無駄に広い家で、息をしているのは自分だけ。
それが当たり前の景色だった。
父は帰らず、母は消えた。
記憶にある限り二人を最後に見たのはドアの向こうに消えていく冷たい背中。
暖房設備もしっかり整っていて、温度計は適温を指しているのに、酷く肌寒い。
殆ど一日中電気を点けているのに、誰もいない家は何故か薄暗い。
「いただきます」
手を合わせて、自分で作った昼食に口をつける。
"いただきます"に対して最後に返事が来たのはもう何年も前だ。
テーブルの端にはいつの間に帰ってきたのか父が置いたのであろう生活費が置かれていた。
父は大手製薬会社で研究職をしている。
生きていて本当に楽しいのかと思えるくらい、彼は彼の人生の半分以上を職場で過ごし、何やら小難しい研究に没頭していた。
ただ唯一良かったと思えるのは、研究に没頭していても流石に自分の娘のことは忘れず時折帰って来ては生活費を置いていってくれること、そして一緒に過ごして欲しいという願い以外は大方何でも叶えてくれること。
「…洗濯しよ」
会社には設備が整っているのか彼が洗濯物を家に置いておくことはない。
齢十を過ぎたばかりの子供一人では中々洗濯カゴは一杯にならない。
前に洗濯したのはいつだっただろうか。
石鹸の香りに巻かれながら、庭先にある物干し竿に数日分の衣類をかけていく。
ふわりと草の匂いのする風が髪を巻き上げ、思わず手に持った空のカゴを離して髪を押さえる。
「あっ…かご」
前髪が舞い上がるのも気にせず風に攫われたカゴを追いかけていた視界に飛び込んできたのは、茂みの中に無造作に転がされた小さなタマゴ。
この世に生を受けて初めて目にしたそれに思わず立ち止まる。
がらがらと、カゴが地面を転がる音が遠ざかっていった。
勿論、メディアやら絵本やらで題材になることもあるのでポケモンのタマゴという存在自体は認識している。
だが、いざそれが目の前にあると未知との遭遇のようで足がすくんだ。
タマゴは時折小刻みに動き、その度に中からはからころと音がする。
「ど、どうしたら」
この場所は父が建てた我が家の敷地内だ。
周辺住民であればそれはわかっているはず。
となれば遠方に住む人間がわざわざ捨てに来たのか、それとも親ポケモンに愛想を尽かされたのか…周囲を見渡すが人どころかポケモンの気配すらない。
やっと齢二桁になった自分の脳には現状を打破する策など到底浮かぶはずがなかったが、ここでタマゴの存在を見なかったことにして踵を返せるほど大人でもなかった。
恐怖心を抱えたまま恐る恐る久方ぶりに目撃した自分以外の呼吸に近づく。
そっとタマゴの前に座り込んで、指先でそっと滑らかな表面を撫でた。
その瞬間、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃が指先を伝って脳髄を駆け抜ける。
随分久しぶりに感じた生物のぬくもり。
最後に親に抱きしめられたのはいつだっただろうか。
震える腕でタマゴを抱きしめると触れている部分全てから体温が流れ込んできて、だだっ広い家で一人で過ごすことが日常化してからずっと感じていた寒気が引いていく。
「あったかい…」
体温を共有したことで、目の前にある存在が途端に愛おしくなった。
自分の身長の半分くらいしかないそれをそっと抱え上げて落とさないよう慎重に自室まで運び込む。
フローリングに何重かに折ったタオルを敷き、優しくその上にタマゴを寝かせた。
隣にそっと寝転がり、タマゴの頂点から下までそっと手のひらを滑らせる。
腹部に触れているフローリングは冷たかったが、昨日までより寒くはなかった。
* * *
「結局、そのタマゴは次の日急に帰ってきた父親に持っていかれちゃったんだけれどね」
そこまで言い彼女は微笑んだ。
その目元がいやに苦しそうで、息を呑む。
かける言葉を探っていた次の瞬間、彼女は急に口元を押さえて屈みこんだ。
「っごほ、」
『?』
「ごほ、っごほ、」
『おいどうした。大丈夫か』
彼女の細い喉からは押し出されるように空気が漏れ、次第にそれは激しさを増していく。
自分の問いかけに彼女はこくこくと頷くが、呼吸すらままならないほど咳き込むその姿にどうしたらいいかわからず愛しい顔を覗き込んだ。
ふと見えた真っ赤な手のひらに、喉がひゅうと音を鳴らす。
彼女の桃色の唇から鮮血があふれ出ているその様子を愕然とただ見ることしかできなかった。
彼女の細い指では抱えきれなかったのか隙間から零れ落ちた紅色がつい先日掃除したばかりのフローリングに落ち、血溜りを作る。
『優っ…!!』
「だい、じょうぶ…だから」
彼女は呼吸を整えながら、ぐい、と手の甲で口元を拭った。
顎を伝って落ちたらしい血で襟元が真っ赤に染まっている。
『だ、大丈夫って…大丈夫なわけが…!!』
「大丈夫。たまにあるの。…後遺症、みたいなものなんだけど」
何故お前は笑うんだ。
苦しそうに眉をひそめながら、どうして目を細めるんだ。
すっくと立ちあがった彼女はリビングにある棚から小瓶を取り出し、くいとそれを喉の奥に流し込む。
「私の髪ね、元は黒かったの。目の色も、赤くなかった」
『…? どういう、ことだ』
彼女が握った小瓶から、ぴしり、と音がした。
小さな欠片が足元に落ちる。
「父さんにとっては……実の娘ですら、研究対象だったの」