「昨晩20時頃、私が帰る時には間違いなく冷蔵庫の中にありました」
「僕はそのあと22時まで、ずっと事務所にいましたけど、誰も来ていません」
さおりさんと星野さんの状況説明を聞きながら、私はタブレットにワイヤレスキーボードを接続して、メールの文面を打ち込んでいた。
内容はクライアントへの進捗報告。
……ちょっとだけ現状の進捗より盛ったけど、大丈夫、間に合う。多分。
「星野君が犯人でないとすると……22時から今朝までの間に食べられた可能性もあるな。事務所の鍵は、間違いなく閉めた?」
「はい。間違いなく閉めました」
にしても、なにを真剣に犯人探しをしているんだろう。
いや――まあ、さおりさんにとっては重大事件なのかもしれないけれど。
「香織ちゃん、何してるの?」
「お仕事。長くなりそうだから」
「そんなタブレットだけで出来るんだ、便利な時代だね」
「本当にね。普通の会社員してたら今頃クビになってるところだったよ」
正面に座っていた真冬さんはなんだか楽しそうに私の手元を覗き込む。
すると星野さんが私の方をうるうるとした目で見てきた。
「香織さん……俺の心配より仕事ですか」
「そりゃあ、星野さんの感謝でご飯は食べられないからね」
「ご尤もです……」
しょんぼりしている彼を見ているとつい、兄につられて「星野君」と呼びたくなる。
けどこの人、私よりも年上なんだよなぁ……。
「事務所に誰かが侵入した形跡もないし、部外者の犯行って線はないはずよ」
そう言うさおりさんの言葉の端々には星野さんへ向けた『集中しろ』という圧が散りばめられていた。
普段は大人しくて静かな彼女しか見たことがなかったから、なんだか新鮮だ。
「……なるほど。ちなみに今朝、事務所にいたのは?」
「源田先生が、僕より先に来てました。ただ、僕が来てすぐに事務所を出ていって……そのあと真冬さんが来て、最後にさおりさんが来ました」
「その時に気付いたんです。私のケーキがなくなってることに!」
ふと、タブレットから顔を上げる。
今までの話を整理すると、20時までは確実にケーキはあった。
現時点での推定犯行時刻は20時からさおりさんが事務所に来て冷蔵庫を開けるまでの間。
つまるところ、容疑者は星野さんだけではない。
さおりさんが気がつくまでの間事務所には、星野さん、源田さん、真冬さんの三人がいたわけだ。
「だとすると……源田先生が一人の時、ケーキを食べた可能性はあるってことか」
「いえ。源田先生は筋金入りの和菓子好きです。普段は洋菓子なんて、全然食べません」
「……そういう問題なのか? まあ、動機が弱いってことかもしれないが」
確かに、源田さんがケーキを、それもわざわざ事務所の冷蔵庫にあるものに手を付ける姿はあまり想像できないかもしれない。
とはいえ憶測の域は出ない。
源田さんを容疑者から外すには情報が弱すぎる。
……って私は何を真剣に一緒になって考えてるんだろう。
仕事しよ、仕事。
「ねえ、星野君。もう素直に白状したほうがいいんじゃない?」
「ひどい、真冬さんまで! 僕はやってませんって!」
そんな様子を見たさおりさんは小さく、しかし重たく息を吐いて口を開いた。
「……星野君。罪を認めないのならば、重い処罰を受けて貰う必要がありますね」
するとそこで、ずっと濡れた子犬のように縮こまっていた星野さんが突然立ち上がり、「異議あり!」と大声で叫びながらさおりさんを指差す。
なんか、どっかで見たことあるな、これ。
だんだん面白くなってきて、私は星野さんの二の句を待つ。
「そういう真冬さんだって怪しいはずです!」
「え? ……てか、異議ありって。突然なに言ってんのよ……」
逆に疑いをかけられた真冬さんは呆れたように目を細めた。
さおりさんも、そんな星野さんを同じように諌めるかと思いきや、意外にも「どういうことか説明してくれる?」と切り返した。
なにやらどんどん転がっていく展開に、私はつい、続きが気になって手を止める。
「今朝、真冬さんが事務所に来た後、僕はトイレで15分ほど席を外しました。その間に真冬さんならケーキを食べることが出来たはずです」
それを聞きながら、私はふと兄の顔を見上げた。
……なんか、遠く見てる。
どうでも良くなってきてるな、お兄ちゃん。
「な、なんで私が……! そもそも、根拠も証拠もないでしょう?!」
「ところが根拠はあるんです」
「え?」
「僕はしっかりと聞きましたよ。朝、あなたが事務所に来た時……」
さっきまで防戦一方だった星野さんは、なんだか自慢げに続けた。
「お腹が"ぐう……"となる音をね!」
……仕事しよ。
私はそのまま手元のタブレットに視線を戻して、いつも使っているアプリを起動させた。
「え! き、聞こえてたの?!」
「ええ。朝食を抜いて腹が減っていたんじゃないですか?」
恥ずかしそうな真冬さんに星野さんは畳み掛けるけれど……正直、攻撃になってない気がする。
「だからあなたは冷蔵庫の中を探り、偶然にもそこでケーキを見つけてしまった……つい、魔が差した。そうなんでしょう?!」
「そそ、そんなわけないじゃない! だいたいお腹の音が証拠とかどうなのよ?!」
……あれ。真冬さん、なんかちょっと焦ってる?
悔しいかな私の意識は再びケーキ事件に引き戻された。
すると、なんだかずっと話を聞きながら遠くを見ていた兄に、星野さんが向き直る。
「八神さん、出番ですよ」
「出番?」
「僕の弁護をお願いします! このままだと僕……さおりさんに一生白い目で見られてしまいます!」
全力なその頼みに一体どうするのだろうと兄の様子を見ていたら彼は困惑しながらも頷いた。
「…………まあ、依頼ってことなら、ひと仕事してみてもいいけど……」
「お願いします!!」
小さく溜息を零した兄は、なんだか板についた様子で事務所の中を物色し始める。
その途中、彼は私の横に立って――。
「香織、手伝ってくれたりしない?」
「しない」
「……だよねぇ」
傍観者の立場を選んだ私に兄はまた溜息を零して、改めて一人で事務所内に証拠がないかを探し始めた。
その背中を見ながら、やっと仕事に集中できると私はタブレット付属のタッチペンを握る。
「おや? 氷が溶けているな。水を入れたばかりなのかな?」
事務所の証拠探しをしていた兄はまず、事務所の給湯室にある冷蔵庫のドアに手をかけた。
「いえ。寒いこの時期ですから、氷は使ってないと思いますよ。昨日から誰かが使っているところ、僕も見ていませんし」
「だとすると、なぜ溶けてしまっているのか。不自然だな……」
ううん、と真剣な声色で顎に手を当てて考え込むその横顔に、私は苦笑する。
律儀というか真面目というか。
最初は不安だったけれど、なんだかんだ、兄にはこの探偵という職業が合っているのかもしれない。
「ゴミ箱が空っぽみたいだな。普段なら、溜まりまくってるのに」
冷蔵庫の調査を終えた兄はそのまま、応接椅子の隣に置いてあったゴミ箱を覗き込んだ。
言われて視線を注ぐと、確かにゴミ箱はきれいに片付けられている。
……そういえば今日は燃えるゴミの日か。
「今朝、ゴミ出しの日だったんです。ゴミ出し当番が片付けたんでしょうね」
星野さんの言葉に兄が「今日のゴミ出し当番は?」と問いかける。
すると星野さんは「源田先生です」と返した。
「え? 源田先生にも、当番やらせてんの?」
尤もらしい兄の問いに私はつい仕事の手を止める。
確かに、風通しのいい職場ということなのかもしれないが、所長にまでゴミ出しをさせるのはどうかというのは、それはそうだ。
「まあ、ペナルティみたいなもんです。さおりさんの提案で……」
「源田先生、ゴミの分別とか適当過ぎるから、昨日ちょっと怒ったんです。"ごみを片付ける人の気持ちにもなってください!"って。そうしたら、今度のゴミ当番はやるからってそう言うもんだから」
星野さんの"ペナルティ"という単語をさおりさんが補足説明し、なるほどと私は納得する。
すると兄は、源田先生相手によくもまあ……と小さく零した。
兄からすれば第三の親代わりのような人が若い女性に顎で使われている様子は複雑な心境なのかもしれない。
「八神さん、他のゴミ箱も空っぽでしたよ。源田先生、ちゃんとゴミ当番してたようです」
「なるほど。星野くん、ありがとう」
動機の部分は兎も角として、源田さんになら証拠品の隠滅も可能だったという状況ではあるらしい。
「ケーキの包み紙、他の場所に捨てられてないですかね? 台所とか、よく洗ったままの容器がよく置きっぱなしになってますよ」
「じゃあ台所も探してみようか」
再び兄は給湯室へ戻り、今度は台所を調べ始めた。
しかし、良い大人が雁首揃えてなにやってるんだろう。
「ケーキの包み紙はなさそうだけど……これは、牛乳パックか。ご丁寧に洗ってあるみたいだな」
「それは、さおりさんの牛乳パックですよ。昨晩はなかったので、今朝の掃除当番の人が、片付けたんでしょうね。そういうのしっかりやらないと、さおりさんに叱られますから」
「3本分ある。……多いな」
その言葉にふと、私も台所へ目線を移す。
そこには確かに洗われた2L牛乳パックが3枚置かれていた。
……昨晩はなかった?
ということは、星野さんが退勤する22時から今朝までの間にあの数の牛乳パックが洗われたということだ。
「一気に飲み干したんだろうか?」
「いや、流石にそれはないでしょ」
思わず私は口を出してしまった。
すると、兄が振り向いて私の顔をじいと見る。
ちょっと後悔したけれど、そのまま続けた。
「それ、2Lパックでしょ。3本分で合計6L。いくらなんでも朝までの間に全部消費するのは難しくない? 仮に、源田さん、星野さん、真冬さん、さおりさんがそれぞれ牛乳を飲んでいたとしても、一人あたり1.5Lだよ?」
「そうですね。そもそも僕は飲んでないですし。なにか事情があって捨てたのかな?」
星野さんの言葉に私は頷いた。
「そうだね。考えられる理由としては例えば、買い置きしたはいいものの消費しきれずに賞味期限が切れていた、とか」
その時ふと。
最初に兄が見つけた、"溶けていた氷"のことを思い出す。
使われていないはずの氷が溶けていた理由……もしかして――。
と、なんだか真実に指先が触れたような気がしたけれど、そんな私を置いて、さおりさんは再び星野さんを事務所の真ん中に正座させる。
その正面にさおりさんが立ち、その両側、星野さんの机の方に真冬さん、向かい合うさおりさんの机の方に兄を配置して、「審理を始めますが」と問いかけた。
まるで本当の裁判さながらの様子を、私は相変わらず来客椅子に座って眺める。
気分は傍聴人だ。片手間だけど。
「ここで裁判おっぱじめる気かよ」
「もちろんです。真冬……いえ、藤井検事も、準備はよろしいですか?」
「いいわ。私もとばっちり受けてるわけだし付き合ってあげる」
しかし……子供の頃、父の影響で裁判ごっこをしたことはあるけれど、まさかこんな大人になって、しかも本当に裁判ができる面子で"裁判ごっこ"が繰り広げられるとは夢にも思っていなかった。
「では、被告人・星野一生の審理を開始します。検察側、藤井検事。冒頭陳述をお願いします」
そうして、随分真面目なトーンで。
この世で一番結果がどうでもいい裁判が開廷された。