源田法律事務所へ辿り着くまでの間、私は苛立ちの勢いそのままに、ずっと兄の携帯電話を鳴らし続けた。
かけ続けること十数分後――やっと兄が電話に出たのは、事務所まであと数メートルという地点。
『もしもし?』
「あっ! やっと出た! もう、お兄ちゃん今どこにいるの?! てか何やってんの!」
『いや、ちょっと追いかけっこをね……』
とりあえず文句を並べ立てつつ繋がったことに安堵しているとふと、電話の向こうで兄が息を切らしていることに気がついた。
「もしかして、ずっと走ってたわけ?」
『ああ、まあ――めっちゃ走らされた上にうっかりビルから落ちそうになって焦っ……あ』
「はぁあぁああ?!」
私は思わず、周囲の視線が集まるのも気にせず声を荒げる。
「なに、ビルから落ちそうになったってどういうこと?!」
『わざとじゃないんだって。追いかけてたら勢いでつい』
「なに勢いで死にかけてんのよ、バカ兄貴! 大体、お兄ちゃんが一緒にいろって言うから現場まで一緒に来たのに、置いてかないでくれる?!」
『ごめんって……』
ひとしきり文句をぶつけてようやく少しだけ溜飲が下がった私は、兄に源田法律事務所へ向かっていることを伝えた。
すると彼は安堵からか深く息を吐いて、「そのまま匿っててもらっといて」と続ける。
「最初からそのつもりだったけど。お兄ちゃんはどうするの?」
『ああ、さっき海藤さんから綾部に資料を当たらせてるって連絡が来た。綾部からの連絡を待つ間、俺もそっちに顔出すよ』
「わかった。待ってるから。――ちゃんとまっすぐ来てよ?」
『はいはい』
通話が切れ、私はスマホをポケットに仕舞いながら、源田法律事務所へ足を運んだ。
エレベーターを降り、事務所のドアに手をかけたところで、ふと思い立つ。
(――あ。お土産、忘れた)
随分久しぶりの来訪なのに手ぶらで来てしまった。
とはいえ今からお菓子を買いに行って、その隙になにかに巻き込まれたら、元も子もないし……。
私は少し悩んだ末、申し訳なさを感じながらそっと事務所のドアを開けた。
「香織さん。どうしたんですか?」
足を踏み入れた瞬間、扉から一番近い場所にいるさおりさんと目が合う。
この事務所へのお土産はほぼほぼ彼女のために持ってくるようなものなので、加速する申し訳無さに困りつつ、ちょっとしばらく置いてほしくて、と切り出した。
言いながら周囲を見渡す。
どうやら新谷先生は不在らしい。
「何かあったんですか?」
そう言って、源田さんと何やら話していたらしい青年が首を傾げる。
彼は星野一生さん。
兄が作った源田法律事務所の欠員を埋めてくれた新米弁護士さんだ。
「ああ、いえ。大したことは。兄と一緒にいたんですけど、ちょっとはぐれちゃって。後で兄がここに顔を出しに来るそうなのでそれまで置かせてもらえないかなと」
すると、来客用のソファに腰を下ろして煙草を吸っていた源田さんがこちらを見てにかっと笑う。
「香織君。久しぶりじゃねえか。元気してたか?」
「源田さん、ご無沙汰してます。お陰様で元気ですよ。……手土産も持たず突然来てすみません」
「気にすんな。どうせまた兄貴に振り回されてんだろ? ほらそこ、座っていいぞ」
「ありがとうございます」
促されるまま源田さんの正面に腰を下ろした。
ふかりと、ソファの柔らかな感触に、つい体の力が抜ける。
「んで、なんで兄貴とはぐれたんだ?」
「それがお兄ちゃん、突然知らない人にスマホをスられちゃって。私を置いて追いかけて行っちゃったんです」
「相変わらずだなあ、八神は」
小さく源田さんが笑うと同時に、兄が事務所へ足を踏み入れてきた。
それを横目で見た源田さんは「おう、やっと顔出しにきやがったか」と呆れ気味に話しかける。
「どうも。そんなにご無沙汰でしたっけ?」
「ああ。いまちょうどお前のこと話してたとこだ」
すると、同じように兄に視線を送った星野さんが「お忙しいんですか?」と問いかけた。
「いや別に。金になる仕事があればいつでも受けるよ」
兄の返答に、星野さんはなんだか、ワクワクしたような声色で続ける。
「いつもエネルギッシュですよねぇ。喧嘩も強いし。カンフーやるんですか?」
「ガキの頃、基本はかじったけど。まああとはストリートの我流だよ」
「神室町で鍛えられた、みたいな? なんですかそれ、ちょっとかっこよくないですか」
「その感覚はわかんないけど……それで言ったら、格闘技は香織の方が経験豊富だよ。な?」
突然話を振られ、私は言葉に詰まった。
すると星野さんはきらきらとした目で私を見て、「そうなんですか?!」と声を荒げる。
「日本拳法とかキックボクシングとか、色々やったんだろ? その上、ストリートじゃ地元のヤンキーほぼ全員ボコボコにしたとか」
「ちょっと、お兄ちゃん。あんまりべらべら喋んないでよ、恥ずかしい」
「別にいいじゃん。星野くんもいつか街歩いてたら、路上でナンパをボコボコにしてるお前に遭遇するだろうし」
「人をならず者みたいに言わないでもらえる? 口喧嘩に拳の喧嘩で返すチンピラのお兄ちゃんと違って、私のは"正・当・防・衛"だから」
そう返しながらちらりと星野くんを見ると、彼は更に目を輝かせていた。
「兄妹で喧嘩強いとか、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか。いいなあ、八神さん。俺も喧嘩が強い美人の妹が欲しかったです」
「あのねぇ……」
と、会話が途切れた瞬間、デスクに座っていたさおりさんが、不意に兄に声を掛ける。
「実はお願いしたい仕事があるんです」
「いいよ。どんな仕事?」
「えっと……いま来ているのはこちらの案件です」
デスクに近付いた兄に、彼女は一枚の紙を差し出した。
それにさらりと目を通した兄は書類を持ちながら小さく頷く。
「依頼人の方には八神さんの事務所の場所をお伝えしておきますから」
「わかった。いつも助かるよ、さおりさん」
そうして兄は私に向き直った。
「そういうわけで俺は仕事してくるから、しばらくここに置かせてもらっといて。帰りは海藤さんに迎えに来てもらえよ」
「はいはい」
頷き、事務所を出ていこうとした兄に、源田さんが「よお」と小さく声を掛ける。
それに足を止めて、兄は彼の顔を不思議そうに見た。
「お前、まだなんか探ってんのか? この間の事件……」
すると兄はふいと目線を逸らす。
どうやら源田さんに、モグラの事件を未だに追い続けていることは伝えていなかったらしい。
「ええ。なにかマズイですか?」
「マズイっつぅか、ありゃもう終わったろ? 調べてもらっても金は出せねえぞ」
「いいですよ。うちが勝手にやってるだけです」
「でもアレだぞ? お前は羽村が真犯人隠してるって思ってんだろ? それであれこれ調べてるって聞いたら……怒るよな? 羽村は」
なんだか心配そうに続けた源田さんに、兄は小さく笑った。
「向こうが先に俺らをコケにしたんですよ」
「……香織君にわざわざ迎えが必要な状態になってんのも、そのせいじゃねえのか?」
すると兄は口を噤み、ふいと私を見る。
私はそれに視線を返しつつソファの背もたれに体を預けた。
「源田さん。私のことは……まあ、気にしないでください。兄はこんな人ですから、遅かれ早かれ私は巻き込まれてましたよ、きっと」
「そうは言ってもなあ」
言葉を濁した源田さんに兄は情報収集のチャンスとばかりに向き合う。
「ところで、裁判のあと、カシラとなにかやりとりは?」
「新谷がよく電話で話してるけどな。一緒に飲んだり仲良くやってるよ」
その現状報告に私はつい顔をしかめてしまった。
電話で話をしたり、仲良く飲んだり、だなんて、昨日私の病室を訪れたあの羽村京平とは別人の話を聞いているようだったから。
一方の兄は特に表情を変えるでもなく、へえ、とだけ零す。
「――さ、どうぞ服部さん。狭い事務所ですが」
「わかってます。何度も来たことありますから」
そうして一瞬訪れた沈黙を打ち破ったのは、なんだか明る気な新谷先生のそんな声と、二人分の足音だった。
なんだか厳ついサングラスをかけた新谷先生の後に入ってきたのは、ひょろりとした印象の男性。彼は我が物顔で事務所に足を踏み入れ、兄の前で足を止めると「ね、八神さん?」と嫌味っぽく微笑んだ。
この人には――見覚えがある。
「忘れてた。今、新谷が取材受けててよ」
源田さんの言葉に兄は眉をひそめた。
どうせ脳裏では最悪の組み合わせだとか考えているのだろう。
まあとはいえ、新谷先生はともかく相手の服部さんの存在については同意見である。
「ねえ、八神はここにいないものとしてくださいよ。でないとおたくの読者にこの間俺が勝ち取った無罪まで怪しいと思われる」
「いやいや新谷先生は大丈夫ですよ。あたしもしっかり傍聴していましたし」
服部さんの言葉の最中に、私は立ち上がった。
つい出そうになった拳を握りしめる。
「帰ります。俺はお邪魔みたいなんで。行くぞ、香織」
「……ん」
兄より先に事務所を出ようとしたその時、放っておけばいいものを、服部さんがねちっこく言葉を続けた。
「この間の裁判、八神さんもご活躍だったんでしょ? ぜひ新谷先生と2ショットで一枚。あ、妹さんもせっかくですから入ってくださいよ」
そう言い、服部さんは許可も取らず撮影を開始する。
すると兄は何も言わないまま、私の手を引いてさっさと歩き出した。
その後姿さえ続けて撮影しようとした服部さんと私達の間に、さおりさんが力強く割って入る。
お茶をどうぞ、と続ける彼女の背中を頼もしく感じながら私は兄と共にエレベーターに乗り込んだ。
無言で下まで降りて通りに出た私達は、少し、その場で立ち止まる。
「……ったく。なんであいつがいるんだよ」
小さく零した兄の言葉に私もつられて唇に力が入った。
服部さんは、いわゆる記者さんだ。
彼との付き合いは兄が弁護士をしていた時代まで遡るが――まあ、多くの説明も必要ない。
ただ彼のせいで、殺人犯を世に放った弁護士として兄は世間に面白おかしく公表され、その妹である私もまた、彼の"突撃身内インタビュー"によって気分を害されたというだけである。
「――香織、俺はさおりさんから受けた仕事のために事務所に戻るけど。どうする?」
「その辺のカフェに入って、海藤さんと合流するよ。まだ明るいし、多分大丈夫。気にしないで頑張ってきて。せっかくの稼ぎ時なんだし」
「わかった。じゃ、またな」
去っていく兄の背中を見送りながら私は、深くため息を零すのだった。