潮の香りが鼻先を掠める。
製鉄所を後にしてから数十分、少しだけひやりと肌寒い風を浴びながら綺羅はミオシティに降り立った。
『やっと着いた~』
そう言い、鈴は何度か羽を羽ばたかせる。
「鈴、お疲れ様。長旅させてごめんな」
『んーん! お安い御用だよ、綺羅ちゃん。でもちょっと休ませてね』
大きく伸びをした鈴はにこりと笑うと自分から腰に下げたボールの中に戻っていった。
それと入れ違うようにして外に飛び出してきたのは、魅雷。
『うおおお! これが"うんが"か!!』
「わっ、ちょ、魅雷、危ないからあんまり近づくな!」
飛び込んでしまうんじゃないかと思うくらいの勢いで運河に駆け寄り、覗き込んだ魅雷の手を慌てて掴む。
後から焦ったように蓋が擬人化した状態で飛び出してきた。
遅れて他の仲間達も慌てて飛び出してくる。
「おい二人一緒に溺れる気か?! こんなとこに落ちたら船に轢かれて木っ端微塵になるぞ。下がれ下がれ」
『ひえ…ご、ごめん……』
木っ端微塵という言葉に怖気づいたのか、魅雷は少しだけ震えながら数歩後ずさった。
それでもやはり初めて見る運河にテンションは上がったままのようで、尾をぱたぱたと振りながら船が通るたびに揺らぐ水面をしきりに見つめている。
魅雷が何かの拍子に飛び出していかないようしっかりと手を握りつつ、楽しそうな彼の隣に並んで運河を覗き込んだ。
『水、綺麗だなっ』
「……ああ。そうだな」
にこり、と笑った魅雷に釣られて思わず笑みを浮かべる。
『それにしても随分長閑な町だな』
『ええ。住みやすそうでいいですね』
今回この町に訪れた目的は本当にただの休息のため。
マキシさんに釘を差されたからジム戦は暫く休んでおくとして、さていざ何をしようと頭を抱えたその時、綺羅の服の裾を麗水がつまんで引っ張った。
『ねえねえ、マスター』
「ん、どうした、麗水」
『あれ、あの建物なんだろう?』
麗水が指したのは運河を超えた先にある大きな建物。
どこかクラシックな佇まいをしたその建物の正体はこの距離からではわかりそうにない。
「行ってみようか。ほら、お前たち、ボール戻れー」
休暇ということもあって各々好きに周囲を散策していた仲間たちを集合させ、ボールに戻す。
そして小走りで運河に架かっている桟橋を駆け抜けた綺羅は先程気になった建物の前で足を止めた。
「えーと……ミオ図書館……へえ、図書館なんだ」
『としょかん? ってなんだ?』
「本屋さんみたいなもんだよ」
『魅雷、図書館ってのは静かにしなきゃいけない場所だからな。大人しくしてるんだぞ』
『そうなのか! わかった!』
『……あの人、保護者っぷりが板についてますね』
『あれはもう親の素質がどうとかじゃなくて、完全に親だね』
『本当に苦労しそうな性格してるよな』
『おっさんくさーい』
なんて仲間たちの声を聞きながら図書館に足を踏み入れると、ふわりと紙の匂いが漂ってくる。
壁一面に設置された自分の身長より二倍ほど大きな本棚にはびっしりと本が詰められていて綺羅は思わず言葉を失った。
そのまま何を探すでもなくぎっしりと並べられた本の背表紙を端から順に眺める。
「この辺は小説、か……えっと、他の本は…」
これといって目ぼしい背表紙は見つからず、そのままゆっくりと歩みを進めた綺羅は三階にある児童書のコーナーでぴたりと足を止めて一冊の本を手に取る。
表紙に仰々しく「始まりの話」と刻まれているその本はひどく色褪せていて随分と年季が入っていた。
文字を流し見しながらぱらぱらとページをめくる。
……だが、その数秒後、視界に飛び込んできた挿絵に思わず身が凍った。
ページいっぱいに描かれている挿絵、そこにはそれぞれ青色、桃色、黄色をした三匹のポケモンが描かれている。
「これ、は……っ」
絵本なので大分簡略化して描かれているけれど間違いない、彼らだ。
記憶の中にある、三匹のポケモンの姿。
一体彼らが何なのかがわかれば、自分のすべきことに一歩近づける……はず。
そう思い絵本の全ページを血眼になって読み込んだけれど、そこには彼らの名前すら書いておらず結局なにもわからないまま本を元あった場所に戻した。
だけどこういった本があるということは他にも何かヒントになるようなものもあるかもしれない。
探してみようと本棚を見上げたその時。
「おや、綺羅じゃないか」
そう声を掛けられ、振り向くと立派な白ひげを蓄えた男性と目が合った。
「ナナカマド博士……? どうしてここに」
男性もといナナカマドは少しだけ目を細める。
久しぶりに見る彼は相変わらず少し無愛想で厳格な雰囲気をまとっていた。
この人を目の前にすると何故か背筋が伸びるんだよな。
「いやなに。研究が少し詰まってしまってな。気分転換と資料探しに来てみたんだ。綺羅こそどうしてここに?」
「ちょっと探しものを。あっ、そうだ、博士。このポケモンのこと、何か知りませんか?」
日夜ポケモンについて研究をしている彼なら名前くらいはわかるかもしれないと思い、一度本棚に戻した先程の本を再び手にとって、挿絵のページを見せる。
彼は顎に手を当てながらまじまじと挿絵を見つめ……そして首を傾げた。
「力になれず申し訳ないな。だが、こんなポケモンは見たことがない。絵本に描かれているくらいなのだから恐らく伝説のポケモンなのではないか?」
「伝説の…ポケモン…?」
「このシンオウには三つの湖があるだろう?シンジ湖、リッシ湖、エイチ湖…それらにはそれぞれ伝説のポケモンが住んでいると昔から言われている。もしかしたらそれが描かれているのかも知れないな」
流石の彼でも名前まではわからないか、と肩を落とした瞬間。
目の前にある本棚がかたかたときしみ始めたと思ったら、途端突き上げられるような揺れが足元を襲う。
続いて思わず耳を塞いでしまうような爆音が聞こえてきた。
と、同時に。
「綺羅ッ!!」
蓋が飛び出してくるよりも早く、陽葉がボールから擬人化した状態で飛び出してきて綺羅を抱きしめる。
遅れて出てきた蓋も他のパートナー達も彼女を囲んだ。
揺れはほんの数秒続き、やがてゆっくりと収まっていく。
周辺に落ちている大量の本が揺れの大きさをこれでもかと物語っていた。
「暫く見ない間にずいぶん賑やかになったんだな」
「あはは…おかげさまで」
驚いたような顔をしていたナナカマドは、仲間たちにぎゅうぎゅうに囲まれている綺羅を見て薄く笑みを浮かべる。
だがすぐに何かを思い出したように歩きだすと図書館に設置されていたテレビを点けた。
ぷつり、と音を立てて浮かび上がった画面には黒煙が立ち上がる森を撮影した映像が流れていて、続いて慌てたようなテレビアナウンサーの声が静かな室内に響き渡る。
「今ご覧頂いている映像はたまたま現場に居合わせたカメラマンが撮影したものです。爆発があったのはリッシ湖。現在、事態は収束に向かっているということですが一体何が原因で爆発が起こったのか等は一切判明しておらず…」
そのアナウンスを全て聞くこと無く、綺羅は気がつけば駆け出していた。
「綺羅?! まさか、リッシ湖に行こうとしてないだろうな?!」
背後からナナカマド博士の焦ったような声が聞こえるけれど……足は止まらない。
「俺が行かなきゃいけないんです」
「やめなさい、危険だ!!」
彼の静止を振り切り、図書館を飛び出す。
リッシ湖に行くには……鈴の力を借りるしかないか。
そう思い、鈴が入っているボールを手に取った。
と同時にボールを握っている手を背後から大きな手に包み込まれる。
「綺羅」
その手の持ち主が誰かなんて確認するまでもない。
……彼には絶対止められるだろうと思っていたから。
「蓋、離してくれ」
淡々と告げると息を呑む音がする。
だけど、まるで抵抗するように、逃すまいとでもするように彼の腕の中に抱き込められた。
「……俺の主人は今も昔も変わらずお前だ。だが、同時にお前は俺の愛娘でもある」
肩に回された彼の両手にぎゅうと力が籠もっていく。
「俺は大切な娘をみすみす危険地帯に送り出すようなことはしない。……いや、したくない…」
ひどく震えた声に心臓のあたりが締め付けられた。
だけど……だけど。
「行かないでくれ、綺羅……頼む…」
"頼む"なんて、初めて言われたかもしれない。
彼はいつもどんな無茶をしようと何も言わずついてきてくれたから。
小刻みに震える彼にそっと腕を回し、その背を撫でながら心地よい香りに頬を擦り寄せる。
「俺、思い出したんだ。なんで旅に出ようと思ったのか。蓋、黙ってついてきてくれたけど、ずっと気にしてたよな」
彼は今、どんな顔をしているんだろうか。
「言われたんだよ。"救って"って。……だから、俺が行かなきゃいけない」
そっと顔を上げると、くしゃりと顔を歪ませた蓋と目が合った。
「ごめんな、蓋」
「……謝るならやるな」
蓋はため息交じりにそう言うと、綺羅の前髪をかきあげ……そして。
「いってぇ?!」
人差し指で額を弾いた。
ぺち、と小気味よい音が鳴って、蓋は喉の奥でくつくつと笑う。
「まったく。じゃじゃ馬娘を持つと苦労する」
それから腰に提げてある、自分のモンスターボールのボタンを押した。
ぐぱ、とボールが口を開き、彼の身体を淡い光が包む。
「お前のことはこの命に代えてでも守るつもりだ。だが俺は万能ではない。くれぐれも無茶はしてくれるな」
その目には確固たる覚悟が宿っていた。
こりゃ全部終わったらお説教コースだな……。
まあでも、無事に生き延びることができたらそれも悪くないだろう。
「皆、ごめんな。我儘な主人で」
かたかたとボールが揺れる。
誰も何も言ってくれないので怒っているのか、励ましてくれているのか、はたまた別のことを考えているのかはわからないけれど……でも、NOと言われない限り彼らの意思はOKのはずだ。
少しだけ不安を覚えながら恐る恐る鈴のボールを手に取り、ボタンを押す。
光をまといながら現れた鈴の表情からは何を思っているか読み取れなかった。
『綺羅ちゃん』
「……ごめん」
『謝るならやらないでって蓋くんにも言われたでしょ? その気持ちは僕も同じ。……綺羅ちゃん、君は僕たちの主人だ。だから謝るんじゃなくて、いつも通り僕たちを導いてくれれば良いんだよ。そうじゃなきゃ僕たちは不安になっちゃうから』
鈴の黒い瞳に自分の顔が反射している。
なるほど確かに、余裕のない顔だ。
こんなんで飛び出してしまったら心配されても仕方ないだろう。
「……これは、俺の我儘だ。だけどこれを乗り越えたら、やっと俺はお前たちと本当の意味で"旅に出られる"と思う。だから力を貸してくれ。俺に絡みついた過去を払拭するために……お前たちと、意味もなく笑って過ごせるようになるために。……頼む」
そう言うと鈴は満足そうに笑い、そしてこちらに背を向けた。
『ん、上出来。ほら、早く乗って。……リッシ湖、行くんでしょ? 飛ばすからしっかり掴まっててよね!』
「……ああ。任せた」
耳元で力強い羽音が鳴る。
ぐんぐん遠くなっていく地上を眺めながら、綺羅は静かにその瞳に決意を灯すのだった。