「ねえ翠。その、手首についてるやつ…」
そう言いながら翠の手首を指すと彼は、ああ、と呟いて手首を持ち上げた。
じゃらりと音がする。
彼のその手首を締め付ける鎖は合っていないのだろう。
現に、ただでさえ白い肌の手首から指の先には軽く鬱血が起こり、青白く変色してしまっていた。
『何が目的かはわからない。気が付いたら着けられていた』
「痛くないの?」
『痛くはない。やけに冷たいがもう慣れた』
石で出来ているらしい手錠から伸びている鎖はもうどこにも繋がっていないけれど、それがある限り彼にはきっと彼の過去がずっとついて回るんだろう。
「…これ、取りたい?」
鎖を持ち上げそう尋ねると彼は少し考えた後、微妙そうな表情を浮かべる。
『邪魔かどうかと聞かれれば邪魔だ。外せるものなら外したい…だが、これを外してしまったら、俺はどうにかなってしまうような気がする』
ただの勘だが、と彼は目線を逸らした。
それ以上押し黙ってしまった彼の手首をそっと放して立ち上がる。
『どこにいく?』
「お仕事。…一緒に来る?」
こくりと頷いてソファから降りた彼は後ろをちょこちょこと着いてきた。
彼を後ろに従えたままキッチンに足を踏み入れ、その奥にある裏口のドアに手をかける。
そっと開け放つと、夏の香りがする心地よい風が頬を撫でていった。
うん。
今日もいい天気だ。
昨日と同じように麦わら帽子と長靴とを身に着け、庭に飛び出す。
後ろをついてきた彼も同じように庭に出てきて、自分よりも高い位置に実った木の実をきょろきょろと見渡していた。
何色もの木の実がたわわに実っているさまはまるで花畑のようで、風が吹くたびに丹精込めて育て上げた愛しい曲線たちはゆらゆらと揺れる。
『これは?』
「木の実だよ。昨日食べたパイに入ってた」
『…形が違う』
「昨日のは切ってあったからね。元の形はこんなやつ」
低めの位置に実っていたモモンの実を一つもぎ取り、二つに割って片方を翠に差し出した。
それを受け取った彼は木の実の断面とこちらとを交互に見つめる。
どうしたらいいかわからない、という顔だ。
その様子に思わず笑みを零し、彼の目の前で木の実にかぶりついてみせる。
舌の上にじんわりと爽やかな甘みが広がってもう一口を誘った。
自分でいうのもなんだがうちの農園の木の実は美味い。
口の端から垂れた果汁を拭っていると、真似をして翠も同じように木の実にかぶりついた。
「美味いだろ」
夢中で食べる彼を見て思わず口の端が持ち上がる。
自分の作ったものを必死に食べてくれているというのはとても嬉しいものだ。
嬉しさ余って思わず無意識に彼の頭に手を伸ばす。
『…? なんだ』
「な、なんでもない」
震えるその手が不思議そうにしている彼を撫でることは無かった。
暫しその手のひらは宙を舞って、ポケットに戻ってくる。
流石にまだ、拒絶されるのが怖かった。
彼が食べ終わった頃を見計らい、一緒に木の実の収穫を行う。
裏口付近に置いておいた大きなカゴ二つと小さなカゴ一つがいっぱいになるほど収穫したところで柔らかい草の上に座り込んだ。
「ふー…やっぱり手が多いと作業の進みが違うな。助かったよ、ありがと、翠」
少しだけ休んだ後、小さいカゴを持ち上げ裏口から家に戻る。
カゴをキッチンに置いたところで後ろから付いてきていた翠がこちらを見上げた。
『…他のカゴは?』
「ああ、あれはあそこに置いたままで大丈夫。もうすぐ取りに来てくれるから」
彼が首を傾げた次の瞬間、開けっぱなしだった裏口のドアの向こうでばさりと何かが羽ばたくような音が聞こえる。
それを聞き、少し慌てて靴を履きなおし裏口からもう一度外に出た。
そこには毛づくろいをしている巨大な鳥ポケモン…ピジョットが自分たちを待っている。
「いつも悪いね」
目を細め、ゆるゆると首を振る彼の背を撫で、微笑む。
「あ、ちょっと待ってて。秤忘れてきちゃった」
こくりと頷く彼をおいてまた裏口から家の中へと戻っていった。
* * *
ぽつりと。
ピジョットと二匹きりで残され、翠は恐る恐る見上げる。
自分の何倍も大きな身体についた二つの球体と目が合って、思わず数歩後ずさった。
『(ピジョット…図鑑ナンバー18、ノーマル、飛行タイプ、マッハ2で空を飛び回るほどのスピードの持ち主…有効タイプは氷、雷、岩…弱点は、)』
無理やり脳みそに植え付けられた記憶がよみがえる。
戦闘実験に移行する前で良かった。
そうでなければ今頃この目の前のピジョットに飛び掛かっていただろう。
『おい、そこのちっこいの』
突然声を掛けられて翠の肩が大きく跳ねる。
逆光を浴びて自分の足元まで伸びる大きな影を持つピジョットが、とても恐ろしい怪物のように見えた。
『そんなに身構えんでも取って食ったりせんよ。おぬし、優ちゃんの友達か何かかえ?』
くいと首を傾げる彼には確かにその言葉通り敵意は見て取れない。
翠は一歩進んで、その顔を見上げた。
『とも、だち…? 良くわからんが、ただ俺はここに居るだけだ。ほかに行き場がないから』
『…そうかい』
ピジョットが再び軽く目を細めると同時に、大きな秤を抱えた優がよたよたと裏口から出てくる。
どん、と音を立てて秤を地面に置いて顔を上げた彼女はこちらを黙って見つめてくる翠とピジョットの顔を交互に見た。
「どったの?」
『……なんでもない』
ふいと視線を逸らす翠に優は首を傾げたが一先ずピジョットの方へと向き直る。
持ってきた秤で木の実の量を測り、それを紙に書いて木の実の入っている籠に差し込んだ。
「よし。重いけど持っていける?」
こくこくと頷いた彼が赤く染まり始めた空の向こうにカゴを持って飛び去って行くのを見送り、家の中に戻る。
「お疲れ様、翠。助かったよ。疲れたでしょ。ご飯にしよっか。ちょっと待っててね」
ソファの上でぐったりする翠に笑みを零し、優はキッチンへと入っていった。
一方、翠もゆっくりとではあるがソファを降りてその後に続く。
後ろをついてくる翠に母性をくすぐられ思わず上がってしまった口角を少しだけ引き締めて振り返る。
「どうしたの?何かあった?」
そう聞くと彼は棚に置かれているコップを指した。
『喉が渇いた。何か飲みたい』
「ん、わかった」
冷蔵庫を開きジュースを取り出した優は続いて棚の上に手を伸ばす。
『それから、優。さっき来ていたピジョットは、』
優の手をコップが滑り落ちていった。
フローリングに叩きつけられたコップは大きな音を立てて粉々になる。
『ど、どうした…?!』
破片が足元に飛んでくるのも厭わず、コップを落とした時のままの体勢で固まってしまっている彼女に破片を踏まないよう気をつけながら近づいた。
『おい、優ッ、どうしたんだ』
「………な、まえ」
『え?』
思わず聞き返す。
名前?
『名前がどうしたんだ…?』
「呼んでくれた…」
『? 名前は呼ぶためにあるだろう?』
そう言うと、彼女の瞳はぐじゅりと歪み、目尻から大粒の涙が零れだした。
それは彼女の頬を伝って落ち、フローリングに小さな水溜まりを作る。
翠は思わずぎょっとして目を見開いた。
人間の泣き顔を初めて見た彼はあたふたと周囲を見渡す。
「…み、どり……ぎゅうって、していい…?」
彼女は嗚咽交じりに零れ落ちる涙を拭こうともしないままそう言った。
どうしたらいいかわからない翠は訳も分からず頷く。
すると優の震える指は恐る恐る近づいてきて、一瞬だけ戸惑い、だが決意したかのようにそっと翠の両脇に滑り込んできた。
そのまま腫れ物を触るような慎重さで身体を持ち上げられ、彼女の腕の中に閉じ込められる。
じんわりと彼女の体温が触れている全身から流れ込んできた。
「みどり……みどりっ……ごめんなさい…ごめん、なさい……っ」
その謝罪の意味はわからなかったが、初めて抱擁というものを体験した彼はその心地よさにゆっくりと目を瞑る。
ぎゅうと抱きしめる力が強くなり頬を伝う涙が増えるのと殆ど同時に、そっと彼女の服を握りしめた。