時折見る夢がある。
あの子を失ったあの日の夢。
飛び散る紅と、宙を舞う彼女の細い身体……数トンもの鉄の塊は無情にも彼女の身体を弾き飛ばすとそのまま近くにあったビルに突っ込んで爆発した。
彼女の身体から溢れ出した紅色は、コンクリートで固められた真っ黒いパレットの上に芸術品のように散らばっている。
「み…どり……?」
私はただ、彼女が吹き飛んでいくその様子を見ていることしかできなかった。
どくどくと少しずつ広がっていく彼女の血だまり。
ただでさえ白い彼女の肌から抜けていく生気。
ルビーのように輝く瞳から光が消えていくその様が、瞼の裏にこびりついて今も離れない。
『ねえ、優』
背後から首に白くて細い腕が回る。
その手は私の鎖骨のあたりで祈るように手をきゅうと結んだ。
『優…私の事好きですか?』
「…好きだよ……今でも…」
首に回った腕をそっと握りしめる。
指先にひんやりとした温度が流れ込んできた。
『私も好きですよ。今でも』
まるで氷のようにゆっくりと冷たくなっていく白い腕。
冷たさからか、はたまた他のものからか背筋をぞくりと悪寒が駆けあがる。
『でも…じゃあ、なんで』
首に回っていた腕はだらりと投げ出されて、背中にずっしりと冷たい重さがのしかかった。
雪崩に巻き込まれたかのような絶望感と寒さとに身体は耐えきれず倒れる。
どろり、と、頬に真っ赤なそれが流れてきた。
『私を、殺したんですか?』
少し遠くで、ぐちゃぐちゃになった彼女と目が合う。
白い腕はこちらに向かって恨めしそうに投げ出されていた。
* * *
空腹に突き動かされ、珍しく自分より先に起きていない彼女を起こすべく翠は彼女の部屋のドアを開けた。
彼女が寝ているベッドに飛び乗り、その肩にそっと手を伸ばす。
眠っている彼女の顔を覗き込んで翠はぎょっと目を見開いた。
額に滲む汗と、結ばれた口元から時折漏れるうめき声。
『…優?』
その肩をそっと揺らす。
ぎゅうと固く閉じられた瞳は開きそうにない。
「ごめ…ん……碧…っ」
思わず体が固まった。
まただ。また、"みどり"だ。
彼女の口から時折漏れるその自分と同じ名前が、自分ではなく他の何かを求めているのだということは薄々気付いている。
きっとそれは…。
翠はふいと棚の上に置かれた写真立てに視線を向け、暫し睨みつける。
やがて視線を彼女に戻した翠は一度躊躇した手を今度こそ彼女の肩に置き強めに揺すった。
『起きろ、優』
そっと彼女の耳に口を寄せ、直接脳みそに叩きつけるように声を鼓膜に送り込む。
『腹が減った』
涙でぐしゃぐしゃになった彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。
紅色の瞳を守るように何度か瞬きをした後、不思議そうに自分の顔を覗き込む彼女の目を翠はそっと見つめ返す。
「…翠…?」
白いシーツの上に落ちた緑色の髪が差し込む朝日を浴びて真白く光った。
困惑したような彼女はこちらをじいと見たまま動かない。
『腹が減った』
もう一度、同じトーンで強請る。
するとやっと覚醒してきたのか彼女はゆっくりと身体を起こし、真っ赤になった目をごしごしと擦った。
「あれ…ごめん、寝坊しちゃった」
『違う。俺が先に起きただけだ。時間はいつもと変わらない』
なんなら少し早いくらいだ。
そういうと彼女は少しだけ考えるようにして、すぐ、ああ、と手を叩いた。
「昨日、晩御飯少し早かったもんね。ちょっと待ってて。すぐご飯準備するから」
乱れていた髪を手櫛で直し、部屋を出ていこうとする彼女の表情は昨日までと変わらない。
相変わらず彼女は自分のために食事を用意してくれる。
それなのに、何だろう。
この、大切なものを横取りされたような気分は。
『何がお前をそんなに苦しめているんだ』
思わず零れたその言葉に、部屋を出ていこうとする彼女の動きがぴたりと止まる。
ぎし、と軋む音が鳴りそうな程ぎこちなく彼女はこちらに振り向いた。
『お前は言ってくれたな。"過去がどうだったとしても関係ない"と。俺は俺だと。そんなことを言ってくれたのはお前が初めてだった。だから俺もそう思っていた』
先ほどベッドの上に零した"みどり"は自分ではない。
だけど、割れたカップの破片の上で自分を抱きしめながら呼んだ"みどり"は自分にも向けられていたものだと今自覚した。
『だがお前がそんなになって泣くような過去なら、今もお前がそれに引きずられているのなら…関係ないとは言えない。何より、俺に俺以外の存在を重ねられるのは不快だ。"俺"は"俺"なんだろう? それなら、今目の前にいる俺を見ろ』
ほんの数日、されど数日。
彼女が笑えば嬉しい、彼女が泣けば悲しい、彼女が怒れば腹立たしい。
初めて触れた優しさや温もりは自分にはあまりにも甘美過ぎた。
依存してしまう程に。
『今お前と一緒に居るのは俺だ。違うか?』
そう言うと彼女は目を大きく見開いて、泣きそうな目をしながら微笑む。
「…あはは。気づいてたんだ」
『俺は世間知らずだが、馬鹿ではない』
ドアノブから離れた彼女の両手は震えながら自分の両脇の下に滑り込んできた。
そのまま彼女より三回り以上小さい自分の身体は持ち上げられて、柔らかい胸の中に抱き込められる。
彼女の震えと体温とに直に触れて、心地よさに目を閉じた。
「……過去にパートナーを失ったの」
今にも消えてしまいそうな、蚊の鳴くような、細い糸のような、弱々しい声が鼓膜をノックする。
そっと目を開けても見えるのは彼女の肩口だけで表情は見えない。
こんなに弱っている彼女は初めて見る。
今どんな顔をしているんだろう、想像もつかない。
「あなたが…その子にとても似ていたから、つい、重ねちゃって」
まるで今にでもこの世を去ってしまいそうなその声に、思わず彼女の寝巻をぎゅうと握りしめた。
それに気づいたのか気付いていないのか彼女が自分を掻き抱く腕にも力が入る。
「でもね、接してみるとあの子とあなたとは性格も好きなものも全然違って……その度に、あの子はもういないんだなって思い知らされて」
ぽつりと彼女から零れ落ちた雫が頬を伝っていった。
「勿論あなたのことがどうでもいいってわけじゃないんだよ。でも、それはあの子でも同じことなの…どうして今ここにあの子はいないんだろうって、あの子とあなたがここに一緒に居たならきっともっと素敵だっただろうなって、ありもしない理想ばっかり考えちゃう…」
ぽろぽろと止め処なく溢れ出る彼女のそれを、両手で受け止める。
自分は勝敗を左右しそうな知識しか叩き込まれていない。
だから彼女の涙の止め方もわからない。
だけど、彼女が泣いているのを見るのは苦しい。
『優はどうしたら寂しくなくなる? 優はどうしたら…苦しくなくなる? 教えてくれ。どうしてほしい』
すると彼女は驚いたのか、ぱちくりと瞬きをする。
また、瞼に押し出されて雫が零れた。
「…夜、一緒に寝て欲しいな」
そう言うと彼女は、器用にも涙を流しながら笑う。
人間はそんな顔も出来るのかと言葉を失った。