『わーい!海だー!!!』
ビーチボールのようなまん丸い身体が砂浜を駆けていく。
数度バウンドした彼の身体はそのまま潮水のなかに飛び込んでいった。
激しい水しぶきがあがる。
パラソルの下、水が苦手な蓋と炎とはホテルから借りたビニールシートに並んで座り、水しぶきのなかでチビ組と遊んでいる主人を目で追っていた。
ホテルグランドレイク。
看板にそう記されていたこのホテルは、客室が一つ一つコテージのように独立しておりプライベート空間が保たれ匿名性が高くなっている。
だからというわけではないが大企業の人間やお偉いさんなんかも利用している、らしい。
「いい天気ですね」
「そうだな」
降り注ぐ陽射しを避けるようにパラソルの中で大の男二人が縮こまっている様はそれはそれは傍から見ると奇妙な光景だっただろう。
「海、入らないんですか」
「そっくりそのままお返しする」
とりあえずフロントで渡された水着に着替えてはみたけれど、ポケモンとしての本能か人型でも苦手なもんは苦手なようだ。
寄せては返す波打ち際に立つのすら背中が震える。
「先日聞けなかったことを聞いてもいいですか」
炎は真横から蓋の視線を感じたが、その視線に返すことはせず続けた。
「綺羅さんのこと、知ったところで何も変わりませんが知らずにいられないほど僕は彼女が大切です。知っているからこその支え方があるはず。だから、教えてください」
「……言っている意味がわからんな」
「湖での言葉。貴方は何かに気付いたと僕はそう感じましたが」
すると蓋は小さく溜息を零し姿勢を崩す。
「あいつは、森の中に捨てられていたんだ」
観念したように紡がれたそれを、眩しい彼女から視線を外さないまま黙って聞いた。
水面を翔ける彼女の足元で跳ねた飛沫が太陽を反射して煌めく。
彼女の出生はその光の中で踊るようにはしゃぐ眩しい笑顔からは想像できそうになかった。
「なんてことはない。ただ俺達の言葉がわかるだけの普通の子供だったよ。あいつを手放す理由なんて皆目見当がつかないが……まあ、今となっては彼女が森に居た理由なんて些細なことだ。ここからが本題だが、お前は以前、違和感の正体を知りたいと言っていたな。残念ながら俺はその違和感の答えを持ち合わせてはいない。だが」
一呼吸置き、蓋は視線を前方に戻す。
「お前が感じた"違和感"は、どんなものだった?」
「……匂い、ですかね。それから、距離」
「距離?」
「ええ。感じたことはありませんか? 人間が僕たちとの間に引いている一線……みたいなものを。それが彼女からは感じられない。それどころか、彼女は逆に人間に対して一線を引いているような気さえします。そんなところまで、僕たちに似ている。いえ、僕たちに"近い"という言い方の方がしっくり来る」
そう言うと彼は少しだけ唸り、俺は、と続けた。
「あまり綺羅以外の人間と長期間過ごしたことがないから他の人間との比較はわからん。逆に、あいつが"遠く"感じることが時折ある」
「遠く……ですか」
「あいつは俺が知っているあいつ以外の顔をすることがあるんだ。特に、雨の日は」
ぼうっと天の恵みを浴びている彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
酷く大人びた、感情のない彼女らしからぬその表情を自分も確かに目にしていた。
「あの冷たい瞳も、あの人なのだと思っていました」
「あいつなのには変わりないさ。きっとあいつは最初からああいう顔も出来るやつなんだろう。ただ……それを、俺たちに話してくれないだけでな」
どれだけ傍に居ても、触れていても、彼女の深層に辿り着けない。
ただ悔しさと寂しさだけが募っていく。
あの表情も彼女そのものなのだろうと無理やり飲み込んでいたが、きっともうとっくに十何年も彼女と共に居た彼は飲み込み切れなくなってしまったんだろう。
「なあ、炎。もう……待つのは飽きたと思わねえか?」
「はい?」
蓋のその言葉に首を傾げたその時、視界の中にひょっこりと愛おしい目元が飛び込んできて、思わず固まった。
頬を手のひらで支え、しゃがみこんでこちらの顔を覗き込んでくる彼女の細い四肢は潮水を滴らせ艶めいている。
黒い髪はしっとりと湿り、笑みを湛えた頬は日焼けからか少しだけ桃色に染まっていた。
普段はあまり肌色を見せない彼女のその姿に思わず心臓が跳ねる。
人間を相手に心臓が跳ねる、という感情も彼女と出会って初めて得た感情だ。
「何の話してんの?」
「楽しそうでいいなって話」
「あー。蓋も炎も水苦手だもんなー。と思って、ほい。おすそ分け」
彼女が差し出した小さな手のひらには、小ぶりの巻貝が握られている。
「ほら、貝からは海の音がするっていうだろ」
「……この距離なら流石に音は聞こえるぞ」
暫しぽかんとした後手元にある貝殻と少し遠くにある海とを交互に見て、本当だ、と首を傾げる彼女に思わず頬が緩んだ。
「っふ……あははっ」
「く、ふふ……っ」
「二人とも笑うなんて酷いぞ! 折角つまんないだろうなーと思って持ってきたのに!」
頬を膨らませる彼女に謝りながら、水が滴るその髪に手を伸ばす。
が、その手は良い音を立てながら弾かれた。
自分の隣に座る男によって。
「おい。どさくさに紛れて何しようとしてんだお前。うちの娘に気安く触るんじゃねえ」
「親バカは大概にしてください。そんなんじゃ反抗期が来るのも時間の問題ですね」
「あ?ほざけ。ウチの娘は良い子だから反抗期なんて来ませんー!」
「子供ですか! 良い年した大人が頬を膨らませるんじゃありません気持ち悪い! てか貴方そんなキャラだったんですか?!」
「なんか仲良くなってる……」