かちゃり、とドアが静かに開く音で意識が戻ってくる。
奥の椅子に座っていたはずの兄はいつのまにか私の正面に移動していて、お行儀悪くテーブルの上に足を伸ばして資料を読んでいた。
「悪い。起こしたか?」
つい今しがた帰ってきたらしい海藤さんにそう言われ、私は首を振る。
座って寝ていたせいかバキバキになってしまった体を伸ばしていると海藤さんは兄の手元を覗き込んだ。
「やってるな、ター坊。綾部の捜査資料見てるんだろ?」
「ああ。そっちは? カジノの続きはどうだった?」
帰りが遅いと思ったら、どうやら海藤さんは裏カジノで遊んでいたらしい。
資料を見ながら何の気無しに発された兄からの問いに海藤さんはなんてことなさそうに「100万の勝ち」と返した。
「え……?!」
「まだ行けそうだったんだけどな。キリのいいとこで止めといた」
「すごーい、海藤さん! お金もち!」
思わず立ち上がると海藤さんはふふんと胸を張ってみせる。
「はっはっは! よーし、香織ちゃん、今欲しいもの言ってみろ! なんでも買ってやるぞ!」
「じゃあ牛丼! お腹すいた!」
「そんなんでいいのか? 慎ましいな……」
すると流石に資料から顔を上げた兄がぼそりと「じゃあ海藤さん、今月給料いらないんじゃ」と呟いた。
「それとこれとは別だろ」
呆れたように返した彼はそのまま続ける。
「そっちは? モグラを見つけられそうか?」
「いや。警察も結局、無実のカシラを逮捕したぐらいだからな――他にこれはって容疑者もいない……ってことがこの資料でよく分かった」
「その程度の情報か。どうりで綾部がタダでくれたわけだな」
「……ただ、モグラの二件目の事件。被害者の国村って男の足取りが事件の直前まで調べられてた」
そう言いながら兄は捜査資料から一枚の写真を取り出して海藤さんと私に見せた。
「二件目っていうと、今日お兄ちゃんと見に行った、あの見通しの悪い路地の事件だね」
そこには赤い柄シャツとブラウンのスーツ、首には派手なネックレスをして、胸元には家紋のバッジが光る、いかにもヤクザという風貌の男性が写っている。
「そいつが国村か?」
「ああ。殺される2時間前に天下一通りの『こんばんワイフ』って店を出てる。人妻系ヘルス。相手した女の子は『かなえちゃん』だ」
「じゃあ死ぬ前にイイ思いしてたか。……ちょっとだけ救われるな」
同じ立場だった人間として思うところがあるのかもしれない。
海藤さんは少し寂しそうにそう言った。
「これからかなえちゃんに話を聞きに行ってくるよ。国村がどんな様子だったか……なにかモグラにつながる情報が出てくるかもしれない」
そう言って入口へ歩き出した兄に、つい私は「え……」と声を上げる。
すると彼は私の顔を見て不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「いや……だって、今から行くんでしょ? その、お店」
「なんかダメ?」
「ダメっていうか……ダメじゃないけど、だってぇ……」
風俗店に向かう兄を見送るというのがなんだか心境的に複雑で、私が口籠っていると海藤さんが口を開く。
「いやいや、風俗なら俺の出番だろ? お前に人妻の相手はまだ早いって」
「何しに行く気だよ? 話聞くだけなんだから」
すると海藤さんは心底残念そうに眉をひそめた。
「本当にお前が行くのかぁ? 『こんばんワイフ』……真冬ちゃんに言うぞ!」
「……海藤さん、大人げない」
私の言葉に、むぐ、と小さく呻いた海藤さんに兄は表情を変えないまま「別にいいよ、好きに言ってくれて」と言い残し、事務所を出ていった。
なんだかしゅんとした様子の彼と二人残され、私はとりあえず、再び椅子に腰を下ろす。
「香織ちゃんはいいのかよ、黙って見送って」
「調査だし、仕方ないでしょ。……ちょっと嫌だけど、なんか、海藤さんを見送ることにならなくてよかったよ」
「なんだよそれ。風俗は男のロマンだぜ? 据え膳食わぬはなんとやらって言うだろ」
「はいはい」
私の正面の椅子にどっかりと座った海藤さんは背もたれに肘を預けた。
そんな彼を見つつ、私は兄が置いていった捜査資料を眺める。
本来、ここにあるべきではない、書類。
手にした瞬間なんだか指先がひやりとしたが、振り払って文字に目をすべらせた。
なるほど確かに――そこには国村という人の足取り以外、めぼしい新情報は記載されていない。
「香織ちゃん、牛丼食いに行くか。腹減ったんだろ?」
捜査資料を再びテーブルの上に戻した私に海藤さんがそう声をかけた。
その言葉に頷き、私はゆっくりと立ち上がる。
「ん。そうしよっか。……奢り?」
「おうよ」
「やったぁ」
勇ましく歩き出した海藤さんの後を追って事務所を出る。
すっかり日が沈んで宵に包まれたネオンまみれの神室町はなんだか昼間より眩しく見えた。
◆ ◇ ◆ ◇
「遅いねえ、お兄ちゃん」
兄を見送ってから数時間。
普通にお店を利用しているのならまだしも、話を聞くだけならとっくに戻ってきてもおかしくないほどの時間が経過した。
「案外楽しんでるんじゃねぇか? ター坊、ああ見えてムッツリだからな」
「ちょっと、身内のそういう話聞きたくないって。やめてよ」
思わず顔をしかめると海藤さんは楽しそうに笑う。
それを見ていたら不意に、お腹を満たしたことで再び睡魔が忍び寄ってきた。
「んん……ねむ……ベッドで寝たぁい」
あくびをしながら体を伸ばした――その瞬間、事務所に向かって階段を登ってくる足音がする。
最初は兄かと思ったが、足音は複数あり、しかもどこか乱暴だ。
一気に意識が引き戻された私は海藤さんと顔を見合わせながらゆっくり立ち上がった。
途端、事務所に派手なスーツの男たちがぞろぞろと入り込んでくる。
「おいおい。挨拶もなしたぁ随分じゃねぇか。一体どこの……」
一歩前に出た海藤さんが言葉に詰まった。
当たり前だ。
乗り込んできた男たちは、松金組のバッジを付けていたから。
十中八九、羽村さんの差し金だろう。
ついに事務所も安全な場所ではなくなってしまったかと思っていたら、最後に、随分久しぶりに見る人物が事務所の敷居をまたいだ。
「――ひ、がし……さん……っ」
それは実に、一年ぶりの再会だった。
電話一本であっさりと絶たれてしまったその存在と対峙した今、私の指先から少しずつ体温が逃げていく。
一方、東さんは私を一瞥すると、海藤さんへ視線を移した。
「八神はいるか」
「……答える義理はねぇ」
松金組の組員たちは少しずつ、私と海藤さんを囲むようにしてにじり寄ってくる。
だけどなんだか――彼らの視線は海藤さんより、私に集中していた。
「さてはお前ら、香織ちゃんを狙ってやがるな」
「――!」
思わず言葉を失う。
その言葉に東さんはもう一度、私を見た。
「俺がカシラから受けた命令は"八神を探すこと"だ。親族に行方を聞くのは、おかしなことじゃねぇだろ?」
彼の瞳は、なんだか冷たくて。
一年前の"私のために拒絶した"という淡い期待が消えてなくなってしまいそうになる。
「それか、八神の居場所を吐いてくれればそれでもいい。どっちにすんだ?」
「へっ、どっちもお断りだ」
そう言いながら海藤さんは身構えた。
私はと言うと、冷えてびりびりと痺れる足先で、後ずさる。
「香織ちゃん。下がってろ」
私を隠すようにして、数歩前に躍り出た海藤さんの背中を見て――ほんの少し、ざわついていた心が落ち着いた。
目を閉じ、深く呼吸をして、顔を上げる。
「ありがとう、海藤さん。でも平気」
彼の隣に並んで組員たちを睨みつけると、なんだか胸のつかえが取れたような気がした。
東さんが今、何を思っているのかなんてわかりっこない。
あの電話の真意だって、考えてもわからない。
だけど一つだけわかることは――ここを乗り越えられなければ、一生その胸中を知ることは出来ないということだ。
「大丈夫。戦えるよ」
「……そりゃ頼もしいな。テンションも上がるってなもんだ」
にやりと笑った海藤さんと視線を交わす。
そうして私達は、戦いに一歩、踏み込んだ。