緑色の培養液は目を逸らしたくなるほど無情で、その中にぷかぷかと浮かぶ彼女の口からは時折空気が漏れる。
彼女が沈められている透明なカプセルにそっと触れると指先に刺すような冷たさが広がった。
「…絶対、助け出してみせるから」
分厚いガラスの向こうに居る彼女のその目は相変わらず閉じたままだけれど、もうとっくにこの装置を止める方法も、奴らの目を盗んでここから抜け出す力も持っている。あとは、その時を待つばかり。
計算が合っていれば彼女が本格的に導入されるのは再来月。
大丈夫。十分間に合う。
「だから、安心して待ってて。……ね、碧」
* * *
瞼を眩しい朝日がノックした。
少しだけ開いた窓の隙間から心地よい風が流れてきて、白いカーテンを揺らす。
起きたばかりのぼんやりとした頭で、そろそろカーテンも洗濯をしなければ、と思いながら身体を起こした。
まだ完全に持ち上がりそうもない目を擦って固くなった背中を伸ばす。
日課の水やりをしなければ、そう思い、キッチンに足を踏み入れたその時。
キッチンに小さな影があった。
「み、どり?」
その影は何やらキッチンをうろうろしていたが、こちらに気が付くと歩み寄ってくる。
『……腹減った』
小さな身体から発せられたその声は、記憶の中のあの子とは似ても似つかない低いもので、寝ぼけていた意識ははっきりとし始めた。
昨日出会ったばかりの彼のことを思い出し、そっとしゃがみ込んで目線を合わせる。
「ごめんね。すぐ朝ごはん用意するから。…ていうか、男の子だったんだね」
『? それがどうした』
「…! い、いや。ごめん。なんでもないよ。ちょっと待ってて」
首を傾げる彼を後目に立ち上がり、ポットに水を入れ、火にかけた。
それから冷蔵庫から昨日作ったモモンパイを取り出しトースターにかける。
ちりちりと表面が焼ける音が聞こえて甘い香りがキッチンに漂いはじめた。
その匂いを感じながらぼーっと少し待っているとポットがお湯が湧いたと教えてくれる。
「紅茶、飲める?」
『こうちゃ?』
彼はこてんと首を傾げた。
「ま、気に入らなかったらあたしが飲むよ」
茶葉を入れたティーポットにお湯を注ぎ、同じタイミングでトースターが作業終了の音を響かせた。
温かくなった皿にフォークを二つ載せてティーポットを右手に、パイを左手に持ってリビングへと戻る。
後ろから彼が急ぎ足で一生懸命ついてくる様子が可愛らしい。
テーブルの上にポットとパイとを置くと、彼は自分からソファに飛び乗りちょこんと座る。
昨日と同じカップに紅茶を淹れ、彼に持たせた。
「熱いから気を付けてね」
パイを皿にフォークと一緒に取り分け、目の前に置くと彼は目を輝かせる。
『これ、なんだ?』
「モモンパイだよ。木の実のパイ」
『きのみ? ぱい?』
「食べたことない?」
彼はこくりと頷いた。
まあ野生のポケモンなんだったらパイを食べたことが無いのは珍しくはない。
彼に、見てて、と一言添えて、自分の分の皿に乗ったパイをフォークで一口大に切り、それを口に含んで見せた。
横目で彼を見ると頷いていて、納得してくれたようだ。
確かめるように数度頷いた彼はパイに手を伸ばし、やってみせたのと同じように一口大に器用に切って、頬張り始めた。
どうやら昨日のミルクの一件で飲食に関しては警戒を解いてくれたようで安心する。
「美味しい?」
昨日は返事をしてくれなかったが、今度は小さくこくりと頷いてくれた。
安心して自分も食事に手を付け始める。
「あ、そういえばまだ名乗ってなかったな。あたし、優。お前は?」
『?』
「名前。何て呼ばれてた?」
顔を覗き込むと彼は顎に手を当てて考えたのち、
『白い恰好の人間たちには、"No.112"と呼ばれていた』
そう言い、彼はモモンパイをまた一口含んだ。気に入ってくれたようで何より。
カップに紅茶を継ぎ足しながら顔色を伺う。
「ねえ、お前何処から来たの」
『わからない。そもそもここはどこだ?』
「ここはカイナシティの外れの森の中、だけど。…じゃあ、なんでうちの近くに倒れていたの?」
『それもわからない。容れ物から出されて、トラックに詰め込まれたと思ったらトラックが横転したような感覚があった。身体が飛んで、真っ暗だったトラックの中が明るくなって……そこで記憶は途切れている』
そう言いきった彼は青空を映し出している大きな窓を見つめた。
『お前は、違うのか』
ぽつりと呟くその声は小刻みに震えていて、心臓がぎしりと音を立てる。
ゆっくりと振り向く彼の顔はやっぱりあの子に似ていた。
『お前はあいつらじゃないのか』
その目は何よりも信頼を必要としている。
目の前に居る自分の何倍も大きな存在を、信じるべきか否か悩んでいる。
なんと声をかけてやれば、彼のその緑色の前髪の奥にちらりと見えた赤い瞳は安心してくれるんだろう。
味方だと、信頼に値すると思ってくれるんだろう。
月並みな言葉では彼の募った不信感はきっと拭えない。
それだけきっと彼の受けてきた扱いは酷いものだったんだろう。
あの子と同じように。
「ねえ。モモンパイ、おいしかった?」
『え?』
「あのね、あたし料理好きなんだ。お前が、ここに居るって言うなら、毎日美味しいごはんを作ろうって思える。…その、それじゃ、信用には値しない、かな?」
自分の皿に乗ったモモンパイを切り分けてフォークに刺し、彼の前に差し出す。
『……』
彼はしばらく考えたのち、差し出されたそれにかぶりついた。
大きく切り分け過ぎたのかクリームが口の端から漏れだす。
それすら器用にぺろりと舐めとり、彼は満足そうに眼を細めた。
『こんなもの、あの場所では出てこなかった。色のない食事、点滴しか。…だから、』
そう言うと彼は自分の目に前に置かれたモモンパイの皿を持ち上げる。
最後の一口をフォークに刺して、こちらにずいと差し出した。
じゃらり、と彼の手首についた鎖が揺れる。
『とりあえず、ここにいることにする』
少しだけ緩んだ口元に、釣られて口角が上がる。彼を真似て差し出されたフォークを口に含んだ。
「ねえ。……翠って呼んでいい?」
フォークをお行儀よく皿に戻した彼にそう問いかける。
彼は不思議そうな顔をして、そして不思議そうな顔のまま頷いた。
『好きに呼べ』
「ん、そーする。ありがと」