身体が痛い。
頭も痛い。
思えばついこの間、頭部の怪我を縫ったばかりだと言うのに、どうして私は連日喧嘩に明け暮れているのだろう。
口の端から流れた血を手の甲で拭った私は、肩で息をしながら東さんの足元に転がっている松金組組員たちを見下ろした。
瞬間、事務所に兄が顔を出す。
「よぉ、ター坊」
そう挨拶をされた兄もまた、どこかで戦闘を終えてきたのか口元や頬に傷を増やしていた。
「へっ、八神か。久しぶりだな」
ただ一人、戦闘には参加せず事の次第を見守っていた東さんは、兄に振り向く。
すると兄は少し困惑した様子で口を開いた。
「お前……東か?」
私と同じく兄もまた、彼との邂逅は一年ぶりのはずだ。
兄は東さんの顔をじっと見たあと不意に私の顔を見た。
その視線に、私はそっと背筋を正す。
「カシラの命令で来たんだと。お前を探し回ってる」
「ああ。あの人は相当"モグラ"に触られたくないらしい」
「なら――手ぇ引くのか?」
海藤さんはにんまりと口角を上げた。
つられて、兄もほんの少しだけ、楽しそうな顔をする。
「うちをコケにしたカシラが怒ってんだよ? ますます手を引く気なんてないね」
「カタギの出る幕じゃねんだよ、馬鹿が。おかげで俺らまで面倒に駆り出されちまった」
吐き捨てるように言った東さんは足元の組員たちを見渡した。
「いいじゃねえか。カシラに尻尾振んのが今のお前の仕事だろ? ……香織ちゃんまで差し出そうとしやがって」
海藤さんのその言葉に彼はほんの少しだけ、ぴくりと肩を震わせる。
が、すぐに調子を取り戻し、眉間に皺を寄せて海藤さんを睨んだ。
「カシラは芸さえすりゃたっぷり餌をくれるんでね。あんたと違って尽くし甲斐があるんですよ。海藤の兄貴」
「俺はもう……お前の兄貴じゃねえ」
「そうでしたね」
ふと、彼と目が合う。
だけどそれはほんの一瞬で――感情までは読み取れなかった。
「手下連れて帰れや、東」
「ええ。今日んところはそうします。やっぱ、あんたに手ぇ出すときは……こっちも"殺す覚悟"でいねえと」
「なら、次が楽しみだな」
海藤さんの言葉に何も返さず、東さんは組員達に出ていくよう指示をした。
ふらふらと出ていく彼らの背中を見ながら彼は「前にも言いませんでしたっけね」と口を開く。
「疫病神を略して『ヤガミ』です。すぐに手ぇ切った方がいいですよ」
そう吐き捨て、彼は扉へと歩き出した。
「――東よ。少し見ないうちに"悪い顔"んなったな?」
途中、兄がかけた言葉に彼は少し歩みを止める。
数秒の沈黙。
東さんはそのまま扉に手をかけ、「うるせぇよ」と零しながら事務所を出ていった。
一旦終わった。
そう思うと同時に膝から力が抜けて、私はすっかり散らかってしまった事務所の床に座り込む。
「もおお……疲れたぁ……」
思わずそう零すと、兄が近付いてきて私を見下ろした。
「あーあ。顔に傷作って。ちゃんと手当しとけよ」
「お兄ちゃんこそ。私より重症そうじゃん」
そんな言葉をかわしていたら、何かを考え込んでいたらしい海藤さんが兄に「東を尾けてきてくれねえか?」と切り出す。
まさかの申し出に私は驚きながら海藤さんの顔を見上げた。
兄もまた、予想だにしてなかった依頼に「え?」と声を上げる。
「俺が組抜けてからあいつに何があったか、今どうなってるか知りてえ」
海藤さんは兄の顔をじっと見たまま続けた。
「さっきあいつがここに来た時、俺は一瞬誰かわからなかった。お前の言う通り、悪い顔になってた。――香織ちゃんだって、今のままじゃ終われねえだろ」
言われて、口を噤む。
海藤さんの言う通り……この一年間、不意に彼のことを思い出しては考えていた。
今何をしているのか。
どう生きているのか。
本当に、変わってしまったのか。
今までは考えたところで何もわからなかった。
だけど今なら――彼の背中に、手が届くかもしれない。
「――わかった。行ってくる」
私が何を考えているのか感じ取ったのか、兄は間髪入れずそう言って歩き出した。
できれば兄の手当をしたかったけれどそんな時間はなさそうで、私は少し申し訳なさを覚えつつも兄の背を見つめる。
「モグラの件とは別だ。依頼料は払うぞ」
「そんなのいるわけないだろ。それに羽村の情報も手に入るかもしれないしな」
そう言って、兄は事務所を出ていった。
数秒、沈黙が訪れて。
それを破るように、海藤さんが私にそっと手を差し出した。
「香織ちゃん。ほら」
「……ありがと」
その手を取って立ち上がると、足元がふらつく。
どうやら思った以上に限界に近いらしく思わず自分で笑ってしまった。
「顔、痕になっちまうかもな」
私の顔を見てそう言いながら、まるで自分のことのように顔をしかめる海藤さんに眉を下げる。
「海藤さんの方が傷だらけでしょ。傷口の消毒だけでもしようか?」
「香織ちゃんの手当の方が先だ」
「――もう。わかったよ」
幾分過保護過ぎる気もするけれど気遣いは有り難くもらっておこう。
私はいつかのためにと事務所にこっそり置いておいた救急箱を取り出し、ひっくり返った椅子を元に戻して、そこに座った。
救急箱に入っていたガーゼで血を拭って、脱脂綿に消毒液を染み込ませてピンセットで摘んだところで、海藤さんがそれを私の手からひょいと取る。
「やるから目瞑ってな」
「はぁい」
目を瞑ると、先程までの荒々しい戦闘とは打って変わって、なんだか随分ぎこちなく綿が頬を滑った。
鼻先をつんと消毒液の匂いがつつく。
「痛くないか?」
「平気。てか、ビビり過ぎだよ、海藤さん。もっと強くしても大丈夫」
「そうは言われてもな……男相手ならともかく、女の子の傷の手当なんてそういやしたことないからよ」
「あはは。ま、そりゃそうだよね」
そうして互いに手当をしあった私たちは救急箱を閉じてようやく一息ついた。
きっとアドレナリンが切れたのだろう。
今更、殴られた頬がじんじんと痛む。
「お兄ちゃん、今どの辺かな」
不意にそう零した瞬間、海藤さんのスマホが鳴った。
彼が電話に出ると、スマホ越しに小さく兄の声が聞こえてくる。
すると海藤さんは気を使ってか、通話をスピーカーモードに変更してくれた。
『東は公園前通りのゲーセンに入っていった。心当たりは?』
「ゲーセン?」
『ああ。"シャルル"って看板が出てる』
「――昔、俺が組から任されてた店だ。今はあいつがやってるってことか」
すると電話の向こうで兄は怪訝そうな声を漏らす。
『ヤクザのやってるゲーセン? ……実は裏カジノとか?』
「いや、たまぁにヤバい取引の場所に使ってたがよ。普段はガキでも入れる普通のゲーセンだ」
『わかった。なら俺も行けるところまで行ってみる』
どうやら、兄はその「シャルル」というゲームセンターにそのまま突撃するつもりらしい。
「……私も行く」
「え?」
突然立ち上がった私を、海藤さんは驚きながら見上げた。
電話の向こうの兄もまた『お前も?』と声を上げる。
「公園前通りね。すぐ行くから、ちょっと待っててお兄ちゃん」
『おいおい、冗談だろ』
「冗談で言うと思う?」
すると兄は言葉に詰まったらしくスマホの向こうからは沈黙が返ってきた。
「直接見て、聞いて、納得したいの。東さんが本当に変わってしまったのかどうか、今どういう人間になっているのか。私は自分の目で確かめたい」
しばらく沈黙が続き――やがてスピーカーから、兄の小さなため息が聞こえてくる。
『わかった。待ってるから、気をつけてこいよ』
「……ありがと、お兄ちゃん」
海藤さんに「いってきます」と手を振りながら、私は事務所を出た。
逸る気持ちを抑えられなくて、次第に早足から駆け足になる。
頬を打ち付ける12月の冷たい風を、その時の私は、なんだか心地よく感じていた。