「香織ちゃん、そんな怖い顔してどうした?」
兄と別れてから十数分後。
カフェで迎えを待っていた私と合流した海藤さんは驚いたような顔でそう問いかけた。
一方、席に座って注文したカフェオレに一口も口をつけていなかった私は彼を見上げて初めて、ずっと眉間に皺を寄せていたことに気がつく。
「――服部さんと会ったの」
「服部……ああ、あの記者か」
すると海藤さんは私の向かいに座りながら苦笑いを浮かべた。
「そりゃそんな顔にもなるか。災難だったな」
「本当にね」
向かいに座った海藤さんはそのまま店員さんを呼び、飲み物を注文する。
「香織ちゃん、ケーキでも食べるか?」
「ん、いや……んん。……食べる」
「よしきた」
苛立ちのままケーキを注文して、ようやく私はカフェオレに口をつけた。
ホットで頼んだのだけれど、すっかり冷めてしまっていて申し訳ない。
「そういや、ター坊と第二の現場を見てきたんだろ。どうだった?」
「思った通り、特に証拠は残ってなかったよ。2ヶ月も前の事件だし、当たり前だけど」
「まあ、そうだよな」
「今、情報屋さん……綾部さんの連絡待ちなんでしょ? そっちに期待するしかなさそうだね」
ふと窓の外に目を向ける。
のどかなお昼頃。
街をゆく人々はのんびり、あるいは忙しなく日常を享受していて――普通のカフェの一角で、いまや猟奇事件について話をしている自分とはなんだか別の世界の住人のように見えた。
つい数日前まで私はあの中のひとりだったはずなのだけれど。
「香織ちゃん。後悔してないか?」
「? なに、突然」
急に切り出した海藤さんの顔を見る。
彼はなんだか少し、困ったような顔をしていた。
「多分これから、香織ちゃんはどんどん事件に巻き込まれていくぞ。今より危険なこともあるかもしれねえ。……怖くないか? 今からでも神室町を離れるって手もあるんだぞ」
その言葉に私は少し、呼吸を止める。
瞬間、店員さんがケーキを運んできてくれた。
少し悩んで――私はケーキをフォークで切り分けて口に運ぶ。
「怖いよ。怖いに決まってるでしょ。相手はヤクザで……その裏にもっと大きな闇が潜んでるかもしれないんだから」
「ま、そうだよな」
海藤さんはふらりと窓の外に目を向けた。
が、すぐに「だけどね」と続けた私へ目線を戻す。
「逃げ出すなんて考えてない。そもそも、神室町を出たところで安全とも限らないし……そうじゃなくても、神室町を離れるつもりはないよ」
続けながら目を丸くする彼の顔を、じっと見つめ返した。
「だってお兄ちゃん、目を離したらうっかり死んじゃいそうなんだもん。……私が守るだなんて大層なことは言わない。もしかしたら皆仲良く死んでしまうかもしれない。それでも――私の知らないところで勝手に死なれるより、百倍マシ」
すると海藤さんは数秒の沈黙の後にくつくつと笑って頬杖をつく。
「香織ちゃんよ、あんた本当に良い女だな」
「――どうも」
そう返すとまた彼は楽しそうに笑って、ぐいっと飲み物を飲み干した。
「香織ちゃん、バッセン行かねえか? せっかくだ、綾部から連絡があるまでちょっと遊ぼうぜ」
「バッセンかぁ」
なんだかちょっと古臭いチョイスだけれど、モヤモヤを体を動かして吹き飛ばすという点では最適かもしれない。
勢い余ったのかさっさと立ち上がった彼に続いて最後の一口を放り込み、カフェオレを飲み干して私も立ち上がった。
「いいよ、いこ」
「よっしゃ。俺より打てたら今度焼肉奢ってやるよ」
「お、言ったなぁ? 絶対勝ってやるから」
そうして私は、既にちょっとだけ晴れた気分でカフェを出て、バッティングセンターでひたすらボールを打ち続けた。
お互い負けを認めず何ゲームもしていたら、海藤さんがふとスマホの通知音に手を止める。
気がつけば時刻は夕方になっていた。
「綾部だ。資料の都合がついたらしい。……ター坊と合流しなきゃな」
言いながら海藤さんは私を見る。
てっきり、私もその場に同行するものだと思っていたけれど、彼は少し考え込んだ後に「待機しててくれないか」と切り出した。
「ん? いいけど、なんで?」
「まあ、ちょっと場所がな。裏カジノなんだよ。あんまり大人数だと目立つだろ」
「神室町に裏カジノなんてあるんだ……。そういうことなら、わかった」
まあまだ夕方だ。
人通りの多い場所を選んで過ごしていれば多分大丈夫だろう。
「連絡はいつでも受けられるようにしとく。なんかあったら電話してくれよ」
「わかってるよ。気をつけてね、海藤さん」
少し心配そうな表情のまま歩いていく彼を見送り、私はしばし、立ち止まる。
さて、そうは言ったものの、どこにいようか。
安全そうな人の多い場所……ゲームセンターとか?
あるいは適当に街を歩いてみようか。
背後にぴりりとした恐怖を覚えつつ、私は背筋を伸ばして歩き出した。
◆ ◇ ◆ ◇
そうして、夜。
とりあえず無事に日没まで過ごした私は兄の事務所へ足を運んだ。
もらっている合鍵で室内へ入り、鍵をかけて、応接椅子に座る。
なんだかイベント続きで疲れていたのか、ぼうっと座っていたら段々と睡魔が襲ってきた。
目を擦りつつも耐えきれずうとうとしていたら、何やら事務所の外からガラスが割れるような音がして飛び起きる。
「なに……?」
すっかり覚醒してしまった意識で窓の外を覗き込むと、兄が覆面の男数名と喧嘩しているのが見えた。
男たちは鉄製のバットを装備しており、対する兄は丸腰。
また兄がチンピラに喧嘩を売られたのかとも思ったが――それなら覆面をする理由はない。
顔が割れないようにしているということは意図的に兄を狙って襲撃してきたやつらの可能性が高いだろう。
どちらにせよ、考えている時間はない。
私は勢いそのまま事務所を飛び出して階段を駆け下り、ヒビの入ったガラスのドアを蹴破った。
「あ? うぐっ?!」
突然の乱入者に驚いたらしい覆面の一人に足をかけて地面に転がし、鳩尾に踵を振り下ろす。
瞬間、背後から振りかぶられたバットをギリギリしゃがんで避け、振り向いた反動で男の顔を殴りつけた。
すると少し離れたところで一人をノックアウトした兄が駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん。この人たちは?」
「さあ。お前の知り合いじゃないの?」
「そんなわけないでしょ。とりあえずぶん殴って覆面剥げば顔はわかるんじゃない?」
「ま、そうだな」
互いの背中を守るように立ち、私達は覆面の男たちを睨んだ。
多勢に無勢だった状態に加勢が入ったことで彼らは少し怯んだようだったが、変わらず向かってくる。
しかし、背後を気にせず戦えたおかげかそれから数分後にあっさりと決着はついて――男たちはあたふたと逃げていった。
「もしかして今のやつら……これ狙ってたりして?」
そう言って兄は懐から厚めの茶封筒を取り出す。
「それなに?」
「綾部から回してもらったモグラの捜査資料」
「……なるほどね。ってことは、羽村さんの差し金、かも?」
「可能性は、なくはないな」
顔をしかめながら兄は事務所へ戻ろうとビルの扉に手をかけた。
「追いかけなくていいの?」
「罠の可能性もある。今はそれより、この資料に目を通したい」
「そっか」
兄の背を追いかけ、共に事務所へ戻った私は改めて応接椅子に腰を下ろす。
ただでさえ眠かったのに、今の襲撃の対応で体が限界だ。
海藤さんと何時間もバッティングした疲れもある。
そんな私の顔を見た兄は、冷蔵庫を明けて中から何かを取り出しながら小さく笑った。
「眠いなら寝てていいぞ。椅子で寝てもらうしかないけど」
「んん……ん? お兄ちゃん、それなに?」
兄の手にはカレーの乗った皿がある。
私が持ってきたおかずかとも思ったが、今週はカレーは作っていない。
「ああ。実はここに来るまでの間にビルのオーナーの富岡さんに会ってさ。家賃をちょっと待ってもらう代わりに、作ったご飯の感想を教えてくれって頼まれてるんだよ」
「へー。家賃待ってくれる上にご飯作ってくれるなんて、いい人だね」
兄はそのままカレーをレンジで温め、私の向かいの椅子に座って食べ始めた。
最初はなんだかワクワクしていた彼の顔色が、一口で急に曇る。
「どしたの?」
「……食ってみる?」
「え? うん……」
兄から皿とスプーンを受け取って、一口。
瞬間、カレーでは到底味わったことのない不快な苦みが舌の上に広がった。
「わぁお」
思わずそんな声を零しながら兄にカレーを返すも、兄はそのまま皿をテーブルの上において、椅子の背もたれに体重を預けて天を仰いでしまう。
「この苦いの、なんだろう……」
「富岡さんからのメモにはゴーヤを入れてあるって書いてあった」
「うーん、十中八九それが悪さしてる味だね」
「……あと、具がちゃんと切れてない」
「ううん……」
あまりのマズさに兄が初めて見る顔をしている……。
とりあえず、二人で協力しつつなんとか一皿を完食し、私達は青い顔で向かい合った。
「そのオーナーさんには、感想を教えてくれって言われたんでしょ? どうするの?」
「どうするっつったって――ううん。富岡さんには正直に教えてくれって言われてるし……」
そう言うと兄は、スマホとにらめっこし始める。
多分、富岡さんに感想のメッセージを送っているんだろうけれど、なんだか食べている時よりもしんどそうな顔だ。
しばらく固唾を呑んでそれを見守っていたらやがて兄はスマホをポケットにしまって立ち上がる。
どうやら返事をし終わったらしい。
「はあ、資料……読むか……」
そう言って兄は所長の椅子に腰を下ろし、綾部さんから受け取った捜査資料を広げ始めた。
時折外から聞こえる小さな喧騒と、兄が資料をぱらぱらとめくる音は耳触りが良い。
改めてうとうととしていたら兄が小さく笑って「おやすみ」と零した。
「ん……おやすみ」
そう発したのを最後に、私の意識はまどろみに飲み込まれていった。