視界の端で、ぱちぱちと火花が散った。
海藤さんと共に訪れた児童公園には、炊き出しの様子なんて微塵もない。
ただ、一人立っている兄と、這いつくばる複数のホームレス。
神室町らしさが滲むその場所を彩るように、家なき人々が普段暖を取っている、ドラム缶の火がそこにあるだけだった。
「ただ……その頃、東城会のヤクザがひとり、あいつを探し回ってた」
「そのヤクザが赤鼻を殺したのか?」
途切れ途切れに会話が聞こえ――近づく度にそれは鮮明に鼓膜を揺らす。
「わからねえ。俺らがヤクザ相手に嗅ぎまわれるわけねえだろ? だからあんたからならなにか聞けるかと思ってよ。それで、さっきは……」
「あいにくだったな。そいつは下手なヤクザよりタチが悪りぃんだ」
海藤さんの言葉に、ホームレスの男性の視線がこちらへ向けられた。
こちらに背を向けていた兄の隣に海藤さんが並び、私はそんな二人の一歩後ろで足を止める。
「ガキん頃から喧嘩の場数だけは踏んでてよ。それも"神室町流"でだ」
「遅かったな、海藤さん。香織も」
兄が軽く振り向いて私の顔を見た。
確かに、兄と連絡が取れて公園へ向かって歩き出したのは夕方だったのに、今はすっかり日が沈んでいる。
何をしていたのかと言われれば――不意にたこ焼き屋の前で足を止めた海藤さんと一緒に小腹を満たしていた、としか。
とはいえほとんど不眠不休の兄にそれを言うのは申し訳なくて、私はそっと顔をそらした。
「一年前に赤鼻を探し回ってたってヤクザ……こいつか?」
「ああ! ……こいつだ。間違いないよ」
海藤さんが差し出したのは一年前の東さんの写真。
色のない眼鏡をかけ、なんだか少しぎこちなかった頃の彼だ。
「一年前、東は強盗犯だった赤鼻から一億を回収して組に戻している。その頃、下水道には赤鼻の射殺体があがっていた」
「――……しゃ、さつ」
兄が淡々と説明する横で息を呑んだ。
到底、今までの人生で縁がなかった響きなのに、なんだか今はひどく身近に感じてしまって、私はつい喉を震わせる。
「となると、犯人は誰だと思う?」
状況だけで言えば一番疑わしいのは、東さんだ。
だけど、でも――本当に?
「俺には……どうしてもあの東が人を殺せたとは思えねえ。銃だって下っ端のあいつがどっから調達した?」
私の内心を代弁するような海藤さんの言葉にほんの少し安堵する。
しかしそれをホームレスの男性は「銃ぐらいどうにでもなる。ここは神室町なんだぞ」と一蹴した。
そうしてまた、私の胸のあたりにはぐじゅぐじゅとした黒いモヤのようなものが燻る。
「東に話を聞きに行く。あんたも行くだろ? 海藤さん」
兄はそう言って海藤さんの顔を見た。
海藤さんは、考え込むようにして口を結んでいる。
「あんたは東に何があったか知りたかったんだよな?」
「ああ……わかってる」
東さんの写真が映るスマホをずっと握りしめていた海藤さんは、それをポケットに仕舞いながらゆっくりと腰を上げた。
と同時に、二人は私の顔を見る。
「――お前は、どうしたい? 香織」
兄からの問いに私はぎゅっと拳を握った。
「もしかしたら見たくないもんを見なきゃいけないかもしれない。それが嫌なら、待ってても良い」
一瞬、迷う。
優しい"はず"の彼の幻想をずっと追いかけ続けるのか。
たとえ彼の手が血に濡れていることを飲み込まなければいけないとしても、真実を求めるのか。
――否。
答えなんて決まっている。
「行くよ。今更、仲間はずれになんてしないで」
「最悪、殺し合いになるかもしれないぞ」
「……うん」
頷いてみせると兄は表情を変えないまま続けた。
「東はシャルルにいるはずだ」
そうして歩き出した二人の後を追う。
心臓が泣き叫んでいる。
奥へ踏み込むことを拒絶するように。
だけど――向き合わなければ。
たとえどんな真実が、下水の底に沈んでいたとしても。
◆ ◇ ◆ ◇
煩雑に、感情をぶつけるように、兄と海藤さんは『シャルル』の入口を開けながら室内へ踏み込んだ。
もう既に二人の手は離れているはずのドアは反動で、まだ大きく口を開いている。
私はそこに体を滑り込ませるようにして後に続いた。
「――東さん! 八神が……妹と、海藤も一緒です!」
『シャルル』には、松金組組員が複数名と、先日も会ったばかりの店員がいた。
店員は兄の顔を見るやいなや慌てたようにカウンター裏の扉を開けて中に状況を伝え――間髪入れず、呼ばれた彼は扉の奥から姿を表す。
「どういうつもりですか、海藤さん」
鼻で笑いながら彼はそう言って、私達に対峙した。
「抜き打ちで押しかけてきたのはそっちが先だろ」
「何のようだっつってんだよ」
海藤さんの言葉に、東さんが語気を荒げる。
かつて海藤さんから彼を紹介されたとき、並び立っていた二人の姿が不意に脳裏によぎった。
「東、お前……赤鼻を殺したか?」
兄のその直球な問いについ、生唾を飲む。
彼にとっては突拍子もなかったらしいその問いに東さんは「あ?」と小さく零した。
「一年前、松金組に押し入った拳銃強盗だよ。そいつから一億回収したのはお前だったよな?」
すると彼はほんの少しだけ目線を逸らす。
瞬間、コンマ数秒だけ、彼と視線が混じった。
「でもちょうどその頃、赤鼻の死体を見たって人間がいる」
それに、兄が気付いたかはわからない。
だけど確かに東さんは、「死体を見た」というワードに、拳を握りしめた。
「撃ち殺されて下水に沈んでた」
重たい、沈黙。
ほんの数秒程度のものだったのに、膝を折ってしまいそうなほどにそれは重たくて。
まともに呼吸も出来ずにいたら――不意に。
東さんが拳銃を取り出し、兄に向けた。
その行動には周囲でさえ驚いたようで、シャルルの店員は困惑したような声で「東さん……?」と彼の名を呼ぶ。
「黙れよ、人聞きの悪りぃ……」
「本当にお前が赤鼻を殺したのか?」
兄が冷静に問う。
すると、抑えていた感情を爆発させるようにして――、
「どうなんだ、東ぃ!!」
海藤さんが声を荒げた。
銃口が、海藤さんに向けられる。
そうであってほしくない。
彼の手には血がこびり付いていないと信じたい。
海藤さんの荒々しい語気には、きっと私と同じ感情が乗っている。
「あんとき俺は……兄貴を助けたかったんですよ。カネさえ取り返せば破門も取り消せるって……そのためなら、なんだってやる覚悟でした」
睨み合いが続く。
背中越しだから顔は見えないけれど、海藤さんの肩には少しずつ力がこもっていって、彼がどんな顔をしているのか想像には難くなかった。
つられてか兄も語気を荒げる。
「なのに……今は"海藤の兄貴"に銃向けんのか!」
「うるっせえ!!」
それらを振り払うように、東さんはこちらを睨みつけた。
「――俺とター坊を"殺す覚悟"ができたってことか?」
海藤さんのその言葉に、彼は何も言わない。
不意に、彼の目が私を捉えた。
「俺らを殺したあとは、香織ちゃんも殺すのかよ」
指先が冷たい。
膝がびりびりする。
"危険"なんて言葉じゃ物足りない。
それほどの複雑な感情が、この場には渦巻いていた。
トリガーに添えられた東さんの指が震えて、力が込められていく。
それを、彼が本当に、引ききってしまったら――もう覚悟を決めるしかない。
氷のような指先を温めるためきつく拳を握りしめた、その時だった。
背後から小さく、扉が開くような音がする。
そうして姿を表したのはつい今しがた、児童公園で会ったばかりのホームレスの人たちだった。
「あんたの銃……俺ら全員の口ふさぐには弾が足りんな」
彼らの会話を途切れ途切れにしか聞けていなかったせいで、ホームレスの人たちと殺された「赤鼻」との関係性はわからない。
だけど――銃を構えるヤクザの前に堂々と並び立てるほどの強い絆があることだけはわかって、こんな場面だと言うのに、なんだかほんの少しだけ胸のあたりが暖かくなった。
「なに?!」
突然の襲来に東さんは明らかに動揺を見せ――瞬間、兄が彼に駆け寄って拳銃を奪い、装填されていた全弾を天井へ撃ち切った。
生まれて初めて聴く、生の銃声。
それもこんな近くで。
兄が躊躇なく全弾撃ち切るその間に、情けないことに私の身体は数回震えた。
「てめえ八神!」
半ばヤケクソのような勢いで東さんは兄に殴りかかる。
そんな兄に冷静にカウンターを決められ、仲間達のところへ吹き飛ばされた東さんは「なにやってんだ、行けお前ら!」と、組員と店員をけしかけた。
「じいさん達、外出てろ!」
海藤さんはホームレスたちにそう叫ぶ。
それに従って彼らは少し慌てつつ店を出ていった。
続けて海藤さんは、私を見る。
恐らく、言おうとしたのだと思う。
私にも外に出ていろと。
だけど……。
「香織ちゃん、無理はすんなよ!」
「――うん」
ここまで、ずっと兄と海藤さんの背中を見ているだけだった私は、ようやく二人に並び立つ。
「やっと俺の出番だな、ター坊!」
「ああ! 給料分は頼むよ」
「おっしゃああ!!」
なんだか楽しそうに、二人が私を挟んでそう応酬した。
本当に。
頼もしい人たちだ。
気合か、覚悟か、興奮か。
海藤さんの声を聞きながら握りしめた拳にはすっかり、熱さが灯っていた。