肩で息をする。
羽村さんの事件に巻き込まれてから幾度も身を投じてきた戦いは、どれもすぐ背後に命の危険を孕んでいた。
しかし今終えたばかりの戦いはすぐ目の前に危機が仁王立ちしていて、事件に巻き込まれるまで行ってきた"正当防衛"は「子供の小競り合い」に過ぎなかったのだと私に痛感させる。
痛くて、しんどくて、苦しい。
なのに――戦いを終えた私の口許には、何故か笑みが浮かんでいた。
見栄も、建前も、何もかもを取っ払って、素っ裸で本音をぶつけ合う、この感じ。
少し男臭いけれど――古より美談として昇華されてきた「殴り合いで生まれる熱い友情」は、なるほど確かに、存在しうるのかもしれないと呼吸を整えながら考えた。
私はそんなにも満身創痍なのに。
兄と海藤さんはほんの少し乱れた呼吸を整えた程度でいるのがまた、頼もしくて、ちょっとだけ憎らしい。
「俺は、殺ってねえんだ……」
「ん?」
不意に。
シャルルの床に大の字で倒れていた東さんが体を起こしながら零した。
少し、戦いの余韻に酔っていた私は反応が遅れる。
次いで――彼が身の潔白を自白したことに、胸中にずっと燻っていた黒いモヤが静かに薄れゆく気がした。
「赤鼻を殺したのは……俺じゃねえ」
彼は繰り返す。
それが真実を補強するようで、つい体の力が抜けてしまい、私は近くにあった椅子に慌てて腰掛けた。
「じゃあ、誰が殺った?」
海藤さんの問いに、兄が続く。
「赤鼻が松金組の金を奪った時、組ん中に誰か手引きした内通者がいたはずだ。そいつは赤鼻にいろんな情報を与えてた。事務所が手薄な時間帯。金庫のある場所はもちろん、その中に確実に金がある日時……でなきゃヤクザの金を奪うなんてまず不可能だ」
兄の言葉を私は黙って聞いた。
内通者の存在までは辿り着けなかったけれど、私が感じた「ただのホームレスにそんなことが可能なのか」という違和感は間違いではなかったらしい。
「その内通者が赤鼻を殺したんじゃないのか? 真相の口封じをするために」
「そうかもな……」
東さんの随分煮え切らない返事に、海藤さんは眉をひそめる。
「誰なんだ、そいつは? そこまでしてなんで組のカネを……?」
「カネは、二の次だったんです」
「あ?」
お金は二の次。
つまり、それが目的じゃなかったということなのだろう。
それでは内通者の目的は何だったのか。
この、一億の拳銃強盗の事件で、一番得をしたのは誰だったのか。
考えられるのは――。
「海藤の兄貴を潰すことが、内通者の本当の狙いでした。だから、わざわざ兄貴が当番の日に金庫を……」
「俺を潰すため? じゃあまさか、その内通者ってのは」
脳裏によぎる、凶暴な笑顔。
一般人の私にさえ――「指を切り落とす」と脅しをかける、躊躇のなさ。
心の何処かで私は、やっぱり、と思っていた。
「……羽村のカシラか」
兄の言葉に、東さんは少しだけ振り向いて続ける。
「カシラにとって、兄貴は組ん中でただひとりの脅威だった。兄貴さえいなくなりゃ松金組を完全に掌握できる……あの人はそう踏んだ」
「――たしかにな。実際、今そうなってる」
淡々と返す兄から彼は目線をそらした。
「カシラに逆らえるモンはもう……ただのひとりもいねえ。あの人にはそれだけの稼ぎがあって、力がある。カシラあっての松金組だ」
どこか諦めを感じるその声色に、私の口からひとつ、呼吸が漏れる。
そんな、独裁国家のような狭い世界で彼は必死に生き抜いてきたのだ。
呼吸を繰り返す彼の背中が、ひどく、小さく見えた。
とはいえ……海藤さんを助けるためになんでもする覚悟だったとまで言い切った彼が、その真相を知りながら羽村さんの言いなりになっているのは引っかかる。
勿論、彼一人でどうこうできるとまでは思わないけれど、もう少し、羽村さんに対して思うところがあっても良さそうな気はするけれど。
「赤鼻が死んだとき何があった? お前は全部知ってるんだろ? 東」
少しだけ置いてから東さんは口を開いた。
「一億が奪われて、兄貴が破門になった次の日だ。俺はサツから情報を買って、その夜にはもう赤鼻の名前と顔を手に入れてた。そいつで街中聞き込んで……行き着いたのは神室町の下水道だった。ただ、そこにいたのは――赤鼻だけじゃなかった」
「……羽村のカシラもそこに?」
兄の言葉に、彼は「ああ」と頷く。
「カシラは赤鼻から9000万を回収して高跳びさせようとしてたんだ。つまり、赤鼻の報酬は1000万。それで円満におさらばのはずだった」
そうして彼は語りだした。
一年前の、真実を。
◆ ◇ ◆ ◇
一年前。
海藤さんの破門を取り消したい一心で東さんは「赤鼻」の存在を追いかけ、下水道に辿り着いた。
そこにいたのは、高跳び寸前の赤鼻と、二人のスーツの男。
物陰から様子を窺っていたけれど、うっかり彼の存在は、三人に気付かれてしまう。
そうして振り向いたスーツの男二人が、羽村さんとその側近の組員であることに気がついた彼はそのまま姿を表して、そのホームレスが拳銃強盗の犯人だと訴えたらしい。
勿論、そんなことは羽村さんもその側近もわかっていた。
だって、「赤鼻」を事務所に強盗としてけしかけたのは彼らなのだから。
本来、赤鼻はそのまま大金を得て逃げる手筈だったけれど。
東さんが介入したことで――計画が狂った。
特に、当時の東さんはどちらかといえば海藤さん側の人間だ。
だから羽村さんは、この事実を知ってしまった東さんに対処するしかなくなった。
赤鼻の腹部を撃ち抜いた羽村さんは、そのまま東さんに銃を向けたのだという。
きっと、羽村さんは本気で殺すつもりだったのだろう。
彼の話では、銃を突きつける羽村さんに殺さないでと命乞いまでしたらしいから。
だが、海藤さんを助けるために奔走していた東さんが殺された――そんな状況になれば羽村さんに疑いの目が向き、すべてが白日のもとに晒されてしまう可能性もある。
そう判断した側近の助言により羽村さんは東さんに「死にたくなければ忠誠を誓え」と提案した。
そして――東さんに銃を握らせ、まだ息のあった赤鼻に向けさせた。
『お前がここに来なければこいつは死なずに済んだ。それどころか、1000万手にしてたんだよ。かわいそうになぁ……お前がこいつを殺したんだ』
そんな呪いを、かけながら。
――三発分。
彼は引き金を引かされた。
震え、たじろぐ東さんに、彼はこう言ったらしい。
「これでお前も本物のヤクザになったな」と。
「……、」
言葉が出なかった。
感情も、呼吸も、喉につっかえてしまう。
だけど――振り絞って、私は口を開いた。
「東、さん……もしかして、一年前、私に電話をしたのって」
「……ああ。その直後だ」
彼はこちらを見ないまま小さく息を吐く。
一年前、スピーカーから聞こえてきた、コンマ数秒の小さな嗚咽。
背後で反響する水音。
電話の向こうの彼はそんな状況でありながら……一等先に、私に連絡をした。
私を、危機から遠ざけるために。
すると黙って話を聞いていた兄が口を開く。
「それは……お前が殺ったわけじゃない」
「ああ。だが俺は、その前には街中歩いて赤鼻の居場所を聞きこんでた。そして、やつを撃った銃には俺の指紋……端からみりゃ言い訳できねえ状況が揃ってる」
話を聞く限り、銃には羽村さんの指紋も残っているはずだけれど――少なくとも、計画がうまくいって松金組のトップに立たれてしまえば、そこに疑問を抱く人間はいてもわざわざ呈す人間は居ない。
なんというか本当に、羽村さんはつくづく敵に回したくない人間だ。
そんな羽村さんが庇っているモグラの存在が、とても強大で敵いそうもない相手のように思える。
「俺の顔……"悪くなった"って言ってたよな? 実際、俺もそう思ってた」
小さく、吐き捨てるように、彼は言った。
一年間も彼は、こんなに重たくて大きな荷物を、一人で背負い続けていたんだ。
「なあ、今の話を親っさんに言ったら、カシラを押さえられたりは?」
兄の問いに海藤さんは「無駄だ」と返す。
「組長にはもうカシラを止める力はねえ。事情伝えたところで、あの人を困らせるだけだ」
松金組組長との初対面は、たまたま兄と事務所の前を通りかかった時だった。
兄とは違って私とはなんの因果もない。
なのにあの人は――『ター坊の妹なら、俺の娘も同然だ』そう言って、困ったことがあれば頼って良いとまで打診してくれた。
そんな人だからきっと、兄と羽村さんが対立している今の状況に頭を抱えているに違いない。
ただでさえ組織内でも複雑な立場なのにこれ以上心労を増やすのは避けたいところだ。
「東もそれがわかってたから、ずっと一人で呑み込んでた」
「そうか……そういうことなんだな」
そう言い、東さんの背中を見つめた兄の口調は、なんだか随分すっきりとしている。
かと思えば自分は先に帰ると続けながら歩き出した。
「ん?」
「積もる話があんだろ? あんたらには。……邪魔しちゃ悪いもんな」
ひらりと手を振って、去っていく兄の背中を追いかけようとして――思い立って、こちらに背を向けて座り込んだままの東さんに近づく。
彼は私が突然近付いてきたことに驚いたのか、こちらを見上げて不思議そうな表情を浮かべた。
そんな彼の前に私は膝をついて。
ぎゅっと。
――彼の頭を、抱きしめた。
「う、お……?」
彼の口から困惑と驚きと、いろんなものが混ざった感情が溢れて。
反射で持ち上がったらしい両手は所在なさげに宙を漂う。
なんだか、一年前より随分近くに感じる彼の体温と、ほろ苦い煙草の匂いに目頭が熱くなって。
「じゃ、ね」
泣きそうなのを隠すように慌てて離れた私は、東さんと海藤さんに手を振りながら、兄を追いかけて駆け出した。