「あ、おはよう、翠」
よたよた、と。
覚束ない足取りで庭まで出てきた翠を、畑仕事をしていた優は軍手を外して受け止める。
「まだ寝てていいんだよ」
『…大丈夫』
「そっか。じゃあ顔洗っておいでよ。畑手伝ってくれる?」
『わかった』
ぽんぽんと頭を撫でてやると少し目が覚めたのか今度はしっかりとした足取りで家の中に戻ってく翠の背中を見送った優は畑仕事を再開した。
その時、突然畑の奥の方でがさがさと葉が揺れる音が聞こえて思わず立ち上がる。
音の主に気取られないようゆっくりと畑の後ろに回ってみたが、音を立てたそいつは既にどこかへ行ってしまったのか既に気配はなかった。
念のために草をかき分けてみると、大きな足跡が点々とついているのを見つけた。
「この辺じゃ見たことない足跡だ。相当でかいし警戒した方がいいかな…」
再び畑の前まで戻った優は、裏口のあたりできょろきょろと周囲を見渡している翠に気が付く。
慌てて彼に近づくと安心したように此方を見て小さく息を吐くのが見えた。
『優。どこ行ってたんだ?』
「ああ。ごめんごめん。畑の後ろを見に行っていたの」
『そうか』
* * *
苗木に水を撒くためのホースを取りに家に戻った優の帰りを待ちながら翠は柔らかな草の上に座っていた。
穏やかな風が吹いて草が揺れる。
心地よさに思わずゆっくりと目を閉じて、
『ッ…?!』
ただならぬ気配に、勢いよく飛びのいた。
突然だったので着地が間に合わず、転がるようにして草の上から自分が居た場所に視線を持っていく。
そこにあった大きな影に思わず呼吸が止まりかけた。
『リングマ…? なんでこんなところに…?!』
今まで何度かここで野生のポケモンと遭遇したことはあるが、こんなに凶暴性の高いポケモンと遭遇したことはない。
それにこの辺りはリングマの生息地域ではないはずだ。
自分が座っていた草むらのあたりが爪痕で大きく抉れているのを見て背筋に悪寒が走る。
『どう…したら…とりあえず逃げ……ッ!!』
それ以上を紡げず、思わず口元に触れた。
手足は震え、心臓はどくどくと激しく脈打つ。
明らかに恐怖の念はあるはずなのに目の前にある凶大な相手に立ち向かう以外を知らない。
そもそも、自分が作られた理由は戦闘のため。
自分に組み込まれている遺伝子に"逃げる"という選択肢は用意されていないことを痛感する。
自分が意図的に作られた存在であると、痛感する。
『…っくそ…!』
勝ち目などないに等しかったが、気が付けば翠は目の前の巨体に突っ込んでいた。
相手の一振りで簡単に弾き飛ばされた彼はボールのように何度かバウンドして柔らかい地面に転がる。
痛みのせいで口からはうめき声しか漏れてこなかった。
ゆっくりと近づいてくるリングマの重々しい足音が聞こえてくる。
体中の警報が危険信号を発しているが身体は痛みで動かない。
『ぐ、う…っ』
こんなやつに本気で殴られたら、死ぬに決まっているだろうが…。
自分にかかっている影が大きく腕を振り上げると同時に翠はぎゅうと目を閉じた。
……と、次の瞬間、突然身体が勢いよく持ち上げられて、殆ど同時に視界がぐわんと回る。
柔らかいものに包まれたまま視界が何度か回って、ごつんという鈍い音でやっと視界が定まり舞い上がっている砂埃が見えた。
「…いっ…たぁ…」
上から降ってきた声から状況を判断した翠は弾かれたように自分を抱きかかえている優を見上げる。
彼女は翠の小さな身体を抱きしめたまま何度か咳き込み、顔を顰めた。
『お、おい…優…! 一体何して、』
苦しそうに呻いている優の腕から抜け出して彼女に声をかける。
すると彼女は地面を押して勢いよく起き上がった。
「"何して"はこっちの台詞だ! この馬鹿! 死ぬ気か?!」
『っえ…あ、ご、ごめん…?』
彼女の突然の剣幕に思わず身体が強張る。
何が起こったのかよくわからなかったがとりあえず初めて見るその様子に押されて謝罪が口を突いて出た。
だがすぐに彼女の仏頂面はぐしゃりと潰れて、赤い瞳からは塩分を含んだ水が零れだす。
ころころと変わる感情についていけずに困惑していると、彼女の胸元にそっと身体が引き寄せられ抱きしめられた。
「間に合って…よかった…」
泥だらけのオーバーオールが視界の端に映る。
背中に回る手や肩の震えが触れている部分から伝わってきた。
震える彼女が自分よりも小さな生き物のように見えて、思わず彼女の首に腕を回して抱きしめ返す。
「ねえ翠。戦える?」
『…え?』
「あなたにとって…あたしは、力を貸すに値する人間か?」
首に回した腕を解いて真正面から彼女を見つめた。
自分と同じ色の瞳がゆらゆらと揺れている。
ぐらつくその赤の奥で、僅かな闘志が見て取れた。
視界の端、リングマがこちらへゆっくりと歩いてきているのが見える。
「もしこの数日間を振り返って、あなたがあたしを認められないのなら……今すぐ、逃げて」