すっかり冷たくなった夜風に身を震わせながら、私は兄と共に事務所へ戻った。
どうやら、潜入している間に片付けておいてくれていたらしく、奥の所長椅子に座った海藤さんが出迎えてくれる。
「よお……戻ったのか」
「ああ。例のシャルルってゲーセンに入って、東とも会って話した」
「尾行がバレたのか?」
「いや、こっちから話しかけた」
すると海藤さんは少しだけ低めの声で「どんな感じだった?」と兄へ問いかけながら、私の顔をついと見た。
……もしかして私、ニヤけてたかな。
「まず、今の松金組は親っさんも羽村のカシラを押さえきれてない。それで東もカシラの言いなりになるしかないってことらしい」
「そうか」
海藤さんの少し沈んだ声色に、兄は「ただ」と続けた。
「実際話してみて、東はそこまで昔と変わってない気もしたよ」
「そうは見えなかったが……」
言いながら、海藤さんは再び私を見る。
「香織ちゃんの雰囲気を見ると、そうなのかもしれねえな」
「な、なに? 私、なんか顔に出てた?」
すると彼はふっと笑った。
「出まくりだ。こっちまで恥ずかしくなるぐらいにな」
「あ、うぅ……しょうがないじゃん。一年ぶりだったんだもん」
縮こまる私を海藤さんは随分楽しそうに見ている。
そうしていたら不意に、なにかを考え込んでいたらしい兄が口を開いた。
「一年前、海藤さんが組を破門にされたとき」
唐突に話しだした兄に海藤さんは不思議そうに首を傾げる。
「事務所の金庫から一億……拳銃強盗にやられたんだったよな?」
「それがなんだよ?」
「結局その始末はどうなった? 海藤さんはなにか聞いてるか?」
「金は東が回収したらしい。例の綾部から聞いた情報によれば、だ」
「東が? どうやって……?」
兄の疑問に私もつられて、え、と声を上げてしまった。
「回収って一億、全部? 高跳びされる前に捕まえたとか?」
「さあな。もっと詳しく聞きたきゃ20万出せって言われてよ。そん時は持ち合わせがなかったんでな、それっきりだ」
「じゃあ綾部に聞けばいろいろわかるわけか」
「金はかかるぞ。やつは今ならテンダーにいるはずだ」
そういえば最近テンダーにもあまり顔を出していない。
たまには顔見せに行かないとマリ姉に怒られちゃうかな。
羽村さんの件があるから、しばらく行けそうにはないけれど。
「羽村のカシラがこの先どう動くか……」
兄がぽつりと呟くと海藤さんは眉をひそめた。
「またここに押しかけて来る。そいつは時間の問題だ。で、次はマジで俺らを殺りにくるかもな。これからは香織ちゃんも、一人になる時間は絶対に作らねえ方がいいと思うぜ」
そうしてこちらへ注がれた彼の視線に、私はつい背筋を伸ばす。
命の危険があるのは私も同じだ。
もし羽村さんに捕まれば――本当に指を一本ずつ切り落とされるかもしれない。
私は思わず指先をぎゅっと握りしめた。
「……そこまでされるような真似したかね」
「それだけモグラに触られたくねえってのがひとつ。あとはなにより、カシラは俺らのことが嫌いだ」
「ったく。この間カシラに無罪獲ってやったのって俺らだよな?」
「報われないねえ」
その言葉に兄は苦笑いを浮かべてくるりと踵を返す。
「お兄ちゃん。綾部さんに会いに行くの?」
「ああ」
「休む暇もないね……いってらっしゃい」
ひらひらと手を振って出ていく兄を見送って、私はふうと小さく息を吐いた。
「んで? 香織ちゃん。東とどんな話をしたんだ?」
「え? なに急に」
「教えてくれたって良いだろ。今の東がどんなやつなのか知りたいんだよ」
それっぽいことを言っているけれど、どうせその真意の9割は野次馬根性だ。
その証拠に、随分楽しようにニヤニヤしている。
「別に、深い話はしてないよ。ただ、その、また遊びに行っていいかって聞いただけ」
「遊びにって、シャルルにか?」
頷くと彼は、ふうん、と笑みを深めた。
「で? いいって?」
「……うん」
「そうか、良かったじゃねえか。ま、カシラの件が片付くまでは一人じゃ行けねえだろうけど」
「うぅ」
思いっきり上げて落とされた……。
容赦のない海藤さんに眉をひそめていると、彼はそういや、と続ける。
「ター坊も言ってたが、今のアイツ、"悪い顔"してたろ。怖くなかったか?」
「ん? いや、別に怖くはなかったよ」
というか、昔の優しそうな雰囲気とはまた違って、それもそれで――。
「ふうん……意外にワイルド系が好きなのか」
「そ、そういうんじゃない! そうじゃないけど……っ」
「東だからなんでも格好いいってか? かーっ、ノロケてくれるねえ」
「もう! 勝手に解釈してニヤニヤしないでよ!」
くそう、完全に遊ばれている。
悔しさに拳をぎゅっと握りしめたところで、海藤さんが立ち上がった。
「さてと。香織ちゃん、今日はどうする?」
「へ? どうするって?」
そのまま彼は窓の近くへ歩み寄り、外を眺めた。
「もう良い時間だ。寝たほうがいいだろ? 家まで送ってもいいが、そうすっと香織ちゃんが一人になっちまうし、かといって俺が香織ちゃんの家に泊まるってわけにもいかないだろ」
「お兄ちゃんの事務所は……流石に寝れないもんね」
私はいつも兄が寝ている場所を見下ろす。
そこは普段、来客に座ってもらう、長椅子だ。
この事務所の中で横になれる空間はこの椅子の上しかない。
「多分、私の家も割れてるよ。まず間違いなく、張られてるんじゃないかな」
「だよなあ……」
すると海藤さんは腕を組み、ううん、と考え込む。
一緒になって窓の外を眺めていた私はふと、ビジネスホテルの看板に目を奪われた。
「じゃあ、ホテルでいいんじゃない?」
「――え」
私の提案に海藤さんは目をまん丸くする。
「香織ちゃんと?」
「うん」
「二人で?」
「? うん……え、ダメ?」
「いや、ダメっつーか。逆にいいのか?」
「え。なになに、怖いんだけど。海藤さん、なんか勘違いしてない?」
すると彼は混乱したような顔で私の顔を見た。
「だって、一緒にホテル行くんだろ?」
「うん。ビジネスホテルの一人部屋を隣り合って取れば、何かあっても安全じゃない?」
「――そ、そういうことかよ。なんだぁ……」
少し残念そうな海藤さんに今度は私が眉をひそめる。
「なにを想像したの」
「……いやあ、ラッキースケベ的な展開かと」
「んなわけないでしょ。っていうか海藤さん、私のことそういう目で見れるわけ?」
「普段はそんなことねえけどよ。そりゃ男だし、その時がくれば……?」
「最低」
「不可抗力だろ?!」
なにやら抗議している彼に背を向け、私はさっさと事務所の扉へ歩き出した。
その後ろを海藤さんがゆったりとした足取りでついてくる。
「勝手に部屋入ってこないでよ?」
「なんだ、フリか?」
「じゃあ覚悟して入ってきてね。ハサミ用意しておくから」
「……何に使うつもりなんだそれ」
「ほんとに聞きたい?」
「結構です……」
◆ ◇ ◆ ◇
そうしてビジネスホテルを取った私たちがホテルを出たのは結局、翌日の夕方だった。
眠ったのがだいぶ遅かったのもあるけれど度重なるイベントで相当疲れが溜まっていたのだろう。
一度朝のチェックアウトの時間に海藤さんに電話で起こされたものの、そのまま二度寝してしまって気がついたら夕方だった。
おかげでもう一泊分の料金を払う羽目になってしまったが――なんだかスッキリしたので良しとする。
「マジで何にもなかったな……」
「当たり前でしょ、何言ってんの」
やたら残念そうな海藤さんの脇腹を軽く殴る。
それにしてもビルの隙間から差し込む西日が眩しい。
体を伸ばしてあくびをしていたら、海藤さんが不意にスマホを取り出して電話し始めた。
「海藤だ。ター坊、今どこだ?」
どうやら兄に連絡をしているらしい。
もし綾部さんに会えたのなら、何かしら拳銃強盗の事件の情報を握っているだろうし、恐らくその確認だ。
なんとなく一歩海藤さんに近付いて、電話の音を拾おうと耳をすませる。
『児童公園の炊き出しに行くところだよ。そこで例の強盗と会えるかもしれない』
「お前、今も神室町にいると思うのか? 組の事務所襲ったやつがよ」
『本人はいなくてもなにか情報があればと思ってね。綾部の話じゃ、松金組を襲った強盗は"赤鼻"っていうホームレスだった』
「赤鼻? ホームレスが犯人なのか?」
――ホームレスが犯人。
その言葉に、違和感を覚える。
ただのホームレスが、ヤクザの金庫を狙って強盗なんてするだろうか。
そもそも、そんなことが可能なのだろうか。
ホームレスがたった一人で、ヤクザ事務所の人手が手薄のタイミングを調べて、拳銃を調達して、金を奪う。
とても現実的とは思えないけれど。
『ただ東が金を回収したあと……赤鼻は生きてるかどうかもわからない』
「そうか。わかった、俺も行く。児童公園だな?」
『ああ。……香織は?』
「いま隣でこの通話を聞いてる。一緒につれてくよ。じゃあな」
そうして電話を切った海藤さんは「いくか」と声をかけて歩き出す。
「ん。児童公園ね」
「ああ」
先を歩きだした彼の背中を追いかけながら、ふと考える。
――児童公園で炊き出しなんて、見たことがあっただろうかと。