一度死んでいる、という表現は些か語弊があるだろう。
“前世の記憶がある”と言ったほうがしっくり来るかも知れない。
時折瞼の裏にフラッシュバックする、青と黄色と桃色とが跳ね回っている景色、低い目線、そして、真っ赤な靴底。
紙芝居のように脳裏を駆けるそれらは……自分の前世、ポケモンだった前世の記憶だ。
「……う、」
楽しそうな笑い声に、吐きそうなほどの痛み、肉が潰れる感触、骨がひしゃげる音。
今の自分はどこも痛くないはずなのに、どこも苦しくないはずなのに、脳にこびりついた痛みが戻ってくる。
……いや、痛くないは嘘だ。
蓋に噛まれた肩と頭突きを食らった腹部がとんでもなく痛い。
正直、意識を保つのでやっとって感じだ。
彼がここまでしたということを考えると自分は相当錯乱していたんだろう。
本当に申し訳ない。
「無理するんじゃない」
背中に添えられた蓋の手が温かい。
彼には出会ったときから迷惑をかけてばかりだ。
「うん……。いや、大丈夫だよ。……大丈夫」
「綺羅……」
言い聞かせるように繰り返す。
だが、自分を見つめる蓋の顔にはありありと不安の色が滲んでいた。
念を押すように繰り返した“大丈夫”がただの強がりであることなんてとっくにバレているだろう。
「俺は、ポケモンだった」
「……“だった”?」
「憶測でしか無いけど、多分、前世の記憶ってやつ、だと思う」
絞り出すように、古傷を自ら抉るように、ぽつぽつと話し出す綺羅。
普段の蓋なら、言いたくないなら無理に話す必要はない、と声をかけるのだけど、今日の彼はそれができなかった。
……いや、しなかった。
震える小さな肩を唇を噛み締めながら撫でる。
彼女がずっと自分に隠していた、深淵に眠る“なにか”。
それを知りたいと、一緒に背負ってやりたいと、思ってしまった。
やっと、彼女の傷にふれることができると、そう、思ってしまった。
その事実が……彼女が抱えているものが、たった二人では到底抱えきれないほどの重さだったとしても。
「何があったかまでは覚えてない。……けど多分、俺は何かに巻き込まれて、それで……あの、アカギとかっていう野郎と、ギンガ団に追い回されたんだ。土砂降りの日に、森の中を」
「……だからお前、雨にあたっていたら何かを思い出せそう、なんて言ってたのか」
「うん。……気でも狂ったと思った?」
「正直な」
蓋の言葉に、綺羅は眉を下げて笑う。
冗談が言えるくらいには余裕が出てきたらしい彼女に蓋は気づかれないよう安堵の息を吐いた。
「でも、逃げ切れなかった。自分がなんのポケモンだったかまでは思い出せないけど……周囲に設置してあった罠にまんまと引っかかって、……それ、で」
こびりついている記憶の中で、一番鮮明に映し出される、あのシーン。
嘲笑、憐憫、そして確かな殺意。
「罠にハマって動けなくなった俺は、数人に踏みつけられた。何度も……。足が折れて、耳も千切れて……生き物としての原型を保っていなかったかも知れない」
「……ッ」
絶句する。
今の彼女がそうなっている様を思わず想像してしまい、蓋は一瞬呼吸を忘れた。
「耳も鼻も効かなくて、唯一残っていたのは右目の視力だけ。そんで、あいつが……アカギが、俺に向かって足を振り下ろすのを見ていることしか出来なかったところで、記憶は終わってる。多分、ここで事切れたんだと思う」
こんな爽やかな朝に話すには申し訳ない内容だ。
いつの間にか、外から聞こえていた鳥ポケモンの鳴き声は聞こえなくなっている。
「ただ、一個だけわかんねえことがある」
「わからないこと?」
「この記憶を前世とするなら……俺は今、生粋の人間のはずだよな」
「……!」
目を見開く蓋から視線をずらした綺羅は、何度か右手を握り、開くを繰り返した。
すると、彼女の指先は徐々にであるが、ばちばちと黄色い火花を散らし始める。
「……これは、人間にできることじゃ、ねえよな」
遺跡の中で暴れていた彼女の姿。
少なくとも普通の人間とは思えないその様子を、たしかに蓋も目撃した。
そして何より、彼女から放たれる電撃を、その身に受けたのだ。
今まで電気タイプのポケモンと戦ったことは幾度となくあるけれど……タイプ相性がいいはずの蓋に殆ど瀕死のダメージを入れた彼女を、普通の人間だと思うほうが難しいだろう。
「それにお前達の声が聞こえるのも。特異体質かなんかかと思ってたけど……前世が関係してるんだとしたら、辻褄が合う」
辻褄が、合ってしまう。
しかしこの辻褄が合うと、この記憶は前世の記憶と判断するのは難しくなる。
仮にこれを前世の記憶ではなく……何か、今こうして生きている自分と明確に繋がりがあるなにかとするのなら、それはつまり……自分は普通の人間じゃないと認めるということで。
何時ぞや、街に出たときに聞こえてきた、自分を“気持ち悪い”と詰る声が耳の奥で反響する。
人間じゃない……かといって、ポケモンでもない。
自分は一体、何なのだろう。
「綺羅」
指先に蓋の手が触れる。
ばち、と静電気が弾けるような音がして一瞬彼は痛そうに顔を歪ませた。
だけどすぐにいつもの笑みを浮かべると、いつも導いてくれたその手を、絡ませてくる。
「……蓋、俺、怖いよ……。自分が、自分じゃなくなるみたいだ」
まだピースは全て揃っていない。
それをすべて揃えた先にある真実は自分が思っているものとは全く違うものかもしれない。
もしかしたら、蓋や、みんなを、傷つけるような結末を迎えてしまう可能性だって十分にある。
それが堪らなく怖くて、直視できない。
「俺、……っ、俺は、何なんだろう……っ」
綺羅の目尻から大粒の涙が零れ落ちる。
旅に出てから彼女の泣き顔を見たのは、初めてのジム戦以来かも知れない。
思えば、旅に出ると決意してからの彼女は決して弱みを見せようとはしなかった。
傷を必死に隠して、何にもないふりをしていた。
こんなに、彼女の小さな体なんて簡単に押し潰されてもおかしくないだけのものを抱えながら。
何も話してくれなかった綺羅にも少し苛立ちを覚えたが、何より違和感を覚えながらも見て見ぬ振りをしていた自分にもっと腹が立つ。
「お前がなんだろうと、関係ない」
「……え?」
ぼろぼろと溢れてシーツにシミを作っていた彼女の涙が止まった。
目尻に残っていた一滴を拭ってやり、ぐじゅぐじゅに湿った綺羅の瞳をまっすぐと見つめる。
「綺羅は綺羅だろう。他のなんでも無い。それともなんだ? 今まで俺たちと一緒に過ごしたお前は演技でもしていたのか? 偽物だったのか? 腹の底では言葉とは違うことを思っていたのか?」
「そ、んなことっ」
「ないだろう? なら、いい。お前はこれまでも、そしてこれからも……変わらずやんちゃで無鉄砲で、手のかかる俺の愛娘で、大事な主人だ」
一度引っ込んだ涙が再び零れ落ちた。
ただ先程までとは違って、安心から思わず溢れ出たもの。
伸びてきた蓋の手を左手で握って、ずっと絡めたままだった右手をきつく抱きしめる。
「んで、そう思ってんのはどうやら俺だけじゃないらしい」