本当は自分が狙われたってな」
「なるほど。それで慌てて雲隠れしたのか」
つまり共礼会の襲撃は、松金組を狙ったわけではなく羽村さん個人を狙って行われた。
わざわざ裁判のアリバイ証言を、人攫いをしてまで邪魔しようとしたくらいだ。
無罪になったことで自分たちの手で復讐しようとしたか……?
いや、それにしてはやはり時期がおかしい。
その理屈で行くと釈放直後に動いていても良いはずだ。
それに……共礼会の村瀬さんは確かに、犯人は羽村さんじゃなく別にいると納得してくれたはず。
彼がどれだけの力を持っているかはわからないけれど、進出先で人員を自由に動かせるぐらいの人だ。彼の意見が全く無視されるような組織なのだろうか?
なんだか釈然としない理屈に頭を悩ませていたら不意に兄が、ふっ、と小さく笑った。
「笑っちゃ悪いのかな?」
「お前、ずいぶん余裕だな?」
東さんにそう言われた兄は口元に緩く笑みを浮かべていた。
目は笑っていないけれど。
羽村さんにコケにされたことを気にしていたし、というかそれで今に至るわけだし、羽村さんが今危険な状況にいることは、兄にとってはざまあみろと思える出来事なのかもしれない。
「カシラを狙う共礼会にしたらよ、それを無罪にした連中も充分マトになる。そうじゃねえか?」
「あ……」
つい、私は兄の顔をまじまじと見た。
彼はと言うと、私に視線を返しながらまた鼻で笑う。
「じゃあ、俺も狙われるの?」
「いや、おまえより新谷ってやつの方が危ねえ。法廷で弁護してたのはあいつだろ?」
そう言われればそうだ。
兄はあくまで調査しただけ。
表面的には、兄が事件に関わっているという事実は現れていない。
しかし……新谷先生は違う。
法廷での弁護もそうだが、あの人は服部さんの取材を受けていた。
その記事がいつ世間に公表されるかはわからないけれど少なくとも、"羽村を助けたのは新谷という弁護士である"という情報は一般人でも知るところの情報となる。
同時に、源田さんが言っていた"最近は羽村さんと仲良くしている"という発言も気になる。
一緒に飲みに行ったりもしていたらしいし、その姿は必ずどこかで目撃されている。
共礼会が彼の元へ、そして羽村さんとの関係に辿り着くのは時間の問題だろう。
東さんの言葉に兄は後ろへ重心を移動させながら、ああ、と小さく頷いた。
「カタギが極道に狙われたらひとたまりもねえぞ。まあ俺が新谷の身内なら、ひとこと警告してやるとこだ」
そう言って東さんは眉をひそめる。
つまり、警告してやれ、と彼は言っているのだろう。
すると兄はすっと立ち上がりスタッフルームを出ていこうと歩き出した。
私は東さんに手を振りながら慌ててそれに続く。
「話してくれてありがと。またね、東さん。色々、気をつけてね」
「……おう。そっちもな」
軽く店員さんにも挨拶を済ませつつシャルルを出た私はふと、兄の顔を見上げた。
「ねえ。羽村さんが今、こっちに構ってる暇じゃないなら私、今日から家に帰れるんじゃない?」
思わずるんるんとしながらそう尋ねるも、兄は「ううん」と小さく唸る。
予想外の彼の反応に首を傾げると彼は、でもさあ、と口を開いた。
「共礼会に顔、割れてるだろ。香織。俺もだけど」
「――あ」
そうだった。
共礼会の狙いは羽村さん、そこから転じて新谷さん。
そして私も兄も共礼会に顔が割れていて。
更に言えば、新谷さんとの繋がりもある。
「やっぱまだ、一人で動かないほうがいいんじゃない?」
「うぅう。おうち帰りたいよお……」
思わず嘆いた瞬間、兄のスマホが鳴った。
今度は一体なんの電話だと身構えていたら、兄はしばらく電話で話していた後、眉をひそめて「クソ、あいつ……」と零す。
「今度はなに?」
思わず苛立ちを抑えないままそう尋ねると兄は苦笑いをしながらモグラとは別件とだけ言った。
「新谷先生に会う前に、行くとこができた。お前は先に源田事務所行っといてくれ」
多分また私の知らないところで勝手に何かに巻き込まれているのだろう。
もはや驚かなくなった私は腕を組んで兄の顔を覗き込む。
「わかった。一応、自衛のためにも何してるのかぐらい聞いておきたいんだけど?」
「ああ、ううんと。京浜同盟っていう半グレ集団に、まあ、絡まれてて。……知ってる?」
「知るわけないでしょ、半グレ集団の集団名なんて」
「だよね。……とにかくなんか、知り合いがそれに絡まれてるらしいから助けてからそっち合流するから。後でな」
そう言って兄は駆けて行ってしまった。
「……マジで帰りたい」
深い溜息を零しながら私は、昼食をどこで食べようかと迷っているらしいサラリーマンとすれ違いながら、とぼとぼと歩き出すのだった。