「……よう」
息を切らしてきた私を、兄は随分冷静に迎えた。
その頭上には確かに電話で聞いた通り、『シャルル』という看板が掲げられている。
「ここに、東さんが」
「ああ。海藤さんから、広くない店だから変装してけって言われたよ」
「そうなの? ええと……じゃあ、ドンキでも行ってみる?」
そうして。
私は深めの帽子と眼鏡、兄は作業員の格好に変装し、恐る恐る『シャルル』へと繋がる階段を降りた。
階段を降りた先には小ぢんまりとしたカプセルトイコーナーがあり、そこを曲がると、『シャルル』の入口の扉が出迎えてくれる。
なんだか少し緊張しながら、私は兄と共にその扉をくぐった。
中はなんてことのない、ちょっと古風な普通のゲームセンターだ。
もう遅い時間だというのに幼い男の子が一人、客として店内にいる。
ゲームセンターの奥には店員が待機するカウンターがあり、ちょうどそこに東さんと、店員が一人立っていた。
兄とアイコンタクトを取りながら、客のフリを装ってゲーム筐体の影に身を隠し、様子をうかがう。
すると店内にいた男の子がカウンターにいた二人の元へ駆け寄った。
「あの……100円のまれちゃったんですけどぉ」
男の子を見下ろした店員は仕事の話をしている最中だからと冷たくあしらう。
それでも食い下がった男の子に、あっちへ行けと店員は声を荒げ――その店員の頭を、東さんはぺちんと叩いた。
店員は「いてっ?!」と小さく声を上げる。
一体どうするのかと兄と顔を見合わせていたら、東さんは優しげな声色で男の子の顔を見た。
「悪かったな。よかったらこれで遊んでってくれや」
そう言い、彼は男の子に千円札を差し出す。
男の子はそれを嬉しそうに受け取り、ありがとうとお礼を言ってゲームの筐体へ駆け寄っていった。
隣にいた兄が小さく笑う声がする。
それからこちらを見て、彼はそっと私の背を叩いた。
(――お節介)
だけど。
ついてきて、本当に良かったと心の底から思う。
だってここに来なければきっと私は、彼が昔と変わっていないことに確信を持てなかっただろうから。
そのまま様子を窺っていたら、東さんはカウンターの奥の扉へと入っていった。
それを見届けた兄はそっと立ち上がり筐体の影から出ていく。
とりあえずそれに倣いつつ次はどうするのだろうと思っていたら、兄は何食わぬ顔で東さんが入っていったドアへ向かっていった。
驚いている私を置いてけぼりにして、当たり前だけれど、兄は店員に呼び止められる。
「おい、何やってんだ? そこは入るな」
カウンターの裏の扉なんて基本はスタッフルームだ。
店員さんの反応は至極真っ当なものだけれど、兄は忠告を無視してドアノブに手を伸ばした。
「入んなっつったろ! てめぇ!」
店員の大声にゲームを遊んでいた男の子は振り向き、一触即発の兄と店員を不思議そうな顔で見る。
私は慌てて、男の子の視界を遮るように目の前でしゃがみ込んだ。
「ぼ、ボク! もう遅い時間だし、帰ったほうがいいんじゃないかな?」
多分このままだと店員との殴り合い――というか、多分兄の蹂躙が始まってしまう。
そんなものを少年に見せるなんてあまりに教育に悪い。
慌ててそう帰るように促すも、男の子はしゅんとした顔で「えー、まだ遊びたいよぉ」と頬を膨らませた。
素直に聞いてくれる感じではなさそうだ。
だけど……身なりを見るに、恐らくちょっと良いところの子だろう。
大方、親に内緒で塾の帰りにでも遊んでいるに違いない。
――となると。
「そっかぁ。お姉さんはいいんだけどね? でも、神室町では遅い時間に子供だけで遊んじゃダメですよってルールがあるんだよ」
「そうなの……?」
「そう。今遊んでるところをお巡りさんに見つかっちゃったりしたら、警察署に連れて行かれて、おうちに連絡が行っちゃうかも」
すると男の子は目をまん丸くした。
「え?! そ、それはダメだよ! 怒られちゃう……!」
「でしょ? 私も、君が怒られると悲しいから、今日は帰ったほうがいいんじゃないかな」
「わかった、すぐ帰る……! 教えてくれてありがとう、おねえさん!」
そうして男の子を見送った瞬間、兄は店員をさくっとぶん殴ってふっ飛ばした。
蹂躙どころか瞬殺だった。
我が兄ながら粗暴すぎないかこの人。
一瞬で力量を見せつけられた店員さんは東さんに助けを求めてドアを開くが、そんな彼を押しのけ、兄はドアの向こうへ姿を消してしまった。
何故か残される、私と店員さん。
「本当にごめんなさい……」
今度手土産を持って改めて謝りに来よう。
状況が掴めず呆けている店員さんの前を申し訳なさ全開で通り抜けて、恐る恐る、ドアの向こうを覗き込む。
「八神……てめえ、俺を尾けたな? なんのつもりだ? なにしに来た?」
「海藤さんがお前を心配しててね」
「心配だと……?」
「自分を慕ってた舎弟がすっかり別人みたいだってな――あいつも同じことを思ってたと思うよ」
そう言い、兄が振り向くとそれにつられてか東さんの視線がこちらを向いた。
彼は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、眼鏡を外してみせると目を見開く。
「香織……」
小さく私の名を呟いた東さんは眉をひそめて兄を見上げた。
「"悪い顔になった"か? ――へっ、当たり前だ。俺ぁな、極道なんだよ」
「いや、悪ぶってるだけだろ?」
「はあ……?」
ふと、兄が私の方へ振り向く。
かと思えばすぐに目線を東さんの方へ戻した。
「さっきお前が子供に見せてた顔……見覚えがあるよ。やっぱり根っこは変わってない。海藤さんを"兄貴"って呼んでた頃から何もな」
「なら確かめてみるか!」
そう声を荒げ、東さんはテーブルを叩いて立ち上がる。
が、兄はそれを「喧嘩はもういいって」となだめた。
「どうしてもって言うならすぐに出てくよ」
「チッ、腰抜けが。――相変わらずだ……」
吐き捨てるように言って、彼は椅子に腰を下ろす。
「俺らが最後に会ったのは……もう一年前か。海藤さんが破門にされた日」
兄がそう言った途端。
一年前の、彼から受けた電話の声が脳裏でフラッシュバックする。
刺すような、抉るような、砕けた氷のような言葉も。
「あのとき、お前は泣いていたよな」
――そう、なんだ。
今の彼からはあまり想像はつかないけれど、一年前の彼なら、違和感はない。
と同時に一年前、「自分が駆けつけた時には指を詰めさせられる直前だった」と兄が当時の状況を話していることも思い出した。
「……あの時、組長は兄貴を助けたくてお前を連れてきたんだろ? だがもうあの状況だ。破門は避けようがなかった。それでお前はできる限りの――"弁護"をしたってわけだ」
「おかげでカシラにはずっと目ぇつけられてるよ」
ああ。
それがきっかけだったのか。
確かに――羽村さんにとってみれば組長自ら助け舟を出すなど、特別扱いも良いところだ。
当時は羽村さんと海藤さんが若頭の地位を争っているような状況だったわけだし、羽村さんにとっては面白くない状況といえる。
「でも。お前はうまいことやったな、東」
突然、兄の口調が尖る。
なんだか嫌味ったらしいその言い方に、私はつい兄の背中を見上げた。
「カシラに取り入って出世したか? このゲーセンも前は海藤さんが仕切ってたって? ……自分の立場のために、惚れた女まで差し出そうとして、まだ上を望むのか」
「てめぇに何がわかる!!」
思わず肩が震えた。
少なくとも、記憶の中にいる東さんは、私の前でこんな風に声を荒げることはなかったから。
「今の松金組は全部カシラが牛耳ってんだよ。海藤の兄貴がいなくなって組長は少しずつ勢力を崩されてった。兄貴さえ組に残ってりゃこうはなってねえ……」
なんとなく羽村さんの振る舞いから予想はしていたけれど、どうやら松金組の状況は、少なくとも私や兄、海藤さんにとってはあまり好ましいものではないらしい。
派閥という言い方も妙だが、私達にとっての松金組の"繋がり"は組長さんだ。
しかし、それを今は羽村さんが牛耳っている。
つまり松金組長にはかつてのような力はもうないということで――モグラの件を追う私達にとって、松金組はそっくりそのまま敵対する存在なわけだ。
「お前はそれを見てただけか? カシラが組を乗っ取ってる間、ずっと」
「フッ……たったひとりで何ができんだよ? 言うは易しだ」
諦めを含んだ東さんの言葉に兄は小さく、そうだな、と零した。
かと思えば踵を返し――ふと、思い立ったようにもう一度東さんに振り向く。
「そういえば、松金組から盗られた一億。あれどうなった?」
「あ?」
「金は戻らずじまい? 犯人も逃げたきりか?」
「うるせえ。てめえにゃ関係ねえだろが」
「……だよな?」
そう言って、今度こそ兄は去っていった。
――私を置いて。
「え? あれ?」
なんだか自然な流れで置いていかれたことに困惑していると、東さんは煙草に火をつける。
「なにしてんだ。お前も帰れ」
「――、」
煙を燻らせ、伏し目がちにこちらを見る東さんを、私は言葉もなく見つめた。
すると彼はしばらくその視線に居心地悪そうにしたあと眉間に皺を寄せる。
「んだよ。言いたいことがあるんなら、言えよ」
「あ、え……と、」
言葉が詰まる。
頭が真っ白だ。
だって、――だって。
「どう、しよう」
ようやっと私の口から出た言葉に、東さんは怪訝そうな顔をした。
意味がわからないと言いたげなその視線にすら、私は。
「言いたいこと、聞きたいこと、たくさんあったはずなの。そのはずなのに……今、こうして東さんと向かい合って一緒にいるってだけで、なんかもう、全部、吹っ飛んじゃった……」
恥ずかしい。
こそばゆい。
――嬉しい。
やっと、あなたに会えた。
「お、お前、なあ……馬鹿なこと、言ってんじゃねえよ」
恐る恐る東さんの顔を見ると、彼は口をあんぐりと開けて私を見ていた。
なぜかつられて、彼までどもっている。
「一年前の電話からずっと不安だった。ずっと寂しかった。もう会えないって思ってたから。……でも、また会えた。嬉しくって、どうにかなりそうなの」
「――う、ぐ」
なにやら小さく呻いて、彼は顔を背けた。
彼の耳が赤く見える。
どうか、見間違いじゃありませんように。
「あの、ね。えっと……また、遊びに来ても良い?」
私の問いかけに彼はしばらく黙っていたけれど、やがて――。
「……ここはゲーセンだ。金持って遊びに来る客を追い返したりはしない」
「! 本当?」
思わず身を乗り出す。
彼は目線を合わせないまま小さく頷いた。
「嬉しい。……じゃあ、"また"ね。東さん」
手を振って、私はスタッフルームをあとにする。
なんだか軽い足取りでゲームセンターを出て階段を上がると、そこで兄が待っていた。
そうして私の顔を見た兄は小さく微笑む。
「よかったな」
「……うん」
歩き出す兄の後ろを、私は年甲斐もなく、跳ねるように追いかけるのだった。