痛みだ。
終わることのない、絶望を腹いっぱいに貯めた、暴力的で残酷で、損得のためだけに生み出された、非道い痛みだ。
分厚いガラスを隔てて向こうに居る生き物はこちらと手元にある資料とを交互に見ながら時折そこら中に大量に設置されたボタンやらレバーやらを弄繰り回している。
そのたびに身体には痛みが、不快感が、絶望が走った。
右手首に呪いのような重さが纏わりついて胃の中の全てが喉元まで持ち上がってくるような気がする。
きっと自分はこのまま一生を終えるのだろうとどこかでぼんやり思っていたが、まさかそれに終わりが来るとは。
体温を奪っていく薄緑色の気持ちの悪い液体の中から出されたと思ったら、大きな鉄の塊の中に詰め込まれ、あまり親切ではない揺れを感じた。一体どこに連れていかれるのかと身構えていたら鈍い衝撃とガソリンの匂い。
そこで記憶が途切れて、たった今目を覚ました彼の目の前に広がったのは噎せ返るほどの薬品の匂いが充満する無機質な真っ白い天井ではなく、甘く香ばしい匂いが鼻先を掠め控えめなシャンデリアが設置されたアイボリーの天井だった。
『…っ!』
上半身を起こし周囲を見渡す。
自分が寝かされていたのは白いソファ、目の前にはローボードに乗ったテレビ、タンス。
タンスの上には小物に紛れて質素な写真立てが置いてある。
少し色褪せたその紙面には可愛らしく微笑む少女と優雅に微笑むサーナイトが映っていた。
「あ、良かった。目が覚めたんだ」
写真を凝視していた彼は突然かけられた声に驚き、動きを止める。
視界に滑り込んできた声の主は紅色の目を細めながらソファの前に設置されていたテーブルの上に手に持っていたトレーを置いた。
鮮やかな緑色の三つ編みが肩口から垂れ、ふわりと柔らかそうに揺れる。
彼女と目が合った瞬間、瞼の裏にノイズが流れ、彼は顔を顰めた。
"おはよう、…"
"今日こそ出てきてくれるかな。待ってるからね"
聞き覚えのある声が脳みそを揺らし思わず彼は耳を塞ぐ。
じゃら、と手首についた鎖が音を立てた。
「大丈夫?どっか痛い?」
きつく目を閉じている彼の背中を女性はゆっくりと撫でる。
その柔らかく温かい指先に少しずつ頭痛は収まっていった。
やがて落ち着きを取り戻した彼は勢いよく女性の手から離れソファの端で身構える。
彼女はその様子にぽかんとした後、小さく笑った。
「そんなに身構えないでよ。別に取って食おうってんじゃないんだから」
からからと笑う彼女を睨みつけながら考える。
ここはどこだろう。
自分は一体どうなったんだろう。
どうしてここにいるんだろう。
どれだけ記憶を掘り返してもやはり記憶はトラックの中で衝撃を感じたのを最後に途切れていて、なぜここに居るのかまでは覚えていない。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、彼女は笑みを浮かべたままトレーに乗っていた小さなカップを持ち上げ、彼の前に差し出す。
「ホットミルク。嫌いじゃないといいんだけど」
彼は差し出されたカップを訝し気に覗き込んだ。
カップの中では柔らかな黄金色が揺れていて、湯気からは甘く香ばしい香りが漂ってくる。
その匂いを感じた瞬間、ずっと忘れていた食欲が頭をもたげた。
カップと、こちらをじっと見つめている彼女の顔とを交互に見る。
正直、まだ彼女に対して警戒を解いたわけではない。
しかし背に腹は代えられない。
恐る恐るカップを受け取り、中にある液体を少しだけ口に含むと、口の中にふわりと甘さが広がった。
少し考えたのち、意を決してそれを喉の奥に流し込む。
すると腹の奥がじんわりと温かくなって、彼は思わず、ほう、と息を吐いた。
「おいしい?」
はっと我に返る。
こちらを覗き込むようにしていた女と目が合ったが、すぐに目を逸らし残っていたホットミルクを一気に飲み干した。
毒など有害物質は入っていない、はずだ。
「うん。気に入ってくれたみたいで何より。ところで、きみ、うちの近くに倒れこんでたんだけど、どうしてあんなところにいたの?」
空になったカップをトレーに戻しながら彼女はそう尋ねる。
だが、記憶のない彼はどうしたらいいか迷い、俯いた。
「…ま、無理して言わなくてもいいけど」
無言の彼に女は優しく笑いかけトレーを持って立ち上がる。
そのまま彼女は部屋の奥のキッチンに消えていった。
途端に静まり返った室内に彼はそわそわし始める。
逃げるべきだろうか。
逃げた方がいいのだろうか。
ここは、この場所は、本当に安全なのだろうか。
やがて部屋に戻ってきた彼女は、まだちょこんとソファに座っている彼を見て安心したように息を吐いた。
彼女は開けておいたらしい玄関の鍵を閉め、彼の隣に腰かける。
「きみ、行き場がないなら、ここにいる?」
驚いたような彼の横顔は、カプセルの向こうにいたあの子の幼い頃によく似ていた。