その日の神室町はどこか忙しなかった。
人々はなんだか帰路を急ぐように歩みを進めていて、今夜もホテル泊であることに財布と現在請け負っている仕事の納期の心配をしていた私はふと、隣を歩く海藤さんの顔を見上げる。
彼もまた、いつもより少しよそよそしいその喧騒に疑問を抱いていたようで周囲を見渡して眉をひそめていた。
「なんか、あったのかな」
「……かもな」
シャルルで東さんとの一件があってから数日後。
未だ羽村さんへ向けた警戒が解けない日々に、いつしか海藤さんと殆ど一緒にいることが当たり前になりつつある。
自分のものではない空間で寝泊まりする生活は最初こそ特別感があってワクワクもしたものだけれど、今となっては家のベッドが恋しい。
私は一体いつ自宅へ帰ることが出来るのだろう。
「そろそろ神室町のビジホ制覇しちまいそうだな」
「うん……っていうか、連日のホテル泊で財布がピンチ……。お兄ちゃんの事務所にビニールシートと布団敷いて寝ようかなぁ」
「なんか、事件性凄いなその光景」
「ええ? でも事務所に直接布団敷くのは汚いし。はあぁ、おうち帰りたい……」
そう言いながら海藤さんとビジネスホテルのロビーへと足を進めようとした私の手首を、誰かが力強く掴んだ。
驚いて振り向くと、サングラス越しに、つい最近再会したばかりの彼と目が合う。
「――っな、に……してん、ですか。海藤の兄貴」
肩で息をした彼――東さんは言葉を選ぶようにしながら私を見て、次いで海藤さんの顔を見た。
「よお、東。こないだぶりだな」
「"よお"じゃないですよ。一体、こんなとこで何してんですか」
そう言われて海藤さんは不思議そうに首を傾げる。
勿論、私も。
だがその数秒後、海藤さんは背後にあるビジネスホテルの看板を見上げ、視線を彼に戻し、にやりと笑った。
そんな海藤さんに東さんは私の手を掴んだまま、眉間にシワを寄せる。
「東よお、お前もしかして、俺と香織ちゃんが二人でホテルに……とか想像したのか?」
すると東さんはぴくりと眉を動かした。
瞬間、悟る。
そして思い出す。
今のこの、海藤さんと連日ビジネスホテルをハシゴする状況は決して普通ではないということを。
「ち、違う! 違うよ?! いや、入ろうとしたのは事実なんだけど、そうじゃなくて……っ! いやこの言い方なんかもっと怪しいね?! だからええと、その」
慌てて説明をしたけれど、私が口を開けば開くほど東さんの表情は険しくなっていって、ついに私はもごもごと口籠ってしまった。
どうしよう。
言い訳すればするほど疑わしくなる。
脳裏でぐるぐると浮かんでは消えていく言葉をどう口に出したものかと悩んでいたら、海藤さんがくつくつと笑った。
「香織ちゃん、言い訳下手くそだな」
「わ、笑ってないで海藤さんも説明してよ?!」
私の手首を掴む彼の指先に力が入っていく。
それに比例するようにして私の焦りが加速した。
一方、そんな私の様子をなんだか楽しそうに見ながら、海藤さんは東さんへここまでの経緯を淡々と説明し始める。
「――つまり、家に帰すのは危ない。かといって一人も危険。だからビジホで隣室を取って寝泊まりしてる……ってこと、ですね?」
「ああ。そういうことだ。お前が心配してるようなことは何も起こってねえ。そもそもこうなってんのは、お前んとこのカシラのせいだぜ」
海藤さんの言葉に東さんは私をじっと見た。
「本当だよ。本当になんにもない。だってほら、もし海藤さんが部屋に勝手に入ってきても良いようにハサミ常備してるもん」
「……マジで用意してたのかよ」
懐から大ぶりのハサミを取り出して見せつけると、海藤さんは声を震わせながらハサミを眺める。
しばし、東さんは私と海藤さんの顔を交互に見ていたけど――やがて片手で顔を覆いながら深く溜息を零した。
「マッッッジで……勘弁してくださいよ兄貴……」
「はは、紛らわしいことして悪かったよ」
豪快に笑う海藤さんの顔を呆れたように見た彼は、そうっと私の手首を離す。
離れていく温度に、少しだけ指先がひやりとした。
「疑って悪かった」
「ううん。私も、色々ごめん。……追いかけてきてくれて、ありがと」
そう言うと東さんはほんの少しだけ目を細める。
かと思えば、ずっと乱れっぱなしだった息を慌てて整えるように、もう一度深く息を吐いた。
「――ところで東、いま組はどんな感じだ?」
不意に。
海藤さんがそう尋ねると、東さんは再び顔を歪める。
「……うちの組の栗本が殺されました」
「なに?」
「犯人は共礼会がよこした鉄砲玉です。流れ弾がカタギにも当たってて、組ん中大騒ぎですよ」
そう言いつつ彼は一瞬私の顔を見た。
少し、彼は何かを迷っていたようだけれど、やがておずおずと口を開く。
「栗本はまず身体に四発。とどめに両目を撃ち抜かれていました」
「――、それってもしかして」
私はつい、口を挟んでしまった。
共礼会から松金組へ向けた鉄砲玉。
そして、撃ち抜かれた両目。
だってそれはどう考えたって……。
「ああ。共礼会からの報復だ」
報復という言葉に背筋がひやりと寒くなる。
そんなの、殆ど抗争開始の合図と変わらない。
「他の組からの報復で組員が殺されたとあれば、組どころか本家も黙ってねえ。……今の神室町は危険なんてもんじゃない」
街がどこか忙しないのはきっとそれが原因だ。
水面下の睨み合いが、蓋を開けられたびっくり箱のように飛び出し、明確に表面化したから。
おまけに流れ弾で一般人にも被害が出ている……つまりそれだけ、共礼会にも余裕がない。恐らく、それを受けた松金組もそうだろう。
この街にいる以上それらはどれも他人事ではない。
もう、雲の上の話ではないのだ。
「なるほどな。東、お前はどうだ? 正直、今のお前の立場としては安全ではねえだろ」
「まあ、そうですね。でもその一件で今、八神については大分手薄になってます。油断はしない方がいいですけどね。でも、前より多少動きやすくはなりましたよ」
「――そうか」
東さんの言葉に海藤さんは少し考え込み――じゃあ、と口を開いた。
「東。今日はお前が香織ちゃんと一緒にいてやれよ」
「……ふあえッ?!」
思わず大声を上げてしまうと、海藤さんはにやっと笑う。
東さんはというと私の隣でぽかんと口を開けていた。
「灯台下暗しってな。案外、俺と一緒にいるより安全かもしれないだろ?」
「えっ、ちょ、海藤さん……!」
「香織ちゃん、なんかあったら連絡しろよー」
そう言いながら海藤さんはひらりと手を振って歩き出してしまう。
残された私と東さんは顔を見合わせ、しばらくその場に立ち尽くした。
◆ ◇ ◆ ◇
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
濡れた髪を梳かしながら私は深く、本当に深く息を吐いた。
海藤さんを見送ったあの後。
私は結局、東さんと共に目の前にあったビジネスホテルのロビーに足を踏み入れた。
今まで海藤さんと入っていたホテルはシングルルームに空きがあったのに、何故か今日に限ってシングルは満室。
ツインルームしか空いていなかった。
別のホテルを探すという選択肢も、勿論あった。
だけど、どちらともなく、それをしなかったのは――。
(……期待、してるの? 私)
鏡越しに自分を見る。
その瞳はなんだか、困惑と羞恥と、ぐちゃぐちゃとした感情で艶めいていて、私はすぐに鏡から目を逸らした。
だって、再会したばかりだ。
そもそも私達は恋人同士でもない。
一体何を期待しているのか。
自分に呆れながら部屋のクローゼットに入っていたパジャマに着替え、私はシャワールームを出た。
「……シャワー、空いたよ?」
「お、おう」
部屋の手前側のベッドに、入ってきたときと同じ体勢のまま座っていた東さんの背中に声を掛ける。
すると彼はびくりと肩を揺らし、振り返らないまま小さく頷いた。
「あ、いや。俺はいい」
「そう? ……わかった」
私は彼と向かい合うようにして奥側のベッドに腰を下ろす。
ぎし、と勢いよくスプリングが軋んで。
つい――静かに座り直した。
そうして訪れた沈黙に、私は視線を泳がせる。
決して広くはないツインルーム。
同じ形のベッド。
申し訳程度に備え付けられた化粧台と小さなテレビ。
ほんの数センチで触れてしまいそうな互いの膝。
向かい合って座る私達は目線を合わせられず、一緒になって俯いた。
それが、なんだかちょっと可笑しくて。
「……っふ、あははっ。ちょっと緊張しすぎだね。私達」
思わず笑いを零してしまうと、ようやく彼と目があった。
彼は一瞬、私が笑ったことに目を丸くしていたけれど、やがて「そうだな」と言いながら困ったように小さく笑った。
「本当にいいの? シャワー入らなくて」
「ああ。どちらにせよ寝る気はないしな」
「え? 大丈夫……?」
「一日ぐらい平気だ。――どうせ、寝たくても眠れねえだろうし」
彼はぷいとそっぽを向きながら内ポケットから煙草を取り出す。
「東さん。この部屋、禁煙」
「げっ、マジかよ。……はあ」
律儀に煙草をしまう様子につい笑っていると、彼は私の髪を指さした。
「髪まだ濡れてるぞ。乾かさないのか」
「うーん、そうなんだけど。このホテル、ドライヤーついてなくて。ロビーまで借りに行くのも、なんか面倒臭いなって」
「さっさと乾かして寝たほうがいいんじゃねえか。疲れてるだろ」
「ふふ、まあね。でも……乾くまで、東さんとお話してたいな」
身を乗り出して、彼の顔を覗き込む。
すると東さんは数秒言葉に詰まり、咳払いをした。
「お前なぁ」
「ん。なに?」
「なんでもねえよ」
この温度が心地よい。
でも、こそばゆい。
胸がじりじりしてなんだか落ち着いていられない、この感じ。
一年ぶりの感触だ。
「……ね、東さん。痛い思いとか、苦しい思い、してない?」
「あ? なんだよ急に」
「なんか、気になって」
羽村さんは端的に言って善人ではない。
手加減をする人でもない。
そんな人の部下として松金組にいる彼はきっと、私なんかよりも常に危険と隣合わせだろう。
「バカだな。痛いだの苦しいだの、そんなん当たり前だろ。どこの世界に痛みのねえ極道があんだよ」
「それは……そう、だけど」
すると彼はくつくつと喉の奥で笑った。
「俺ぁ俺のやり方で、精一杯足掻くって決めたんだ。痛かろうか苦しかろうが、それは曲げねえ」
「……そっか」
無理はしないでね、と告げると彼は小さく頷く。
そうしてまた静寂が訪れて。
だけど、なんだかそれがまた心地よくて。
「ね、そっち行って良い?」
「は?」
「隣座って良い?」
「……ダメだ、来んな」
「えー。なんで?」
「なんでもだ」
「なんでダメなのー?」
「お前、わかってて言ってんだろ」
こちらをぎろりと睨みつける彼。
つい楽しくなってその視線に笑い返すと東さんは居心地悪そうにその場でソワソワとした後、舌打ちをした。
「こっち来たら、もう我慢しねえぞ」
「――、」
食事をして、私を家まで送って、頬に触れようとして、引っ込める。
一年前の彼の姿が瞼の裏に浮かんだ。
当時の彼が引いてくれた一線。
当時の私が踏み越えられなかった境界。
今なら……越えられるだろうか。
――否。
私は小さく首を振った。
それはきっと、今じゃない。
まだ、浮かれるには早い。
だって何も終わっていないから。
この一歩を踏み出したところで……私にも、彼にも、弱点が増えるだけだ。
「じゃあ、まだ我慢しといて?」
「……クソッ、調子狂う」
苛立たしげに吐き捨てた彼の耳は確かに、赤くなっていて。
「そろそろ寝よっかな」
「――おう、さっさと寝ろ」
気がつけばすっかり乾いてしまった髪を撫でながら私はベッドへ横になった。
彼の息遣いが、耳朶を撫でる。
愛おしい人と夜を越すことがなんだか嬉しくて。
その日の私はなかなか寝付けなかった。