こぽこぽと、彼女の口から漏れる二酸化炭素の気泡を眺めている時間が、唯一気の許せる時間だった。
冷たいカプセルに背中を預け、耳の裏で彼女の呼吸音を聞きながらただ一方的に言葉を紡ぐ。
「ねえ。あたしね、たまに夢を見るんだ。あなたを拾った時の夢」
返事なんてない。
あるはずがない。
だけど、彼女のぬくもりは確かにそこに在った。
「まだタマゴだったあなたは、家の裏山に転がっていたんだよ。最初はびっくりしたけど…そっと近づいて触れた瞬間、鼓動が聞こえてきてね。ああ、この子は生きているんだなって、思ったの。もしかしたら家族が出来るかもって」
小さな温かいタマゴを抱えて、帰宅したあの日…久しぶりに自分以外の生き物の気配を感じながら眠りについたのを覚えている。
「父さんは仕事人間で帰ってこないし…母さんはいないし。あなたと出会えて本当に嬉しかったんだよ」
こつん、と後頭部を彼女に寄せる。
「あなたがいたから寂しくなかった。あなたがいたから此処まで頑張れた。あなたがいたから、あなたと一緒に、明日を生きたいと思えた」
声も聞けていないけれど。
手を握る事すらできていないけれど。
大丈夫。
もう少しであなたとの間に隔てられた分厚いガラスを破れる。
そうしたら飽きるほど話をして、ふやけるくらい手を握って、二人で色んな所に行こう。
「ここを出たらまずはミアレシティに行こうか。美味しいもの食べて、お買い物して…あなたがしたいこともたくさんしよう。今まで当たり前に出来なかったことを、二人で経験しよう」
ふい、と背後にいる彼女に視線を向ける。
気が付かないうちに孵り、強制的に最終進化までさせられた彼女の瞼を見つめた。
「心配しなくても、好き勝手やっても大丈夫なように色々握ってるんだ。悪事の証拠とか…世間に公開されたら困るような情報とか、ね。もし喧嘩売ってきたらこれチラつかせて黙らせてやるの」
そう息巻く。
いざその時になったら自分は気丈に振舞えるか、この強大な勢力に立ち向かっていけるか不安で不安で仕方なかったけれど、彼女と一緒なら不思議と何でもできるような気がした。
そう思えたのはきっと、ずっと閉じられていた彼女の瞼が、ゆっくりと持ち上がったからだろう。
「……ッ!!」
先ほど盛大に巻いた息を呑む。
タマゴだった彼女と出会ってもう七年近くの月日が経っていたが、彼女と目が合ったのはこれが初めての事だった。
ぱちくりと、その真っ赤な瞳は何度か瞬きをし、そしてくしゃりと細められる。
彼女の白い指先が分厚いガラスの向こうに触れたのを見て、少しでも彼女を感じられるようにとガラス越しに彼女の手のひらに己をそれを宛がった。
相変わらずそれはひんやりと冷たい。
だけど、彼女は確かに、そこに在った。
「…もう少し。もう少しだから。待っていて、碧」
そう言うと彼女はもう一度目を細めて、こくり、と小さく頷いた。
* * *
『…優、』
不安そうな彼に見上げられ、過去に飛び立っていた意識は引き戻された。
過去を振り切ろうと首を振って自分を見上げる翠に大丈夫だと笑みを浮かべるが、瞼の奥では彼女の笑顔が、体温が、死に顔が、ぐるぐると回る。
『話せば…楽になる、か?』
そう言って首を傾げる彼に、申し訳ないが首を振った。
「ありがと、翠。でも話して……ううん、放して楽になるくらいなら、あたしはあの子を抱えたまま苦しみたいの」
ぎゅう、と。
指先だけに柔らかい圧迫感を感じて思わず自分の手を見つめる。
そこには、彼の真っ白い指が巻き付いていた。
『口に出したくらいで放れていく記憶など、その程度のものだと思うがな』
「……言うじゃんか」
『俺だけが置いてけぼりなのはもう飽きた。すべて話せ』
こちらを見上げるその瞳も指先も小刻みに震えている。
命令口調ではあったものの、彼の表情からはありありと不安が見て取れた。
そんな顔をしなくとも、彼を放り出すことなど億が一にもあり得ないというのに。
「…わかったわかった。あたしの負け。話すよ。話すけど、面白いもんでもないよ?」
そう言った瞬間、彼の口が安心したように緩むのが分かる。
彼を少しでも安心させられるよう、不安そうな彼を抱き上げて一緒にソファに座り込んだ。
「何から話すべきかな」
本当に、両手で抱えても抱えきれないくらい、色々なことがあった。
出会いも別れも喜びも悲しみも悔しさも…本当にたくさん。
「結構長くなるからね。寝ないでよ。翠」
『お前の話だ。一秒たりとも取りこぼすものか』
「愛が重いなあ」
笑って見せると、彼も釣られて口角を持ち上げる。
そんな彼の様子に安堵しながら、ぽつぽつと、密封していた過去の封を解いた。